名前のない喫茶店 ~葛西さんの今しかないこと~

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「そりゃ、息子の年にいろいろ将来のこと考えたって無理なことわかってますよ。でもね、私のころはいろいろうるさくたって、親が言うことだったら、全く無視することなんてなかったですよ。そうでしょ、中さん」

葛西は、中田さんに自分の息子への愚痴を言うのが、ほぼ日課になりつつあった。息子が不登校がちというのが、その主な理由だが、中学になっていろいろと意見が合わなくなってきたことがどうにも納得がいかなかった。

「息子さんも思春期なのかね。成長してきたってことかもしれないね」

「思春期でいろいろ心配とか、自分のことを気にするのならね、わかりますよ。私だって、経験してますし。でも、息子は最近言うんです。今しかない、今しか良ければそれでいい、って。

 私それは、ちょっとどうかって思うのよ。今が良ければいいって、怠け者のいう言葉じゃない?何にも努力も辛抱もしないで、何ができるって思っとるのかしら」

コーヒーは冷め切って、添えられたクッキーの粉が机に散らばっていた。普段の彼女なら、粉をすぐに集めて片づけただろうし、コーヒーだって冷めるまで残したりはしない。

それは、息子の部屋のようだと、葛西は思った。脱ぎ散らかした服、雑誌、チラシに何だかよくわからないものが、無造作にころがっている。片づけようとすると、息子は怒った。まるで、そこにそうあることが正しいというような剣幕だった。

息子だって大きくなっている。それはわかってるつもり。でも、息子のことはいつまでもわかっていたい。理解してあげたい。それが段々わからなくなってしまっている。彼女はそこに揺れていた。


「今って何なのかねー」

「はい?」

「息子さんの今って何のことだろうかね。何を考えてるかとか、何をしたいかとか。聞いてみたの?」

そういえば、そんなこと聞かなかった。息子は何を今見てるんだろう。行きたくなくなってしまったクラスや学校のことだろうか、それとも最近練習しているうるさいギターのことだろうか。

「わかんない。どうせ、そんなこと話してくれないだろうし。でもさ、中さん。今だけみて、ほかのことは見ないようにして、それでうまくいくわけないでしょ」

「息子さんさ、多分、集中したいんじゃないかな」

「しゅうちゅう?何に?」

「それを見つけるためにさ。何かわからないものを見つけるために集中したいのかも」

「わからないのに見つけるの?そんなことあるのかな」

「はは、私もさ、大学生になりたての頃だったけど、ちょうどそんな気持ちになったことがあってさ。そりゃ、自分でも何考えてるかわかんないし、人にも説明できないし。初めてのことだから、やり方もわかんないしね。

 でも、そういうことが必要な時があったのさ。わからないものを、今見えてるものを、じっと集中して実感しないといけないときが、さ。そんなことしてたら、授業の単位しこたま落として、次の年、大変だったわ」

中さんが腹をゆすって笑う。葛西もつられて微笑んだ。

「中さんはそれで何が見つかったの?」

「見つかったもの?いや、そのときはよくわからなかった」

「わからなかったの?」

「そうだよ。後々になれば、それが夢とか、目標とか、言葉や形になって付いてきた。でも、そんときゃ、よくわかんないよ。何か、変わったって感じがするだけ。たぶん変わるためにそういうことが必要だったんだろね」

「へえ、変わるんだ」

「そうだね。息子さんはその時分の僕と違って、おとなしく家でもちゃんと勉強してるんだろ。僕なんて酒やらビリヤードやら覚えてさ、朝になるまでバカやってた。そういうのが、今だけよければそれでいいって奴のことだよ。息子さんはそうじゃないんじゃない?」

「息子だって、ギターとか弾きだして、家が仕事でうるさいからいいけど、近所迷惑ものよ」

「へえ、ギターか。そういうのは、この先モテるだろうなあ。そういう方を覚えればよかったよ」

中さんの笑顔に葛西は少し安心する。息子が中さんのいうとおりかどうかはわからない。でも、心の中で反省したのは、息子への信頼がちょっと揺らいでしまっていたことだった。息子が今しかないと思っているなら、私もその今を見ていたい。わかることは後々になって付いてくるのかもしれないと願って。

喫茶店を出たら、太陽の光が強く感じられた。石段を降りながら葛西は夕食の献立を考えていた。いくつかのメニューが浮かんだが、決まっていることはひとつだけだった。息子に食べてほしいもの。親ばかだ。苦笑した。

子どもが馬鹿なのもしようがない。

「しゃあない。しゃあない」

口に出していってみた。今がそうならしようがない。自分に言っているみたい、と彼女は思った。

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