雑誌を作っていたころ(45)

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日本特撮映画図鑑 東宝編


 ある日、共同印刷の人が訪ねてきた。共同印刷といえば、「月刊太陽」を印刷していた会社のひとつだ。おもに特別企画のページを印刷していて、ぼくも何度もお世話になった。そこの人がなぜ悠々社のような零細編集プロダクションを訪ねてきたのかといえば、販路拡大のためである。

 共同印刷は大手なのだが、凸版、大日本と比べると影が薄い。大手出版社が出している大部数の雑誌はたいてい凸版か大日本なので、その隙間でムックや少部数の雑誌を手がけていた。

 もちろん共同印刷だって大部数の雑誌の仕事は喉から手が出るほど欲しい。とはいうものの、大手出版社に出向いて、「お宅の大日本で刷っている雑誌の印刷、うちにください」と言っても聞いてもらえるはずがない。大手出版社には製作部や生産管理部という、本の製作をコントロールしている部署があって、何らかの理由で印刷会社を決定しているからだ。

 そこで共同印刷が考えたのは、編集プロダクションと二人三脚で営業すること。つまり、編集プロダクションの考えた企画を共同印刷が懇意の出版社に持ち込んで、採用になった場合にその本の印刷の仕事を取ろうという考えだ。それで「何かいい企画はない?」とうちに白羽の矢が立ったのだった。


 ちょうどそのころ、「東宝の特撮映画をまとめたムックをやらないか?」という話が、広告研究会の先輩からきていた。東宝にコネがあるので、成城の特撮倉庫で自由に撮影できるという話だった。東宝が所有しているスチール写真も格安で借りられるという。

 当初はバウハウスに持ち込もうと思っていた企画だったが、バウハウスではすでに「開業マガジン」と「お金の学校」をやっている。あまりに1社に偏るのは、経営的にうまくないと思われた。「全部の卵を同じかごに盛るな」と言うではないか。

 共同印刷と一緒に出向いた出版社は、小石川の成美堂出版だった。名前はよく聞いていたので、立派なビルかと思っていたのだが、着いてみるとバラックのような倉庫兼事務所である。「これはきっとケチな会社か、実質本位の会社に違いない」と思われた。


 応対してくれたのは、スーツ姿の深見社長だった。非常に柔らかい物腰で話を聞いてくれたが、要所要所で目がキラリと光る。絶対にただの気のいいおっさんではない。有力な雑誌を持たない中小出版社を、著名なままで維持するというのは、並大抵のことではないはずだ。

 数日後、企画が通ったという連絡が来た。ただし、こちらの提示した制作費は100万円削られた。最初から赤字ぎりぎりの仕事だ。だが、会社を回していくためにはやむを得ない。さっそくスタッフにGOサインを出した。

 編集は、ぼくとアルバイトの佐藤航くん。佐藤くんは若いが器用な子で、フィギュアオタクでもあった。特撮映画もかなり観ているので、話が早い。カメラマンは清水さんと島くん。レイアウトはご近所の川口さんに依頼した。最初から少数精鋭で臨むことにしたのだ。なにしろ予算が削られているのだから仕方がない。

 成城の特撮倉庫での撮影は、苦労の連続だった。古い木造の倉庫なので、電気の配線が容量不足なのだ。強力な光源が使えないので、貧弱な明かりでスローシャッターを切るしかない。手で運べるものは、屋外に出して並べて撮った。


 薄暗がりの中で頭上を見上げると、ずらりと飛行機の模型が吊り下げられている。零戦、隼、紫電改、一式陸攻、九九艦爆、ムスタング、ワイルドキャット、ライトニング、B29……。F86Fセイバーもある。棚には戦車やジープに混じって、何だかわからない部品がいっぱい。特撮好き、軍事好きの人にとっては、まさに宝の山だ。

 別の一角に行くと、そこは「怪獣墓場」だった。ゴジラやラドン、モスラにミニラ、妖星ゴラスや轟天号もある。怪獣映画でおなじみの高圧線の鉄塔や軍艦の高角砲などは、無数に置いてある。

 3日間成城に通い、東宝から1800枚のスチール写真を借り出して、ついに『日本特撮映画図鑑 東宝編』は完成した。見本が刷り上がったとき、深見社長は「この本は、成美堂出版としては過剰品質だったね」と言った。それは賞賛の言葉だと思っている。




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