第一章:目覚めない夢 vol,3

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通い慣れた道が、どうも季節にふさわしくないほど薄暗いものに見える。目的地に近づくにつれ、どんどん呼吸が浅くなる。このまま逃げ出してしまいたくなる気持ちになりながらも、車を踏むアクセルはとめられない。

かつて住んでいた自分の自宅に向かう車の中でリーはこの3年間のことを思い出していた。

二番目の妻との暮らしは、最悪という言葉にふさわしいものだった。母親に似て欲張りな娘。ブランド品や高級なものに目がない割に、自分で稼ごうとする気力もなかった彼女に対して、最初の1年ほどは自分が頑張って養えば、そのうち彼女もこちらを振り向いてくれるだろう、と思っていた。

ところが、アメリカに家を建てて、こちらで三人一緒に暮らすようになってから1年が経ったある日のこと。

「あなた、今日からこっちで過ごしてくれない?」と妻から要求があった。

その妻の言う「こっち」のいうのは、半地下につくった倉庫のような部屋のことだった。窓はもちろんない。それ以上に、この場所は暮らす為につくった場所ではなかった。

「この子ももう大きくなっていくから、彼女だけの部屋が欲しいのよ。だから、あなたは下に行ってくれない?」

こちらのNOを受け取らないくらいあたり前のようなその要求を、断る勇気も権力もリーは持ち合わせていなかった。

それからというものの、地下室での暮らしがはじまった。朝早くに仕事に出かけ、夜に帰宅してから家でごはんを食べる。妻のつくるごはんは決して上手とは言えなかったが、リーが時折腕をふるってつくる晩餐を、二人とも断固として受け付けなかった。

気付けば、食事は別々にとるようになった。自分のごはんは、自分でつくる。この家に住んでいる家族という形だけの人間関係が、もはやリーにとっては家とは何かを思い出せないくらい麻痺させてしまっていた。

それが仕事にも影響を及ぼした。元々シャイな性格もあり、また30歳という微妙な年齢でアメリカに飛び出したリーにとって、英語で流暢にコミュニケーションを取ることは容易くなかった。

最初にアメリカに渡った時の数年間は、もちろん生きていくのに必死だったから、対人関係のことなど気にしていられなかった。

毎日12時間以上働き、家族をアメリカに向かい入れる準備で必死だった。

なんとか見つけた安定的な職を頼りに、1番目の妻と娘のチャンをアメリカに呼ぶことが出来たのは、チャンが13歳の時。リーは既にアメリカに7年滞在していた。根無し草のような生活は、最初の妻と娘がアメリカに渡った後も続く。思春期にさしかかっていた娘は、早めの反抗期で自分にまるで懐かず、新しい環境に慣れなかった最初の妻も、リーに八つ当たりをするようになった。

この国で、母国では得ることの出来ない成功と、家族への豊かな暮らしを希望にやってきたはずなのに、いつのまにか生きていくことに必死になる毎日。

滞在して10年目でようやくグリーンカードが受け取れたと同時に、最初の家族は妻の浮気でバラバラになった。

娘のチャンは、最初の妻に引き取られることになった。やがて彼女は再婚し、チャンは新しい家族と一緒に暮らすことになる。

それからと言うものの、最初の妻との連絡は途絶えたが、娘との連絡はささやかながら続いていた。

隣の州に住む娘とは時々電話をする。だが、その電話の結末はいつも喧嘩で終わっていたのだった。

自分の何がいけなかったのだろうか、何がダメなのだろうか、と考える間もなく再婚したことに関して、ようやく今頃、もっと別の道があったんじゃないか、と想像がよぎる。

今更考えても仕方がないことだが、そうでもしないと今の空虚感に耐えられそうになかった。少なくとも、今から会う二番目の妻…まぁ、これから元妻になるであろう女性と、対等に喋るには、少しでも別のことを考えたいというのが本音だった。

ブルルルン…

エンジン音が鳴り止むのを聞きながら、しばらく車の中に座り込んでいた。

ガレージの前に広がる芝生はきれいに整えられている。しかし、これも妻が行っていることではなく、高いお金を支払って外注しているのだ。

どうしてこんなに、お金がかかるのだろう、とリーは彼女と暮らして何度思ったことか。元々質素な暮らしを愛していたリーとは正反対で、裕福な家庭で育った彼女は、流行に敏感で、テレビや映画の中でハリウッドスターが着るようなドレスやバッグにばかり興味を持つ。そのため、鍼灸師の仕事に着いてからというものの収入は安定していたが、常にどこにお金が流れていくのか不安で仕方がない日々が続いた。

