第一章:目覚めない夢 vol,2
「あなたとはもう、終わりよ。」
突然、そう言われて、目の前が真っ青になった。
終わりよ、という言葉が告げるのは、彼女との関係が終わることもそうだし、何よりも自分が今まで確保してきた全てのものを失うという合図でもあったからだ。
どうする、このままこの「終わり」を受け入れるか。受け入れていっそのこと、自分が手放さないようにしてきた全てを捨ててしまうか。
いや、でもそうしてしまうと、今までの自分の努力や、苦しい中でも必死に生きてきた記憶がなくなってしまう。
孤独で辛くて、冷えきった今の現実に身を置き続けるか、それとも自分が自尊心を保てる全てを手放すか。
リーは、人生で二度目となる離婚を目前に、自分のこれからの人生をもう一度考え直す帰路に立たされていた。
「あなただって、もう分かっているはずでしょ。私たちはもう、とっくの昔に終わっているの。あなたにも私にとっても、そしてあの子にとっても必要なのがこの選択。だから、早く決めてくれないかしら。」
そのセリフのあとに隠れているのが「いつ出て行ってくれるの?」という言葉であることをリーは確信していた。
そうだ、もう自分がここを出て行くほか、術はない。まさか、53歳にもなる自分が、青春の頃に抱いたような未来の不安を再び味わうことになろうとは、予想していなかった。が、少なくとも53歳である肉体と頭は、確実に青春時代の頃の自分よりは劣っていて、あの頃のような希望を未来に抱くことも出来ない。
かといって、このままではいけない、ということも、もう53年も生きてきた自分ならすぐにわかることだった。
離婚をはっきりと決意したのが、2ヶ月前のことだった。
リーはその時のことを、ユキを助手席に乗せた車の中でふと思い出す。この土地はいい。何せ、物事を考えるのに適した環境が整っているからだ。
横から割り込まれることもない、広々とした道路。ちょっとスピードをあげたとしても、事故を起こすような曲がり角もなくまっすぐな道。
車を運転しながら、リーは今までのことと、これからのこと考えながら、ゴミョゴミョと言葉にならないような声をもらしていた。
思えばこの3年は苦痛だらけだった。一度目の離婚をした後、孤独と単身のまま死んでいく恐れから、勢いで付き合った女性と結婚することになったのは5年前。しばらくの間遠距離を続け、3年前にこの地に家を購入した。
あの結婚は焦りからだった、と今なら振り返ってすぐ分かるものの、当初の自分は愛する妻と娘を失った痛みから逃げるために、恋心というものに溺れる必要があった。
友人の紹介で出会った女性は、とにかく自分の中で敗れた自尊心と寂しさを埋めてくれるようだった。正直に言えば、誰でも良かった。
それほど、自分は弱かったのだ、と今になっては認めざるを得ない。
家族の反対をおしきって結婚したすぐ後に、二度目の結婚が失敗だったとすぐに気付いた。当時の中国人からすると、目もくらむほど羨ましいグリーンカードを持っていたリーは、相手の女性が自分ではなく、自分の持っている持ち物に惚れ込み、グリーンカードと結婚したのだ、と結婚して3日目で気付く。
それは思い込みではなく、実際に彼女に言われた一言だった。
「わたしはあなたを愛していないわ。わたしは、あの子の為に、あなたと結婚するのよ。」
まだ小学生にも満たない連れ子を持った女性なら、当然の考えかもしれない。ただ、二度目の結婚3日後に、そう言われてしまったリーの想像を絶する孤独な結婚生活は、この日から幕開けとなった。
車を運転しながら、回想をする。リーはもう既に誰のことも信じられなくなっている自分に、どこかホッと安心もしている。
あと一ヶ月だけ頑張って、その後ユキと旅をする。そして、もう何も頑張らなくてすむ母国に帰って、年老いた両親の介護をしながら暮らすのだ、と。
今まで感じたことのない安堵感とともに、どこか胸につっかかりを残し、メキシカン料理屋へと車を飛ばした。
ガチャガチャ…ガッシャーン…ガチャガチャ…
隣のキッチンででなんだか、お皿のぶつかり合う、うるさい音がする…。騒音で目覚めたことに対するちょっとした憂鬱さと、まだ夢を見ていたいおぼろげな意識の狭間で、ユキのアメリカ生活2日目がスタートした。
しばらくもうろうとした意識の中で、横のキッチンから聞こえる騒音に耳を澄ませる。リーが朝ご飯を用意しているのだ、と気付くのにそう時間はかからなかった。時計をふと見ると、まだ朝の7時。大学を不登校しだして、やりたい放題に生きていたユキの生活からすると、朝の7時というのは早朝の部類だ。このまま寝たふりを続けようか。
