地獄のはじまり

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しかし、今回は帰るしかない。東京でも大阪でも負け犬人生。非常に心残りだが、今回の帰郷は誰がどう聞いても納得するだろう。撤退理由としては十分だ。

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東京にはヤマハ時代に6カ月、リクルート時代に2年10カ月、失業+ミッド時代で2年半、独立後に1年半、都合7年ちょっといた。23歳で初めて上京し、途中2年半ほどは大阪だったが、33歳まで東京にいた。

20代から30代前半の、社会人として一番多感な時期を過ごした東京。多くの失敗を繰り返し、リクルート時代とミッド時代にホンの少しの成功体験があるが、全体では1勝9敗といった感じ。

敗北者。青春の蹉跌。挫折。苦い思い出ばかり。

恋もしたが、その多くは実らなかった。まじめな交際は2度あったが、その一つは大阪の婚約破棄事件で悲惨。もうひとつは同級生で人妻。

後者の人妻にはかなり癒された。気が紛れた。サラリーマンとしてドツボで先が見えない時代、その後のダメ独立起業時代、寂しいときの心の拠り所だった。

「かっちゃんは何かを成す人よ」

お世辞でもうれしかったが、その片鱗はまったくなかった。

大学を卒業した時点では、少林寺拳法の関西大会で2年連続優勝するし、本も小説や経済・経営系を1000冊は読み、文武両道でこんなヤツはそういないと自信満々だった。

が、社会に出てから立て続けに就職・転職に失敗し、起業もダメ。学歴も勉強も、何の役にも立たなかった。

しかも、まさか俺が、同級生の人妻と不倫するとは・・・。

俺も堕ちた。仕事もダメだが、私生活も堕落している。なるようになれ。

人生に失敗し、単純に性欲に、快楽に溺れたのだ。

同じ時期に、母も妻子ある獣と不倫していた。最悪の親子だ。

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結果があれば原因がある。

今回の1億連帯保証事件は起こるべくして起こったとも言える。父は高校2年の時に死んだが、高校卒業以来、俺は親のこと、母のことはほとんど考えなかった。考えるのは自分のことだけ。

いかに自分の青春、恋、仕事、人生を成功させるか、そのことだけで精一杯だった。実家と母のことは捨てていた。忘れていた。眼中になかった。

結果として、母は独りだった。父が死んだのは44歳の時で、母は41歳。私はその1年半後に大学進学で家を離れ、小学6年生だった弟も大学卒業後は福岡を離れた。

幸か不幸か、母は働かなくても十二分に食っていける財産があった。しかし、俺が故郷を捨て、弟も巣立ったあと、実家に一人残った母には特にやるべきことがなかった。友人は多かったが、家に家族はいない。孤独で寂しかったと思う。

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だいぶ以前に帰郷した時、母がポツリと漏らしたことがある。飼っていた小鳥が死んだときだ。

「チイちゃんがね、死んだときは泣いたんよ。やっぱ鳥でも寂しいね」

家に帰っても母一人。心の優しい弟はもちろん、喧嘩ばかりしていた俺でも、世話をする相手がいなくなるのは寂しいらしい。ご飯を作っても「美味しい!」という相手がいなければ料理のし甲斐はない。ケンカばかりでも、ケンカ相手がいるだけ幸せなのだ。

財産があっても寂しい一人暮らし。財産があるから働く必要がなく、だからこそ新たな知り合いも出来ず、そこに「浦川清史」に突け込まれるスキがあった。

「なんでこんなことになった!いつからのつきあいだ!」

懲らしめて白状した母によると、浦川とつきあい始めたのは、弟が大学を卒業して家を出た年。つまり、母が一人になった時期と同じだ。寂しかったのだろう。

現れた浦川は亡き夫と年の頃は同じで、一所懸命に作った「ご飯を美味しい、おいしいと言って食ってくれ」、「いろんな場所に旅行に連れていってくれた。夢のようだった」と母は白状した。実態は母を保証人にして街金から借りた金で遊び回り、返済することなしに栢野家に押しつけたのだが。

いずれにしろ、母に巡ってきた青春。遅れてきた青春。母にとって、愛する浦川の連帯保証人になるのは当然のことだったのだろう。

のちに、最悪の形でそのつけを払うことになるのだが。

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■孤独な帰郷

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世間はバブル崩壊していたが、オレの人生も崩壊した。

その6月、「青春」を共にしたリクルート人材センター時代のバイト仲間が、四谷の居酒屋で壮行会をしてくれた。その他、何人かの人に別れの挨拶をした。

四谷の木造風呂なしアパートの荷物は、ヤマト運輸の小さな軽トラック「独身引っ越しパック」一台に収まった。家を出た18歳から33歳まで、15年間の荷物にしてはあまりに少ない。人生で何も成していない証拠だった。

テレビドラマの「北の国から」で、東京に出たが失敗と挫折ばかりの「純」が寂しく帰郷するシーンがあったが、まさにそれと同じだった。

軽トラックが出たあと、私はヤマハのオフロードバイク・セロー220ccに跨り、陸路で博多を目指した。典型的な都落ち。これで東京ともおさらばだ。

が、俺は逃げるのではない。いかんともしがたい実家の理由があるのだと、正当な感傷に浸ろうとした。四谷から、最初に独立起業した新宿御苑、新宿通から青海街道を通り、東京で最初に間借りした阿佐ヶ谷のアパートに寄った。

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そして環八通りを南に下って厚木街道を南に向かい、甘くて酸っぱい思い出のある相模大野のアパートに別れを告げ、国道一号線を西へ。ロングツーリングは学生時代以来だ。

しかし、神奈川県の秦野を越えて足柄あたりに来たとき、降り続いていた雨足が一段と強くなってバイクの視界を遮った。カッパの中まで水浸しになり、この先長い旅のことを考えると心細くなった。まさに泣きっ面にションベン。

暫し考えたあげく、バイクでの東京→博多横断を断念。東京湾からフェリーで行くことにした。

意外にすんなりと乗れたフェリーの三等船室で寝ころび、近くの出稼ぎみたい男たちと四方山話をした。

「こんなヤツラと話をしても仕方ない。どうせ人生の失敗組だ」

が、ほどなく、オレも同じと気づいた。

オレの人生はどこでどう狂ってしまったのか?

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