中学生のときはじめて、自分が障害者だと知った。ショックだったけど、でも、それは財産だった。自分の障害を財産だと思えるまでの10年間の葛藤。

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中学時代


自分の障害を自覚する。

ぼくは、言語障害と感音性難聴を煩っています。言語障害は、口蓋裂という先天異常に起因する構音障害で、発音が上手にできないものです。感音性難聴は、音を言語に変換する機能が弱いものです。ぼくは、いわゆる奇形児として生まれました。それを知ったのは中学生の時のことです。

小学生のときは自分の障害について何も知らず、悠々と過ごしていました。中学生になると、ぼくの発音をばかにしてニヤニヤする人がチラホラでてきました。というか、ぼくのことを気に入らない連中が、どこかアラはないかと探して見つけたのが言語障害だった、という感じです。ぼくはいじめを受けました。サ行の発音が苦手で「もしもし」と電話にでると「もひもひ」となるので「もひ」と陰で呼ばれてばかにされていました。詳しくはコチラ → 中学生時代、自分が言語障害だと知って衝撃を受けた話。

こうしてぼくは自分が言語障害だということを自覚しました。つづいては口蓋裂の状態で生まれたことについて。これは病院へ行った際に、ぼくのカルテを見て気づきました。ぼくは口蓋裂の影響もあって歯の噛み合わせも悪かったので、矯正治療のために定期的に病院に通っていました。当時はそんな自覚はありませんでしたが。


病院の入り口、自動ドアのヴィーンという音を耳に2、3歩進むと、目の前には横幅10m位はありそうな広い廊下。線遠近法を思い出すほどの奥行き。右手にはお会計待ちの座席が80席ほど。左手には歯ブラシなどが売っている小さな売店。受付は廊下を5mほど前方進んだ右手側にありました。母が受付を済ませている間、ぼくは受付の向かい側、壁際にある長椅子に腰をかけて母の背中を眺めていました。受付を済ませた母にカルテを渡され、矯正治療を行っている病棟へと向かいました。カルテをなんとなく眺めていたところぼくの通院歴や治療歴が書いてあることに気づきました。母親の視点では「難しいことだから読んでもわからない」と思っていたのでしょうか。伝えるか、伝えるまいか、気にしていなかったわけがありません。

当時はたぶん中学の2年生でした。カルテには、数年前のところに「口蓋裂のため、手術」といった旨の記載がありました。ぼくは「口蓋裂」という漢字が読めなかったので、お家にかえって調べることにしました。帰宅後、お家にあったノートパソコンを使い、漢字の読みを辞書パッドで調べました。「こうがいれつ」と読むことを知りました。そして「口蓋裂」と検索ボックスに入力し、検索ボタンを押しました。

すると、なにやら口の辺りの形がおかしい、小さな子供の画像がたくさん出てきました。初めは何がなんだかわかりませんでした。しかしいくつかのページの文面を読み進んでいくと、なにやら先天異常(生まれもった障害などのこと)のことを指すのだとわかりました。このとき、Webページの文面に書いてある内容と奇形児たちの画像、自分自身の過去の体験などが瞬時に一本の線としてつながりました。


「ああ、そういうことか」と。


ぼくは、自分自身がどんな状態で生まれてきたのかを知りました。なぜ「ことばのきょうしつ」というところで言語訓練を受けていたのか、なぜ自分が言語障害なのか、なぜ歯の矯正治療をしているのか、なぜ鼻のかたちがちょっと変なのか、アチラコチラに散らばっていた疑問のかけら(点)が、一直線につながりました。


「ぼくは、障害者だったんだ。」


それと同時に、ショッキングな感覚も襲ってきました。大ダメージです。小学校当時のぼくはダウン症の子たちを蔑んだ目で見ていたので、自分が障害者だと知った瞬間にその槍が自分の胸にも突き刺さりました。それからというものぼくは障害者として「蔑む目」で見られる日々をおくるものだと思いました。ぼくが言語障害者というのはクラスの全員が知っていましたから(たぶん)、教室のドアをあけるのも嫌でした。ぼくが教室に入ったその瞬間に、「蔑む視線」がこっちにくる。他のクラスの人たちも、ぼくが障害者だと知った瞬間に目の色が変わるんだ。でも、言葉を発しなければ、言語障害っていうのはばれないよな。じゃあ、口数を少なくしよう。みんなと接する機会を減らそう。ぼくはどんどんふさぎ込んでいきました。

学校という空間はもともと苦手で、中学校は休みがちでした。そこに、さらに拍車がかかります。うちのおばぁちゃんは「学校には行きなさい」というタイプだったので、毎日言い訳を考える日々。布団にもぐりながら、「明日は、お腹が痛いことにしよう。」「明後日は、頭が痛いことにしよう。」