重い腰をもちあげて、車から出る。今日はいよいよ、離婚の最後の話し合いをする日だ。弁護士を通して話を進めていたものの、やはり何年も共に暮らした家族であったことに変わりはない。

最後の確認として、養育費のことや家のこと、持ち物のことについて話し合おう、とリーが持ちかけたのである。

ドアベルを押すと、ジーっと言う鈍い音が聞こえた。しばらくすると、妻の連れ子がドアを開ける。それをみて、そうか今日は日曜日だったと気付く。離婚が決まってからの数ヶ月は、これからのことを心配して土日関係なく働き詰めだったため、曜日感覚がなくなっていることに気付いた。

ドアを開けるなり、プイッとそっぽを向いて歩いていく彼女を見て、リーはますますむなしくなり、もう自分の家ではなくなるその建物の中に入っていった。

自分で建てた家というのは、出費したのは自分というだけであって、内装から家具、カーテンの配色やベッドカバーなどの柄なども、すべて彼女好みに整えられた。リーはとにかくお金を出し、彼女の好きな家に住ませることが、この家族を保っていける唯一の方法だと思っていたから、当時は何も口を出さなかった。

今思えば、すこしくらい、口を挟んでおけばよかったな、と思う。

「あなた、今日は仕事じゃないの?」

「あぁ、もう午前中に終わらせて来たよ。今日はこれでおしまいだ。」

「新しくきたユキはどんな子?」

リーは、彼女がユキのことを知っていると聞いてびっくりした。

「どうしてユキのことを知っているの?」

「だって、あなたが自分でこの前教えてくれたじゃないの。そんなことも覚えていないの?本当に昔から、自分の言ったことを良く忘れるわよね。」

そのことに、リー自身もびっくりしていた。

確かに、歳をとるにつれて、物忘れがはげしくなっている気がしている。でも、ユキのことを彼女に話した覚えがないことに、ちょっとばかり焦りを感じた。

どうせなら、この家でのことも忘れてくれればいいのに…

そう思いながら、話題を変えようと口をあける。

「そういえば、仕事はどう?新しい仕事は見つかったの?」

「ええ、見つかったわ。今までのより少しだけ待遇の良い会計事務所。家から30分くらいのところにあるわ。」

「そうか…」

自分から会話を持ち出したものの、その先が見つからない。なんとか気をまぎらわそうとして、ふと今に置いてあるピアノに目がいく。

「そういえば、このピアノはどうするんだ。君も、あの子もピアノを弾かないだろう。」

「あぁ、そうね。これはどうしようかと思っていたの。あなたが持っていってもいいわよ。私たちにはいらないものだから。」

わたしたちにはいらないものだから…というセリフが心に刺さる。ピアノはこの家で、リーを癒してくれる唯一の存在だったからだ。それを必要ないと言われてしまうと、本当に自分も必要ないのだと実感するようで、胸の奥がギュッと固くなった。

「わかった。じゃあ、一週間後に取りにいくよ。」

そう言い残して、他の事務的な会話を住ませ、リーは帰路についた。

家に帰るとユキがごはんを用意してくれていた。そう言えば、この前の学校のテストはどうだっただろう?もう何日か経っているけれど、聞いたような聞いていないような気がする。

こんな時にも、物忘れの激しい自分に嫌気がさす。勇気が出ないから、聞いたことにして、もうその話題には触れないようにしよう。

そう心に決め、晩餐に手をつけた。

ユキにとって昼間からの時間は、吐き気がするほど退屈だった。

午前中はドンさんと学校に行き、授業をこなす。上級クラスの先生がキャサリンだと知ったときはとても嬉しかったが、ドンさんが言うほど上級クラスの生徒は英語が出来ないわけではなく、むしろみんな度胸があって、ヘタクソでもどんどん発言するような人たちだった。

英語で行われる授業には、中国人や韓国人、イタリア人、スペイン人が数名ずつ、あと、どの国なのか英語のナマリがひどくて聞き取れなかった、中東あたりの人が一人。カラフルな人間たちがそこにいた。

その中でも、特に発言の多かった韓国人のキムさんは、子どもが二人いる忙しいママさんだった。いつも授業が終わると、子どもたちの迎えにいかなきゃと言ってそそくさと出て行く。

その他にも、ドンさんの他に中国人のワンさん、エからはじまってルで終わる、覚えにくい名前の人など、本当に色とりどりの人間が参加していた。

午前中の授業のメインは、宿題で出された課題の提出と、2ヶ月に1度の小さな発表会に向けての準備などだった。会話をメインとした授業では、文法の細かい説明はしない。とにかく単語を覚えて、使い回しを覚えて、喋れるようになることが第一優先だった。

