第一章:目覚めない夢 vol,1
窓ガラスは5月に似合わない外気との気温差による露で曇りががっていた。
そこを静かに指でなぞり、細いラインを何本か重ねて窓の外が見えるようにする。
季節はずれの雪が降ったこの土地は、今で観たこともないような世界だった。
見渡す限り何もなくただっ広い、草原とも広場とも言えないなんとも味気のない景色が左右に広がっていた。
これから自分が投げ出されるであろう世界に不安を抱えながらも、レールが既にしかれた世界にから逃亡してこれたことに少しの安堵も感じる。
果たして自分は、逃亡して来た自分に何か意味をつけて帰ることが出来るだろうか、いやそれともそもそもかえる場所等ないと知るだけなのだろうか…
「ユキ、何をしているんだ、こっちにきて手伝って」
混沌としたことを考えているユキに、右後ろにあるアパートのドアから叔父のリーが声をかけて来てふと我に返る。
叔父は声をかけるとすぐ、そのまま階段を降りていってしまった。ユキはそこからしばらく動く気がしなくて、まだ呆然とさっきの混沌さに浸っていたい気がしていたが、
ふと自分の指でなぞった窓の一面から、叔父が下で手招きしているのを見て、二度目の目醒めをくらう。
しかたなく、赤黒いカーペットのしかれた廊下を歩き、階段を下って下に降りる。
築およそ30年はたっているであろう古い3階建てのアパートにはエレベーターがないかわり、おそらくこの国の特性を考えてのことだろう、階段の幅はやけに広く設計されていた。
赤黒いカーペットは、建てられたばかりの頃はもっと頭の奥をキンっとさせるような色だったに違いない。赤黒くなっているくらい踏まれている方がちょうどいい、とユキは思いながら下まで駆け下りた。
外に出たユキは、あまりの季節外れの寒さに身震いする。そのユキを見て見ぬ振りして前の方から、大きなマットレスを抱えた叔父がこちらに向かって足早に歩いて来た。
「あと一つだ、ユキ。折りたたみの机を持って来てくれ。」
そう、すれ違いながらリーは颯爽とマットレスとともにアパートの中に消えた。ユキは小走りに、車のガレージへと急ぐ。最後の荷物だと言わんばかりに、車の横に置かれた折りたたみの机は、安っぽい見た目の割に重たく、冷えた指先にチカラを入れなければいけなく、ちょっと痛かった。
叔父を下から読んで、手伝ってもらおうかと思ったが、途端に不快な感情がよぎる。ユキはあの男が苦手だったのだ。
何が特別嫌いというわけでもないけれど、そもそも生理的に受け付けない、という人が誰にでもいるように、叔父のリーはユキにとっては生理的に受け入れがたい人物のひとりだった。
小柄で痩せ形、しっとりと額にひっついた髪の毛や、ややこげた色をした肌のマッチングが、どうしても受け付けないおじさん臭をかもし出していた。この国には、小柄な体系に合う服がないのか、叔父の服はいつもどこかたるんでいる気がして、それが彼のちょっと抜けた性格を、ますますたるんでいるように思わせる。
この人と一緒に3ヶ月も暮らさなければいけないのか、と思うだけで深いため息が出た。そのため息を吐き出すとともに、指先と腹にチカラを入れて、最後の折りたたみ机をガレージから運び出した。
ユキが叔父のいるアメリカに行くことになったのは、母親からかかってきた突然の電話がきっかけだった。
「あなた、アメリカにいかない?」
唐突にそう電話口で話しだした母親に、ユキは混乱を隠せないでいた。
大学を無断で不登校し、更には勝手に退学手続きをしようとしだした娘にとうとう飽きれたのか。
それとも、休学をしぶしぶ受け入れたユキに同情してたのか、なんなのか、最初はその意味が全く飲み込めないでいた。
「叔父さん覚えている?アメリカにいる。彼がね、一緒にユキと旅をしたいんだって。」
どうやら、2度目の離婚が確定した叔父は、何も持たずに飛び込んだアメリカという膨大な土地を、何も持たずに飛び出そうということらしい。彼は、2度目の離婚をすると決まったため、全てを手放してアメリカという地を離れようとした。その前に、アメリカ横断という旅をしたいというのだ。
