学生ガイドになる! 覚悟を決めて、はじめの一歩 〜青春の京都学生ガイドクラブ〜
高校を卒業したわたしは、京都女子大学に進学しました。
初めての大学生活。とある授業で、大教室に足を踏み入れたわたしに運命の出会いが待っていました。
机の上に置かれた1枚のチラシ。
そこには「あなたも学生ガイドになりませんか?」と書かれていました。
「これだ! やっぱりあったんだ!!」わたしは即決しました。
とある理由で、わたしは大学入学前から「京都で学生生活を送るんだから、学生ガイドになろう」と思っていました。教室にチラシが置いてあるなんて、いちいち調べる手間がはぶけて、これはちょうどいい! わたしは、早速、チラシに書かれていた「京都学生ガイドクラブ説明会」の会場に足を運びました。
そもそも、学生ガイドという仕事は、やろうと思ってもすぐできるものではありません。
京都(&奈良が基本ですが、大阪・神戸・琵琶湖も含む)の観光に関する、ありとあらゆる知識を覚え、車窓から見える風景を的確に案内できるスキルを身につけ、そして、観光地間を結ぶ最適なルート、交通規制、果ては、観光地の入場料の支払い、駐車場、お土産、トイレ事情まで精通している必要があります。
わたしたち学生ガイドを現地ガイドとして使うことで、新人ガイドの実地訓練を兼ねる…という目論見を持っているバス会社もありましたし、小さな団体の乗務の際は、ガイド兼添乗員になることもありました。
京都や大阪の地元バス会社の仕事の場合は、バス車庫の出庫から乗務しましたので、バスの清掃や駐車場での笛を吹いての誘導もやりました。(笛の誘導、わたし結構うまかったですよ!)
地方のバスに乗務してくる新人バスガイドさんの中には、教本を読みながらのガイドが許されている人もいましたが、それはわたしたち学生ガイドには御法度です。
何よりも「京都の学生ならではの詳しい現地ガイド」としての立ち位置が求められていたので、「仕事を受けるからには、お金をいただく限りは、「プロとして振る舞う」ことが求められていました。
ちなみに、バスガイドと言えば女性のイメージが強いと思いますが、わたしたちの仲間には男子学生も多くいました。
学生が働く……。と言えば、それは「アルバイト」と呼ぶのが普通だと思いますが、わたしたちは自分たちのやっていることを「仕事」と呼んでいました。
なぜなら、アルバイト感覚ではできない仕事なのです。
バスの中では1人ですから、誰にも助けてもらえません。どんなことが起こっても自分1人で責任を持って対処しなければならないという覚悟を持って乗務することが求められていたのです。「自分で何でもやらなければ、仕事にならない」ことを、強烈に学びました。
学生ガイドになるためには、第一段階「室内教習+徒歩教習」、第二段階「バス教習」というステップを踏まなければなりません。仕事ができるレベルに達していないとされたら、たとえ教習期間が終わっても仕事はもらえないのです。
とにもかくにも、わたしは「京都学生ガイドクラブ教習生」になりました。
ゴールデンウイーク明け頃から、室内教習が始まりました。月水金の週3回、大学の授業が終わった後、教習が実施されていた西陣までバスで通いました。
大学から西陣までは1時間くらいかかるんです。当時いた大学の寮は、門限は10時! とは言え、9時45分には戻っていないといけませんでした。遅れたら閉め出されてしまうばかりか、キツイお仕置き(!)が待っていたので、教習が終わったら、ダッシュで帰る日々でした。
教習では、当時発売されていた「日本交通公社の新日本ガイド」というプロ向き(?)ガイドブックを教科書にして学びました。この本は、もう販売されていないのですが、もう、「地球の歩き方日本版」みたいな感じで、こと細かく、ありとあらゆる情報が網羅されていたスゴい本でした。
今は、ファッション感覚で「持って楽しい、見ておもしろい」みたいなガイドブックばかりになってしまいました。これも時代ですかね〜。
教えてくれてたのは、当時3回生の先輩です。もう、ひよっこの教習生から見たら「先生」ですよね。ちなみに、4回生の先輩は「神」でした。
大学に入ってばかりで慣れない頃に、このようにいきなりダブルスクール状態を始めてしまいました。忙しすぎて、アルバイトもできないので、超質素な生活をしていました。でも、「やりたいと思うことができるようになるためだ!」と思えば、がんばれました。
一緒に学んだ仲間がいたのも大きかったですし、この頃、お世話になった先輩方には、今でも全く頭が上がりません。
著者の都築 志摩さんに人生相談を申込む
著者の都築 志摩さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます