男だけのクリスマスがきっかけで、ぶっとんだ話。
「ぶっとんだ創造者たちと、とにかく世の中を面白くする」
2015年2月11日、この想いからQREATOR AGENTは始まりました。
色んな業界のクリエイターと彼らのプロデューサーが集結した会社で、
クリエイターが業界の垣根を超えて連携をとりあい、さらに面白いものを創り出してくことを企業活動に据えています。
吉本興業で生まれた気付きから
代表の佐藤は元々吉本興業のマネージャーで、ナインティナインやロンドンブーツ1号2号を担当してきました。彼が吉本興業のマネージャーとして働く中で生まれた気付きが、QREATOR AGENTを形作っていったのです。
ー<文・佐藤>ー
2005年4月に吉本興業に入社して最初につかせてもらったのはナインティナインさん。昔からテレビで見ていた人とご飯を食べたり、助手席に座らせてもらったり、さらに、社の上司が厳しい方だったためほぼ毎日緊張状態でした。そのためか、この時期の事はほとんど記憶にありません。
記憶があるのは海外ロケで寝坊し飛行機に乗り遅れ空港で坊主にしたこと。
番組企画でねるとん企画に出演させていただいた時、番組中におもいっきり話を振られたこと。
しかし、この時ナインティナインのお二人の話や空気を5M以内で毎日体感できたこと、めちゃイケなど日本一の現場を体感できたこと、番組収録の空き時間に日々アイディアノートをつけていたことが今の財産になっています。
この時期、ナインティナインさん以外にもエンタの神様で大人気だったまちゃまちゃさん、ブレイクする前のCOWCOWさんや若手芸人さんたちを10組ほど担当していました。
今考えると恥ずかしくなるくらい芸人さんに何も貢献できていなかったと思います。
言われたこと、頼まれたこと、それを必死でこなしていました。まちゃまちゃさんとは朝まで一緒に泥酔してテレビ番組に向かったり、COWCOWさんとは勢いでギャグイベントを日比谷野音でやったり。
とにかく、芸人さんの近くにいて、芸人さんのやりたいことを実現することで認められたかった、褒められたかったのです。
それだけ芸人さんには魅力があります。僕は芸人さんが好きで吉本興業に入ったわけではないですけど、芸人の皆さんは、人として大きく何かが欠けている代わりに、とんでもなく大きな熱を持っていました。そして、その熱で人を笑わし続けていました。
いつの間にか僕は芸人さんを大好きになっていました。
あっという間に2年が経ち、突然、『ロンドンブーツ1号2号』を担当することに。
記憶が正しければ、チーフは特におらず、スケジュールも僕がいきなり持つことになったと思います。
いわゆる「プロデューサー」です。
うれしかったです。入社してから2年間で考えていた様々な妄想を僕が実行し、ロンドンブーツ1号2号で表現できることがうれしかったのです。
様々な才能に溢れるお二人に、3年計画をプレゼンし、議論し、当時の彼らのキャラクターからは飛躍のあった「笑っていいとも!」のレギュラー獲得や、田村淳キャスター化、田村亮パパキャラ化を提案し、共に実現しました。
もちろん運やタイミング、周りのスタッフのサポート、そしてなにより本人の創造的パワーのおかげでしたが、彼らの才能はもっと別にあるとマネージャーである僕が信じ、営業したことで全てが始まりました。
(中略)
「誰がプロデュースをやっても芸人さんは変わらないのではないか?」そんな思いをずっと持っていましたが、ロンドンブーツ1号2号さんをプロデュースさせて頂く中で、プロデューサーが担当芸人さん
の人生を少なからず変えられることがあるという自信と責任感が持てました。
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プロデューサーとして活躍していた佐藤ですが、
プロデューサーであり続けることに疑問も頂き始めます。
ー<文・佐藤>ー
今度は自分の力でものを創ってみたかったのです。マネージャー(プロデューサー)は良い意味で他力本願です。いか芸人さんに優秀なクリエーター(他力)をつないで価値を最大化していくかという作業。
僕は自力に憧れていました。そんな僕は会社にわがままを言い、マネジメントの部署から企画の部署に異動させてもらいました。
異動して早速「パパ」の需要を当時感じていたので、「パパパーク」というプロジェクトを立ち上げました。
吉本興業内に「パパ芸人」のエージェントをつくるプロジェクトです。
「パパ芸人を使いたい時はパパパークへ」。
多くの方のおかげでステップワゴンなど様々な「商品PR」のお手伝いやゴリさんと家族お揃いパーカーなどの「商品開発」やあたりまえ体操アプリなどの「コンテンツ開発」をしました。
また、東京学芸大学との共同プロジェクト、小学生向けのワークショップスクール「笑楽校」もはじめました。表参道ヒルズで行ったオープニングイベントでは1万人近くのお子さんに参加いただきました。
ジュニアさんと行った5年間チケットを発売し続けた「千原ジュニア40歳ライブ 千原ジュニア×」も創りました。
8000人近くのお客さんが両国国技館で感動してくれました。自力を志したら、多くの芸人さんと様々なものを創ることができ、その先にいる多くのお客さんを楽しませることができたのです。
でも、結果僕は独りで何もできなかった。
常に「人」と一緒に「もの」を創っていたのです。パパ芸人や学芸大学の先生方や作家さんや芸人さんと「もの」を創っていたのです。
結果僕はクリエーターではなく、プロデューサーだったのです。
それが天職とようやく気がついたのです。
しかし、もう一度芸人さんのプロデュースをするのか?
結論は違いました。
最近出会う起業家、職人、デザイナー、作曲家、市長、調理師、どんな職種にも何か欠けているけど吉本興業に入社して1年目に芸人さんに感じたあのドキドキした感じをもった熱い人がいっぱいいました。
もっともっとおもしろい人に会ってドキドキしてみたい。そして、僕の今までの経験をその人たちのために使ってみたい。そう考えたのです。
また、そういう方は自分でリスクを背負い、独りでチャレンジしている人がほとんどでした。
僕もリスクをとり、同じ立場になることでもっともっと深くいろんな「人」を理解してみたい。付き合ってみたい。その先にお客さんがもっと楽しめるものを創れるはずと信じたい。
僕は吉本興業を辞めることを決意しました。
ー「吉本興業を辞めてまで、僕が挑戦したかったこと/佐藤 詳悟」より
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吉本興業に入社してから10年、辞表を提出し、
2015年の2月にQREATOR AGENTは生まれました。
佐藤と僕の出会い
ところで、申し遅れましたが、ストーリーを書いている僕は、QREATOR AGENTのプロデューサー・齋藤圭祐といいます。
僕が佐藤と出会い、そしてQREATOR AGENTに参画したのは、2014年12月25日クリスマスの渋谷でした。今思えば、なんでクリスマスだったんだろう...。
きっかけは、前職場の先輩からのメールでした。携帯がなったのは、前日24日のクリスマス・イブ
いやいや、明日クリスマスなんだけど、空いてるわけないでしょ。何考えてるの先輩。空いてた。
クリスマスの夜、哀しくもそんな流れでした。でも、今考えると大きなクリスマスプレゼントもらったのかもしれません。
2014年の12月25日。
夜、あるシェアオフィスで待ち合わせることになりました。
窓の外にはきらめくイルミネーション。手をつないで通り過ぎていく男女たち。
世の中は圧倒的なまでにクリスマスでした。
席に座って待っていると、爽やかな白シャツを着たおでん君が歩いてきました。佐藤でした。
佐藤と会って話してすぐに、こんなにも同じ発想を持っている人が、それもこのタイミングでいたんだと知って驚きでした。
初めて会って30分くらいで、会社に誘われて、
初めて会って30分くらいで、一緒にやりたいと思いました。
佐藤はあらゆる分野の面白い人たちを結びつけていきたいと思っていたように、
僕も、色んな人のチカラを集約して教育や健康の分野を発展させていきたいと考えていました。
僕が、一番入社したくて入社することができた広告代理店をやめ、健康x教育の分野に転職し、そこもやめて独立した、やっと本気になれるものが見つかった、そんな矢先のことでした。
僕はずっと、子供の頃から「本気になれない」ところがありました。
なにをやってもすぐに飽きてしまい、長続きしない。昔から典型的な器用貧乏だったんだと思います。
ずっと嫌でした。自分の特技、本気でできるもの、圧倒的に活躍できるものがないこと。
でも、ある時に、あきらめることに成功しました。自分にはやりたいことがないのだと。
進路選択の時期に差し掛かっていましたが、そう割り切ることにしたんです。
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