我慢という名の強迫

最近「我慢」という言葉を見かけます。

凄惨な事件や若い世代を特集しているニュースとかでも時折見ます。

大体は「我慢するのが大事」といった論調です。

他のももちろんあるとも思いますが。


このことについて、私なりの考えをまとめてみました。


私の中では本質はこの逆な気がしてなりません。

「我慢しないのが大事」

少なくとも、「我慢を最小限にするのが大事。」


我慢するというのは実際どういう意味なのでしょうか?

誰かのために、妥協したり、折り合いをつけたり、諦めたりすることでしょうか?

私には「我慢する」というのは、「大義」あるいは誰かの主張のために自分が耐え忍ぶ、のように聞こえます。

そして、「我慢すること」は美徳であり、みんなが幸せであるためには「誰かが我慢しなければならない」ものであるとも。


そう考えたとき

私は、私のために誰かが「我慢」しなければならない状況なんてちっとも望んでいないのにな、

と思ったのです。

だってなんか、嫌じゃないですか。

きっともっとお互い気持ちよく過ごせる方法がありそうな気もしますし。

私のために「我慢」したんだよ、って後で言われたくないし。

もしそうなら言ってほしい。

言ってくれたなら「まじかー。ごめん、ありがとう!なんとかしようー」ってちゃんと言える人間になりたい。


それに正直、私自身、誰かのために「我慢」するというのもしたくないです。

なぜなら「我慢」という言葉は、自分の意思を語っているようで、実際は温もりのない言葉に思うからです。文脈によりますが。


「私が我慢すれば、問題は丸く収まる。」

とか言いたくないし、そんな悲しい言葉を聞きたくない。


この言葉が危険だなと思うのは一見「私が主体的にその道を選んでいる」ように聞こえることかな。

でも実際は

「状況が私に我慢をさせている。」

「あの人には逆らえないから私が我慢しなければならない。」

と思っているのでは?と勘ぐってしまいます。


このような状況がたまにしかない場合はそれでも良いのでしょうが、

それが毎日だったらどうでしょう?


「私は毎日こんなに我慢しているのに、なんで状況は良くならないの?」

「なんで私ばっかり我慢しなければならないの?」

と思い始めるのではないでしょうか。

とても辛いじゃないですか。

私には到底耐えられません。


始めから「我慢」なんてする必要なんてないんじゃないと思うのです。

人である以上、他人と意見が衝突することもあるでしょう。

でも、同時に自分の「主義主張」を通すことが自分にとってどれほど重要なことなのか?と。


確かに、自分の考えを持つことは重要です。

でも、人の意見に「絶対」なんてないと思っています。

育ってきた環境が違うのですから、考えが違って当然だと思うからです。


何故その考えに至ったかということの重要なのではないでしょうか?

自分がその考えに至ることになった経緯、相手がその考えに至ることになった経緯。

ちゃんとお互いに説明することができれば、もっと良い方法を思いついたり、どちらが納得してその考えを受け入れるようになるのではないのでしょうか。

「主義主張」を正当に表現すること。他の「主義主張」も冷静に受け入れること。

それができれば、「我慢」は最小限に済むような気がします。


脈絡なく最近思ったことを書いてみました。そんな感じです。

読んでくれてありがとう。

またね。













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