午前中の授業が終わると、ドンさんと一緒にアパートに帰る。一緒に昼食をとるほどすぐに仲良しな気分にはなれなくて、何度か誘われたけれど断っていつも自分のアパートで食べていた。

食料は、週に2度、大型のスーパーに出かけてはまとめ買いをする。もちろんアメリカンサイズのこちらの食料は、まとめ買いをしないつもりでも、余裕で2・3日はもつ量だろう。

ユキは対して凝った料理をつくる気力もなく、いつもだいたいハムを刻んで適当な野菜とともに炒めたチャーハンでお昼は済ませていた。

昼食が終わると、魔の時間帯がはじまる。午後の一時に食事が終わったとしても、そこから叔父のリーが帰宅するまでに約6時間もある。

そのうち、夕食の支度に1時間かけたとしても、5時間はフリータイムだ。このフリータイムが、日本にいるときなら、あちこちに出かけ、好きな本屋に赴き、あるいはバイトを詰め込んで、時間を有意義に過ごすことが出来たのだろう。

ただ、ここでは状況は違った。驚くほど徒歩圏内には何もない。一番近いスーパーまで歩いたことがあったけれど、片道1時間もかかってしまう。

そして、最悪なことに、この部屋には安定したWi-Fiがない。これがユキにとって致命的な問題だった。かろうじて繋げたWi-Fiは、どこかの家の人が飛ばしているのを拾ったもので、ユキの部屋にある窓辺でしか、そのかすかな電波は拾えなかった。

この、昼からの魔の6時間が、自分をダメにしていくような気がしてならなかった。

最初は気合いを入れて部屋の掃除をしてみたり、洗濯をしてみたり、トイレ掃除や叔父のベッドを整えたりなんてしていたが、自分が家政婦になった気分でげんなりする。

『わたし、ここに何をしに来たのだろう…』

その答えのない問いが自分の中を駆け巡る前に、ユキはとっとと昼寝をすることにしていた。

転機が訪れたのは、アメリカに到着してから2週間がたった時のことだった。その日は、すごくよく晴れた金曜日で、久しぶりに気分が良い日だった。夕食の準備を済ませ、しばらくボーッとしていると、リーがいつもより早い時間に帰宅して来た。

「お帰りなさい。」

「ユキ、お知らせがある。チャンが明日から来ることになった。」

「え?」

相変わらず唐突な会話の仕方に慣れたはずだったが、この時ばかりはいきなりすぎてついていけなかった。

「チャンが?お姉ちゃんが明日からやってくるの?」

「そうだ。明日からやってくるって今日電話があった。何にせよ、ユキがいることを知って、こっちに来ることにしたらしい。もう既に車で出て来ているよ。明日の朝には着くだろう。」

「チャンがやってくるのね…」

ユキとチャンは、幼い頃から本当の姉妹のように仲が良かった。ユキが最初に日本へ行き、後をおうようにしてチャンはアメリカへと渡った。それからというものの、お互いが母国に居合わせる回数はほとんどなく、最後にあったのはもう、10年も前のことだった。

「チャンがやってくるから、明日からは彼女と同じ部屋で過ごしてくれ。いつまでいるか分からないけど、ユキを色々なところへ連れて行きたいそうだよ。」

そう言う叔父の顔からは特別嬉しいという喜びの感情は読み取れない。どこか不安なのだろうか。自分の実の娘に対して、何か罪悪感でもあるのだろうか。ユキはチャンと叔父のリーと過ごした、幼い頃の記憶を思い出していた。

いくら仲が良かったとは言え、10年間会ってもいないし、ろくに連絡もとっていない従姉妹の姉と、今更この地で再会するとは。喜びとは言いがたい、微妙な心境だった。

思い出せる限り、姉のチャンはユキとは違って、天真爛漫、もっと悪く言えば破天荒な性格をしていた。短期で強気、少年のような性格で、よくユキにいじわるをして楽しんでいた。割とおとなしめで自己主張をしないユキとは正反対だったから、二人は実の姉妹のように仲も良かったが、喧嘩をするときはすさまじい喧嘩をした。

髪の毛をつかみ合い、睨み合っては、もう二度と会話なんてしないほどの空気がただよう。だけど、所詮こども同士の喧嘩。祖母が出すおやつを一緒に食べればもう忘れてしまうような、そんな単純なものだった。

それから10年以上経ったあの破天荒な姉と、果たしてうまくやっていけるのだろうか。

不安がよぎりながらも、一人っ子のユキにとってはかけがえのない存在である姉であることに変わりはなく、その日の晩は部屋を丁寧に片付けて眠りについた。

つづく。

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