おばぁちゃんが毎朝、布団にもぐっているぼくに「行きなさい!」「何か嫌なことでもあるの!?」「ないなら行きなさい!」と何度も言ってくるのが苦痛で仕方がありませんでした。でもおばあちゃんのこどは大好きで、だから余計に苦しかったです。

中学校時代は口数が少なく、元気もなく、暗い日々をおくっていました。寝室の窓から見た、流れるのが速かったくもり空をよく覚えています。ずる休みをしていたものの、根は真面目だったので具合の悪いふりをしていなければ筋は通らない、とずっと布団に横たわっていました。

そうすると暇なので、空を流れる雲を観察するとか、あれこれ考えるとか、そういった時間を過ごすことになるのです。もちろんそれだけでは飽きるので、こっそりインターネットをしたり、漫画を読んだりしていました。かなり、贅沢な時間の使い方をしていました。

「なぜ毎日同じ場所に行かなければならないのか」と思いつつも「学校は行かなければならない」といった思い込みもあったので、嫌々学校に通っていました。休みがちではありましたが、週に3日か4日(たまに5日)は学校へ行き、授業を受けていました。

中学校では特に、音楽の授業が苦痛でした。音楽の授業では、となりにいじめ首謀者の子、後ろには、首謀者にいいように使われている子がいました。後ろの子が「おいもひ、聞いてんかもひ。」と、ずっと言ってくるのです。それはそれは苦痛でした。当人たちは、たぶん軽い気持ちだったのでしょう。ぼく自身も、差別的な目を向けた経験があるし、いじめもしたことがあったので、いじめたくなる気持ちはなんとなくわかります。

自分よりも「弱く見える」人を虐げる、人の弱点をつくことで自分が「優位に立っている」と勘違いし、自尊心が回復する(潤う)のです。もちろんそんなやり方はかっこ悪いし、傷つく人もいるわけで、ぼくは過去の自分を猛省しました。ああ、なんてひどいことをしていたんだろう。こんなにも苦しいのか、と。それからは障害を持つ人を見ても「どんな景色を見ているんだろう」「なにを感じて暮らしているんだろう」と、その人はどんな「めがね」をかけているのかを気にするようになりました。

勉強はそこそこできたので、成績はクラスの真ん中くらいでした。たしか理科が得意で、90点台後半の得点をとり、英語で30点くらいをとってトントンにしていたような記憶があります。それも陰でなんか言われていたような。「あいつ理科はすごいけど英語は全然だめだよな」という。いま思い出すとめちゃめちゃどうでもいいですが。

中学3年生の後半になると、ぼくへのいじめはほとんどなくなりました。飽きたのでしょう。別の人をばかにしていました。当時のぼくは、「ホッ」としていました。うーん。こんなんじゃだめだなぁ。でも、それだけ余裕がなかった。高校受験も成績通り、となりの市で真ん中くらいのところへ行きました。



高校時代

高校へ行くのには特に疑問を持たず、普通に受験して普通に合格して普通に入学式を迎えました。入学式前には(合格発表当日?)制服の採寸をする必要がありました。学校の門をくぐり、玄関、下駄箱、採寸する教室へと進んだところ、部活の勧誘をしている先輩がいました。なにやらメモ帳サイズの紙とペンをもっているようでした。「野球部どうですか?」と話しかけられました。

ぼくは言葉を発することが怖かったので「いいです」と小声で言ってその場を去りました。「ああ、また変な風に思われただろうなぁ」と細かいことを気にするぼく。合格発表の時の思い出と言えばそれくらいです。

入学式が終わり、諸々の手続きをする段階。ぼくの通っていた高校では個人ごとにロッカーを買う必要がありました。「なぜロッカーを?」と思ったので、先生に質問をしようとしました。しかし、口数の減っていたぼくです。自分は言語障害だし、話しても聞き取ってもらえないかも。ましてや、障害者だってばれたら、また「あの目」で見られる。怖い、でも、聞かなきゃ。


いま思い返せば「ロッカー購入は必須ですか?」と聞くだけなのですが、当時は人に向かって言葉を発することにさえ恐怖を感じていました。近くにいた先生に「すいません」と話しかけました。


先生「おう、どうした。」

ぼく「ロッカーは、絶対に買わないといけないんですか?」

先生「おう、教科書とか貴重品とか入れたりするからな。兄弟のものをもらってたりは?」

ぼく「してないです」

先生「じゃあ買わないとな」

ぼく「わかりました。ありがとうございます。」


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