でも、この部屋に叔父のリーが起こしにくるのも受け入れがたい。そう言えば今日は、なんだっけ、学校に連れて行ってくれる同じアパートに住むおばさんのところに行くんだっけな。
総合的に感じる倦怠感が、ユキをベッドから出れなくする。
ほどなくして、リーのがちゃがちゃ音が静まった。どうやらパソコンの前に座りだしたらしい。
アメリカに到着してすぐに気付いた叔父リーのクセで、最も印象的だったのが、夜はべったりパソコンの前にへばりついていることだった。
小さい背中から少しだけはみ出るパソコンの画面。何をしているのかは分からなかったけれど、何やら食い込むようにして画面を見つめる叔父の後ろ姿は、ますますユキにここに来たことを後悔させた。
動き回っているリーと朝イチに出会うよりも、パソコンに食い入るようにへばりつく彼と対面する方が気楽だと思い、ユキは重たい身体を持ち上げる。
ユキに割り当てられた個室には小さい窓が一つだけ。まだ窓は露がかかっている。どうやら今日も外は寒いらしい。
空気を入れたマットレスで寝ていたからか、身体のあちこちが痛い気がする。せめて天気が晴れてくれていたら良かったのに…と思いながら、思いたい身体を引きづりつつ窓辺を通り過ぎた。
ドアを開けると、案の定、リーがパソコンの前で背中を丸めながら何かを叩き込んでいた。
「おはよう。」
気配を完全に消すくらい集中しているリーに背後から話しかける。そのまま彼が聞こえたかどうか、確認することなくキッチンにかけこんだ。
ガチャガチャという音が聞こえていたのは、これか、と目を疑う。そこには二人分のラーメンが用意されていた。
『そうか、この人も、こういう習慣か…』
どうやら、30年ちかく中国で生きた叔父にとってはその古い習慣は、どうやっても拭えないものなのだろう。ユキは懐かしさをすこし覚えつつ、リーが用意したラーメンに胃が重たくなるのを感じる。
「おはよう。よく眠れた?さぁ、朝ご飯をたべよう。」
彼は質問を質問だけで終わらせない。必ず何かを重ねて来て会話を終える。それがこの人のコミュニケーションの取り方なのだろうか、とユキは思いながら、ラーメンをすすった。スープの味はやや鶏ガラスープを思わせる。ラーメンといっても具材はほとんどなく、昨日のメキシカン料理屋の帰りに買ったチンゲンサイがゆでて入っているだけだった。
「これを食べたら着替えて、下のおばさんの家に行こう。彼女は毎朝8時に家を出て学校に行ってしまうから、それに間に合わせないといけないんだ。ユキも学校に行く準備をしておいてくれ。必要なものはメモとペンくらいだけど。」
リーはくちゃくちゃ音を立てながら、こちらを特に見ることもなく、吐き出すかのように話した。特にこちらの返事は要求していないらしい。自分の食事を済ませると、流しに器を入れて、とっととヒゲをそりにいってしまった。
アパートの下の階に住む、3人家族のドンさんは、想定していたより若いおばさんだった。友人とだけ聞いていたため、叔父とどんな間柄かは分からなかったが、年齢を見る限り、同級生などではないらしい。
旦那さんは、アパートから1時間かかる街の中国語系会社に務めるサラリーマン。そして、小学校3年生となる息子がいた。
たいした挨拶をする暇もなく、ドンさんの車に乗り込み、大した自己紹介をする暇もなく、新しく通う学校にたどり着いた。
ドンさんは、チャイムが鳴るのを聞くと同時に、帰りの時間と待ち合わせ場所だけ言って、教室へと走っていった。
残されたわたしが廊下に突っ立っていると、肩まである綺麗なブロンドの髪の毛をした、チャーミングな女性がこちらに手招きしているのが見えた。
職員室のような場所に入ると、まだ朝早かったからだろうか、机の数に比べて先生は数えるほどしかいない。
しばらくすると、先ほどのチャーミングなブロンドヘアの女性が話しかけてきた。
「ユキ、タジマ?」
名前を呼ばれてドキッとすると、こちらの机に座って、と案内された。その机の上には、予め用意されていた学校の案内パンフレットと、個人情報等の記入用紙が置かれていた。
「はじめまして、ユキ。わたしの名前はキャサリンよ。ここの代表をしているわ。よろしくね。」
かろうじて聞き取れる簡単な英語を使ってくれたのだろうか、キャサリンの話す英語はとても聞き取りやすく、ユキはほっとする。
