アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート8

前話: アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート7
次話: アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート9

青年期における人との出会い――。


僕はこの出会いこそ、後々の人生にとって大きな財産になると思っています。柔軟な感性で日々を過ごしているときに、自分とは異なる生い立ちや境遇の人たちとの触れあうことは、人生に新しい価値観をもたらしてくれ、自分自身を成長させてくれます。


僕の尊敬する哲学者・森信三さんがこのような言葉を残しています。


「人生、出会うべき人には必ず出会う。しかも、一瞬遅からず、早からず。しかし、内に求める心なくば、眼前にその人ありといえども縁は生じず。」


僕の人生を振り返ってみると、出会うべき人に出会うべき時に出会っていると感じます。

もう少し早めに出会っていても、価値が充分に提供できなかったであろう相手。

もう少し遅めに出会っていても、お互いのステージがすれ違っていたであろう相手。



ここしかないというタイミングで出会っていることを思うと、「大きな何か」の力を感じずにいられません。



----------------------------


2009年、アメリカンフットボールの関係者にとっては記憶に新しいかもしれないが、この年の7月に東京ドームである試合が行われた。


「ノートルダムJAPANボウル」



アメリカの名門ノートルダム大学のレジェンドOBチームと日本代表の試合だ。

ノートルダム大はアメフトマンガ「アイシールド21」にも登場する名門大学なので知っている人も多いかもしれない。



自宅でリハビリ生活を送っていた僕は、当時大学のチームの監督をしていた糸賀さんから、「せっかくの機会だからこの試合来ないか?」と招待していただいた。




そしてどこへ行っても蝉の鳴き声を耳にするようになった7月下旬。

試合の前日に東京入りするために僕は母と兄と3人で地元から飛行機で東京へ向かった。

10数時間後に本場アメリカで活躍した選手や日本代表選手のプレーをスタンドから観れると思うと楽しみで仕方がなかった。




初夏の東京は焼けるように暑かった。

羽田空港に到着し、電車に揺られながらホテルの最寄り駅である東京駅に向かった。

プラットフォームから改札口を抜けるとそこには仕事を終えた人たちが通りいっぱいに広がり、川の流れのようになっていた。


あまりの人多さに、人酔いしたことをよく覚えている。

車いすに乗っていると目線の高さが小学生低学年ほどになるため、健常者に比べ人酔いをしやすくなる。

このときは障害の不便さを少し感じた。



そして試合当日。

焦る気持ちを抑え、後楽園駅で下車し東京ドームへ向かった。


到着すると。

同じ日に東京ドームシティではコスプレのイベントが行われていて、会場には色んな意味で過激な衣装に身を包んだ人が溢れていた。



「これが東京かぁ…」

海と山に囲まれてた田舎町で育った僕には刺激が強すぎて軽いカルチャーショックを受けた。笑



そして人混みをかき分けるように進み東京ドーム内へ入った。そこに、糸賀さんと学生トレーナーのMさんが立っていた。

二人と久しぶりの再会に喜び、感動の余韻に浸りながらも、内心では僕はすぐに観客席へ上がり選手のプレーする姿を見たかった。



そして監督のエスコートでエレベーターに乗り観客席へ向かった。

向かっていると僕は思っていた。

しかし、明らかにエレベーターは観客席のある上の階には上がらず、下に向かっている。


(車椅子だから一般とは違う経路で観客席へ上がるのかな?)



不思議に感じながらもエレベーターをおりて、狭い通路を進んだ。

満面の笑みで立っているチアリーダーのお姉さんの側を通り過ぎ、狭い通路を抜けると、照明が光が目に入った。

眩しさを抑え、状況を確認すると、そこには芝一面のフィールドが広がっていた。



「ん?ここはどこだ?」



一瞬、戸惑い状況を理解することができなかったが、喜びとともにすぐ状況を理解した。

僕はテレビでよく見る読売巨人が試合をしている東京ドームのグランドにいた。



実は糸賀さんが関係者の方にお願いして、僕がフィールドに入れるようサプライズで手配してくれていた。

監督は人を喜ばせることがとても上手で、周りは笑顔で溢れかえっている印象がある。

ご自身が面白いことを好きなだけかもしれないが。笑



ホームベースを挟んで両サイドにはダグアウトがあり、テレビで見ていた光景がそこにはあった。

初めての東京ドームのグランドは思ってたよりも狭く、外野席が近く感じた。



そしてフィールドへ目を移すと、そこでは両チームの選手が試合前のウォーミングアップを行っていた。

糸賀さんのおかげで選手と同じフィールド上にいることができ、しかも目の前でプレーを見ることができた。


嬉しい気持ちと同時になんだか不思議な気分もあった。

もしかしたら、このあとに起きる運命的な出会いの前触れだったのかもしれない。




僕らは選手入場までフィールドにいることを許された。

しかも選手入場はすぐそばで見ていたため、入場前の選手を目の前で見ることができた。

そして入場前にノートルダム大学の選手が何人も僕のもとへ駆け寄って、肩を叩いたり握手をしてくれた。

初めて間近で見る本場の選手の体の大きさや熱いまなざしに、終始興奮してたことをよく覚えている。





そしてノートルダム大学の入場直前の事だった。

小柄なおじいさんが同じように僕の元へ来て、英語で何か言い、握手をして、サッとその場去りフィールドへ走っていった。


僕は「どこかで見たことがある人だなぁ…」と思っていると


糸賀さん
「あの人がルー・ホルツだよ!」




そう、その人物こそ名門ノートルダム大学を常勝チームに育てた、名将ルー・ホルツだった。

彼は「米大学アメリカンフットボール界のレジェンド」と呼ばれる名コーチで、44年間にわたるコーチ生活で率いた6大学を、いずれもレギュラーシーズン上位のチームが出場できる「ボウルゲーム」に導いた実績を持つ。




アメリカンフットボールに馴染みのない人にとってルー・ホルツは「誰?」と思うだろうが、アメリカでは大統領よりも尊敬されるほどの偉大な人物と言っても過言ではない。

日本のプロ野球で例えると王貞治・長嶋茂雄くらいすごい人だ。



彼はこの試合にノートルダム大学のヘッドコーチとして参加していた。

もちろんルー・ホルツが僕のことを知っているわけがない。

そのためどういう理由で僕のもとへ来てくれたか分からないが何かを伝えてくれた。



彼はこんな言葉を残している。


"Adversity is another way to measure the greatness of individuals. I never had a crisis that didn't make me stronger."- Lou Holtz

「逆境は人の偉大さを計るもうひとつの方法である。自分をより強くしない危機に私は会ったことがない。(ルー・ホルツ)」




この出会いが当時の僕に強いメッセージを与えてくれた。

英語は分からないため、あの瞬間にルー・ホルツが何と仰ったかは分からない。

しかし、立ち止まってる僕の背中をドンっと押してくれたように感じた。

「前に進もう」そう思わせてくれた出会いだった。



著者の中村 珍晴さんに人生相談を申込む

続きのストーリーはこちら!

アメフトで首を骨折し、四肢麻痺になった青年がヘッドコーチとしてチームに復帰した話。パート9

著者の中村 珍晴さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。