雑誌を作っていたころ(44)

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後編: 雑誌を作っていたころ(45)

「お金の学校」


「開業マガジン」が軌道に乗ったころ、発売元のバウハウスから「新雑誌を出したい」という連絡があった。女性向けのマネー誌で、社内で「それなら悠々社だろう」ということになったそうだ。当面はムックで不定期刊行し、弾みがついたら月刊誌化するということだった。

 しかし弱った。社内のスタッフは「開業マガジン」で手一杯。広告営業は兼任で何とかやれそうだったが、編集は誰一人捻出できない。かといって先の見えない不定期刊行物のために人材を増やすわけにはいかない。悩んだ結果、ぼくが自分でやることにした。


 まずはじめにやらなければならないのは、誌名を考えること。社内から莫大な案を集め、何度もブラッシュアップしたのちに最終案を5つに絞った。それをバウハウスに提示し、決まったのが「お金の学校」だった。誰が考えたのかは忘れたが、いい誌名だったと思っている。特許事務所に勤務している先輩に連絡を取り、すぐに登録の手配をした。

 特集記事は、マネーに強い人でないと作れない。さっと頭に浮かんだのが、「ドリブ」時代にマネー記事を担当し、「お金ドリブ」「マネープラン」でお世話になっていたライトルームの岩崎さんだった。すぐ連絡して快諾をもらう。


 その他の部分は友人や知り合いを総動員して埋めることにした。バウハウスから提示されたトータル予算が思いの外低かったために、コストの高いベテランは避け、気鋭の女性スタッフを数多く起用することとなる。その中心となったのが、萩原明子さんである。彼女は巻頭インタビューをはじめとして八面六臂の活躍をした。

 若い主婦をメインターゲットとした雑誌なので、やさしくてわかりやすい誌面を作らなければならない。本来はオールカラーと2色もしくは色紙に特色インクのつくりが妥当だが、バウハウスはここでも予算をケチり、1色(モノクロ)の多い台割構成となってしまう。であればイラストを多用しなければならない。


 表紙のイラストレーションには、ファブリックアートを使いたかった。「お金」というとどうしてもイメージが殺伐としてしまう。男性向けなら「金塊」や「札束の山」とかの写真でもいいが、女性誌なのでほのぼのとした暖かみを出したかったのだ。推薦された中から植月真弓さんに頼むことになり、ラフ案を経て制作を依頼した。

 女性向けだとレイアウトデザインも手が抜けない。図表類を見やすくアレンジし、冷たくならないデザインを早く作ってくれるところとなると、ある程度の規模と実績を持ったデザイン会社になる。悩んだ結果、「ドリブ」を手がけたホットアートに頼むことにした。千駄ヶ谷の事務所に出向くと、社長の望月さんが諸手をあげて歓待してくれた。ありがたいのは昔の仲間だ。


 そうやって生み出した「お金の学校」だったが、内容的には満足のできるものに仕上がったものの、会社の事業としては損得トントンでしかなかった。予算が少ないのにコスト面で工夫できるところがあまりなく、広告営業も芳しくなかったために「開業マガジン」のように広告手数料を期待することもできなかったからだ。

 一般に女性誌の大口広告主は、ナショナルクライアントである。化粧品、アクセサリー、アパレルは大手広告代理店ががっちり押さえていて、不定期刊行雑誌の1号目に予算を割いたりはしない。雑誌のテーマである金融業界はさらに保守的で、かなりの実績を示してからでなければ、年間計画に割り込むことは不可能だ。


 それは作る前から充分にわかっていたことなのだが、実際に蓋を開けてみたら表紙回りを埋めるだけでも大変な苦労だった。にもかかわらず、バウハウスからは「もう少し何とかならないの」とお叱りの声が来る。こんな1色だらけの「女性誌」にお金を突っ込もうとする奇特なスポンサーはめったにいないのに。

 結局、「お金の学校」は3号で消滅した。悪戦苦闘の末にバウハウスの上層部が「この雑誌を定着させるためには、社運をかけるくらいの覚悟が必要」とやっと悟ったからだった。そんなことははじめからわかっていたのに、下請けの意見には耳を貸さないのだ。「意見は聞いてない。作ってくれればいいの」と何度言われたことか。

 この雑誌の失敗が、編集プロダクションとしての限界を感じさせてくれたとすれば、それが最大の収穫だったといえるかもしれない。




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