「はじめまして、ユキ、タジマです。お会いできて光栄です。」
ありきたりな英会話の例文に出てきそうな事を言って、その先が何も出てこないのに困惑していると、キャサリンがゆっくりと説明をはじめた。
「今日はまず、あなたのクラス分けのためのテストから行ってもらうわ。内容はスピーキングテストと筆記試験とリスニング試験。今からあなたにいくつかの質問をするから、それを英語で答えてちょうだい。OK?」
イエス、とだけ答えるとキャサリンは目の前の質問用紙に目を落とし、そこから淡々と英語で質問をした。
生まれはどこか。年齢はいくつか。好きなフルーツは何か。得意な教科は何か。いつ学校を卒業したのか。いつまでアメリカにいるのか。
こちらが答えやすいようになっている質問に対して、ユキはなんとかかつての感覚を取り戻すようにして、ゆっくり答えていった。
大学受験の時は、ただ単語の意味や文法さえ間違えなければ良いという世界だったが、きっとここではそれは通用しないのだろう。ユキは、自分の頭の中で文章を作ってからでしか言葉が出ないことに、あの猛勉強した時間はなんだったんだろうと、落胆する。
スピーキングテストはどうやら終わったようでキャサリンは資料にチェックをつけながら「それでは」と言って、別のに個室に案内してくれた。
そこには小さな装置につながれたヘッドホンと紙が置いてあり、いつかのなつかしい思い出が頭をよぎった。そうだ、これはセンター試験と同じだ。
大学を受験し、その結果によって人生の半分が決められる。全ての世界において通用するわけではないだろうが、ユキの通っていた高校ではそのような暗黙の了解が高校2年生のときからはじまる。
進路相談の中身はもちろん大学進学がベース。ユキは昔から、手に職をつけて早く仕事をすることが希望だったため、高校二年生の時に美術の専門学校に行きたい、と両親に話した。それは、大学よりも専門学校の方が、より早く仕事に就けると思っていたからだし、その方が早く一人前の大人になれると思っていたからだ。
だから、それを両親から反対されたときは、自分の考えそのものを否定されたような気がした。地域の中でも進学校とされていた高校に通っていたユキにとって、大学進学というのは敷かれたレールの上だった。
そして、誰もがそれに違和感を抱かずに、レールをしっかりと歩むことが優等生とされた風潮の中、大人しく勉強をして良い大学に進学することが、やっぱり無難だと思わざるを得なかった。
そんなユキにとって、センター試験というのは決して良い思い出ではなかった。もちろん、自分の中の違和感を押し殺して勉強し、図書館に通い詰めた時間を思うと、何が何でもこのセンター試験で結果を残してやろうという気にもなる。でも、どこかでセンター試験で自分の人生を決められることに真っ向から反対したいという気持ちもあった。この葛藤の中で、勝利をあげたのが後者の気持ちだった。
一足先に滑り止めの私立に受かったユキは、学費の面からしてなんとしてでも国公立に受かって欲しかった両親の気持ちを知りながらも、どこかで終わりを感じていた。
もうこれで、いい。これで終わりだ。
そうやって気を抜かしながら、いい加減な気持ちで臨んだのがセンター試験だった。
だからこそ、アメリカの学校で、ふとセンター試験のことを思い出すきっかけがあったとき、そこから逃げ出したい気持ちになった。
黒くて四角い機械につながれたヘッドホンを見ると、あの時のいい加減な、情けない自分を思い出す。
もし、あのセンター試験でもっと頑張っていたなら、今の自分はどうなっていたのかな…。
そんな後悔にも似たいたたまれない気持ちをかき消すかのように、後ろの方でキャサリンが言った。
「では、リスニングテストと筆記テストをやってちょうだい。時間は30分。終わったらまた覗きにくるから。」
ドアが静かに閉まり、シンとした部屋に自分のため息がこぼれる。仕方なくヘッドホンに耳を当て、スイッチを押す。どこかで懐かしい響きが聞こえる。ベッド本から流れる英語の質問と、解答用紙を照らし合わせて◎をつけていく。センター試験のために散々した練習の効果を、ユキはすらすら聞こえてくる英語にのせて感じていた。
