【私の思い出たち】〔第七話〕

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この遠い…

心が動く

 今からもう20年くらいも前のこと。私は当時,小学校6年生の担任だった。初めての卒業担任。毎日が新鮮だった。

 私は卒業式で合唱に取り組ませることにした。今では懐かしい名曲『巣立ちの歌』だ。ある女の子が伴奏者に決まっていた。この子,学芸会で主役を堂々と演じきった子だった。いわゆる“戦争物”の,ありふれた脚本だったが,彼女の鬼気迫る演技は,皆の度肝を抜いた。

 この子,なかなか頑固者で,自分が納得しないと,てこでも動かない。伴奏者を決める時には,なぜ私がやらねばならぬのかと,長い間抵抗していた。担任の先生も

「他の子にしてはどうか」

と言っていた彼女の心が動いたのは,

「あなたの伴奏が聴きたいんだよ」

という,私のひとことだった。


力を出しきるチャンス

 私は彼女に本気になって欲しかったのだ。ありあまる才能を存分に発揮する機会を与えられず,いつも“ちょっとやってみた”感のただよう彼女の学校生活。しかし私は学芸会の演技の中に,彼女の本質を見たのだ。最後に,心の底から

「出し切った」「頑張れた」

と思ってほしい,そう考えていた。

 彼女は毎日練習を続けた。小学生にしては大柄な彼女でも,手の大きさは,小学生のそれだった。親指と小指でオクターヴ届くのがやっとだった。日増しに彼女は疲労の色を漂わせるようになった。そして卒業式1週間前。衝撃が走った。


絶体絶命と光明

 手首の痛みが引かない彼女は病院に行った。診断結果は〈腱鞘炎〉。医者からはピアノの演奏を止められてしまった。私はその日から,ピアノにむかい始めた。

 私の練習は連日続いた。でも,そんなに簡単にできるもんじゃない。そして私までもが,腱鞘炎の一歩手前までになってしまったのだった。卒業式の通し練習でも,彼女はピアノを弾かなかった。私のたどたどしいピアノに,体育館は騒然となった。本番は明後日。

 卒業式の前日の夕刻。彼女は体育館で練習を続ける私のところに来て,痛みに顔をしかめながらピアノを弾いてくれた。驚く私に,彼女はこう言った。

「1回分だけ,力を残しておいたんです。先生のピアノじゃ,みんな歌えない」

私たちは笑い合いながら,本番に思いを馳せていた。この時知らなかったが,本番には,みんなが驚く演出が待っていた。


仕掛け

 私の勤務校では,卒業式の〔呼びかけ〕の中で,決まった一幕があった。それは,〈3つの拍手〉といわれるものだ。今までお世話になってきた人への感謝を込めた拍手をするのだ。今年もその練習がされていた。

 卒業式の朝,もう1人の卒業担任が,職員朝会で先生方にお願いをした。

「今日の式の最中,保護者が立ち上がる場面があります。おゆるし下さい」


 卒業式のクライマックス。呼びかけの最後を,卒業生がまとめる。〈3つの拍手〉だ。先生方への拍手,在校生への拍手,そして保護者への拍手。それが終わった瞬間,保護者が一斉に立ち上がった。学年PTAの委員長がはっきりした声で話しかける。

「巣立ちゆく君たちへ,お祝いの拍手を贈ります」


祝う

 保護者が全員立ち上がり,いつまでも続く拍手を卒業生達に贈っている。今までの卒業式では見られなかった出来事に,会場全体が驚いていた。

 その光景は,今まで見たこともないくらい輝いていた。卒業生の驚いた顔が,一瞬にして破顔する。教職員の目には涙が。

 この雰囲気の中,彼女は堂々とピアノを演奏した。曲の間奏部分には,卒業生がひとことを添えるのだが,卒業生が選んだのは,高村光太郎の『道程』だった。


 歌が終わる,ピアノの後奏もおわる。一瞬の静寂の後,教頭の合図で全員が立ち上がるはずだったが,圧倒的な場の空気に押されて,教頭が動けない。卒業担任席から教頭を見つめると,ようやく気がつき,閉式のアナウンスを始めた。


 卒業生の道程は,始まったばかりだ。その場に立ち合えて,嬉しかった。

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