雑誌を作っていたころ(46)

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後編: 雑誌を作っていたころ(47)

バーチャクラフト


 成美堂出版での仕事がうまくいったのに味をしめて、ぼくらは次の出版社の開拓にかかった。今度は印刷会社のひも付きではなく、独力で人脈をたどってみようと考え、名刺ホルダーをひっくり返してあちこちの出版社に声をかけた。

 色よい返事があったのは辰巳出版。ここもムックが得意なので、うまくいけば今後の有力な取引先となりうる。何回かの打ち合わせの後、悠々社が誇る器用貧乏の造形師である佐藤航くんの企画「フィギュアの作り方」が採用になった。


 佐藤くんは秋田県出身の色白美形の若者である。その筋の男性諸氏に好まれるルックスをしていて、盛り場で中年オヤジに「5万円で、どや?」と言い寄られたりする。手先が器用で、たいていのものは自分で作り、料理も天下一品だ。

 そんな彼のデビュー作として、このムックは充分な舞台となった。巻頭インタビューは漫画家の麻宮騎亜氏。「サイレントメビウス」「怪傑 蒸気探偵団」などの作品で知られる売れっ子だ。

 造形師インタビューは、圓句昭浩、GIN、もてきほまれの各氏。圓句さんのインタビューのついでに、ボークスの造形村潜入ルポも掲載することになった。そのため京都の片田舎にはるばる出かけた。

 目玉企画は、空山基氏の「誌上展覧会」。スーパーリアル・イラストレーションでとくに海外で人気の空山氏だが、相馬さんの知り合いということで特別に34点もの掲載許可を(しかも格安で)いただいた。


 佐藤くんが頑張ったのは、みずから立案した「フルスクラッチ解体新書」というページだった。まったくのオリジナル・フィギュアをゼロから完成まで誌上公開するという、考えただけでも恐ろしい企画だ。もしもぼくが鉄道模型でそれをやれと言われたら、「1年ください」と答えるだろう。しかし彼はそれを1カ月でやりとげた。

 この本の余録として、悠々社はフィギュアの祭典である「ワンダーフェスティバル」に出展することとなった。オリジナルのフィギュア・キットを自社製造し、麻宮騎亜氏のオフィシャルTシャツを3パターン作り、本も売った。このときのTシャツの売れ残りは、東日本大震災が起きたとき、被災地への支援物資として大活躍した。


 今から思えば、この本はフィギュアブームを先取りしたスーパー企画だったが、いかんせん悠々社の体勢が整っていなかったため、後続企画が思うように進められなかった。それが残念でならない。中身の濃い雑誌が作れても、商売が下手ではどうにもならない。

 そして、営業面でもこの本はうまくいかなかった。表紙回りの広告収入を悠々社がもらうかわりに、編集制作費を安く抑えられていたのだが、その広告が思うように入らなかったからだ。いろいろと「話が違う」という出来事が重なったおかげだが、結構痛かった。

 これらのことは誰が悪いのでもなく、自分の責任だ。「人当たりの良い編集者」では、編集プロダクションは経営していけない。このあたりから、ぼくは自分の経営者としての資質に疑いを持ち始める。雑誌集団としての悠々社が幕を下ろすのは、それから1年と少し先の話だ。



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