リスニングが終わると、次は筆記試験。紙にはいくつかの英文と、それに関する質問、そして○をつける回答用紙が用意されていた。ユキは得意の英文読解を思い出し、ちょっと気が楽になる。大学受験の為の英文読解は、質問内容から逆算して読み進めればいい。回答に必要な情報だけ読めばいいため、全文を読み込む必要はない。文脈から想像し、いかにスピードを短縮して答えを選ぶか、が大事だからだ。ユキはそれをとことん練習してきた自分に、すこしばかり誇りを感じつつ、30分かかるところを15分で終わらせた自分に、ちょっとした優越感を感じていた。
「どう?出来たかしら?どれ、見せて頂戴。」
英語の長文を読解するときに、必要な部分に線を引き、強調させるクセを持っていたユキの用紙に、不思議ねえ、という顔をしながら、
「じゃあ、採点をしてくるから、ちょっとここで待ってて。」
そう言って、キャサリンは奥の部屋に入っていった。
その間に、しばらく職員室を眺める。先生たちは元から少ないのか、それともみんなが授業に出ているのか、ほとんどガランとした部屋を見渡す。
あちらこちらに色々な言語で書かれたポスターが張ってある。イベントの案内や、去年の年越しの時につくったであろうハッピーニューイヤーのポスターなど。きっとこの職員室は、生徒もよく出入りするのだろう、ご自由に!と書かれたコーヒーメーカーも置いてあった。
「お待たせ。こちらに座って。」
奥の方からキャサリンが、別の資料を持って出て来た。向かいあって座ると、ようやく気持ちに余裕が出てきたユキは、はじめてキャサリンの年齢にびっくりする。
うっとりするような艶のあるブロンドヘアに見とれていたからか、キャサリンが六十代前後のおばさんとも言える年齢の女性だとそのとき初めて気付いた。
そりゃそうか、代表って言っていたから校長先生のようなものだな、と思いつつも、もしかしたら若く見えるからもっと歳が上なのかもしれない…とキャサリンのことをボーッと見ていた。
「ユキ?ユキ?聞こえているかしら?あなたのクラスについてよ。」
「あ、ごめんなさい。もう一度お願いします。」
「あなたのクラスは、上級クラスに決定したわ。明日から通ってもらうのだけど、毎日宿題を出しているの。今日一緒に来てもらったドンさんと同じクラスよ。帰り道にどんな宿題が出たのか、聞いておいてちょうだい。」
と、キャサリンは滑らかな英語でそう伝えた。
『上級クラス…』
響きだけで怯えてしまう。果たして上級というのはどれほどのものなのだろうか。そういえばあのドンさんの英語力をまだ聞いていない。ものすごく喋れたらどうしよう。本気出してテストなんか受けなければ良かった…。
ユキは自分がセンター試験のことを思い出して、ちょっと躍起になって本気で回答してしまったことにうっすら後悔をしていた。
キャサリンは説明を続ける。
「それでね、クラスにはファイルが必要なの。毎日出る新しい単語を記入しておくファイルよ。これを明日から使って、予習と復習をするように。何か質問はあるかしら?」
フリースクールだと聞いていたもんだから、油断していたら大間違いだとその時気付いた。渡されたファイルには、びっしりと単語が書かれたテキストが挟まれている。上級クラスとは、一体どれほどのレベルなのだろうか?
ユキの頭の中で益々嫌な妄想がひろがった。
その嫌な妄想を緩和してくれたのが、送り迎えをしてくれるドンさんだった。初日の帰り道に、ドンさんにクラスのことを聞いてみると、どうやら上級と言っても移民や、こちらに家族で移住して来た大人たちが大勢いるクラスで、吸収力の早い若者とは違って、なかなか英語がみんな覚えられないのよ、とドンさんは嘆きまじりにそう説明してくれた。
ドンさんは、旦那の転勤で家族共々アメリカに渡り、現在は労働ビザで暮らしていた。グリーンカードを申請しているのだが、なかなか降りずに3年が経過したと言う。
叔父のリーとの関係は、ドンさんの旦那がリーのお客さんだったようで、今でも定期的に叔父の元で治療を受けているそうだ。
「これから毎朝、一緒に学校へ行きましょう。8時に出れば、8時半の授業に間に合うから。それでお昼になって授業が終わったら一緒に帰りましょう。」
ユキの通うフリースクールは、午前中だけ必須授業であり、午後は学校を開放し、残りたい人は残る、というシステムだった。
ただ、車がなければどこにも行けないような場所にあるため、ユキはどうしてもドンさんと一緒に行き来しなければいけない。
自ずと午前中は学校、そしてお昼以降は家にいることが必然となった。
つづく。
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