とんでもない53歳だ。ユキはそう思ったがなぜか、断る気持ちにはならなかった。
叔父のリーとの記憶は、はるか昔に強烈に刻まれた断片しか存在しない。その内容はいつも恐ろしいものだった。
中国で生まれ、6歳で日本に渡ったユキは、幼い頃を中国で過ごし、叔父の娘であるチャンという従姉妹のお姉と共に育った。ユキと叔父の思い出には、姉のチャンの存在が欠かせない。
なぜなら、彼女の悲しむ顔、泣き叫ぶ声、痛そうな接触音、そのものが、ユキとリーとチャンをつなぐ思い出の断片だったから。
そんな叔父と二人きりでアメリカという膨大な土地を旅するなんて、いやいや…まっぴらごめんだ、とそうユキの頭の中で色々な感情がうごめく。
でも、そんな不安を遥かに上回るのが今の現状に対する膨大な不安だった。
敷かれたレールに乗っかったままの人生なんてごめんだ、と言って突如飛び出した大学。そのままでいればなにも不自由なく、想定内の人生を歩めると思っていたけれど、それではダメな気がする。
何かを成し遂げなければいけないという想いにかられて、色々な人の期待を裏切った行為をしたと自分で自分を責めていたユキにとっては、例え相手が不快な思い出を共有する叔父であろうとも、この狭苦しい環境にいるだけの現状よりよっぽどマシなように思えた。
「わかった、行く。」
そう答えたのが2ヶ月前のことだった。
今、目の前には想像していなかった景色が広がっている。だけど、ここから何かが見つかるかもしれないという密かな期待も持ち合わせて、ユキは叔父との旅を決意したことを、思い出していた。
リーが新しく借りたアパートメントはどう見ても単身用の孤独者が住むような場所だった。
映画やテレビの中で見るアメリカの暮らしとはほど遠い、何もない土地に、ポツン、ポツンと同じ形をした茶色いアパートが立ち並ぶ。
ここに住む人は、やむを得ずここに住み着いているかのように、大した物音も建てず、皆がひっそりとしている。
薄暗い廊下に、不似合いの赤黒いカーペットは、この国の文化を表しているのだろうか。何にせよ、はじめて来る土地にしては、何一つこれからの希望を抱かせてくれないような場所だった。
部屋の中の床は、キッチンスペースとトイレ・風呂場をのぞきすべてカーペットで出来上がっており、あたり前かもしれないが玄関はない。
入る時は入り口の適切な場所で靴を脱ぎ、それぞれの室内用の靴に履き替える。だが、おそらくスリッパという文化がないのだろう、叔父のリーはあたり前のように靴を脱いだまま、靴下そのものが室内用のスリッパと変わっていた。
トイレと風呂場は一つになっていて、同じようにそこに洗濯機も置いてある。日本で言うセパレートも、この文化圏においては普通の形状なのだろう。大学に通っていた頃、日々のバイトでなんとかまかなっていた狭いアパートのセパレートとは、ちょっとわけが違う。
ここでは、これが普通なのだ、とユキはトイレにかがんだまま、自分の昔の生活を懐かしんでいた。
叔父との旅…いや、暮らしというものに対する後悔は、アパートに荷物を運び終えたその日からはじまった。
まず最初に、話すことがない。そして、共通言語は、ユキが日本の暮らしでは両親以外と交わすことのなかった中国語のみとなる。
英語も多少話せないことはなかったが、スーパーとも言えない小売店で、店員と話す叔父の英語を聞いてゲンナリしたことを思えば、もちろん英語での対話も無理だろう。ユキは母国語である中国語に自信がなかった。いや、自分の中国語力以前の問題として、ユキは自分の生まれた故郷のことをそれほど受け入れられていなかった。
「何が食べたい?メキシコ料理はどう?」
真っすぐな道を車で走っている時に、運転席から突然話しかけられてユキはまた目が覚める。この土地に着いてからというものの、どこか意識がはっきりしない。
自分の考えていることが浮かんでは消え、浮かんでは消え、見渡す限り膨大な土地と、平べったい家しかないこの空間に、自分の頭の声が吸い取られているような気分だった。
色々な想像や過去の思い出にふけっていたユキに、突然話しかけて来た叔父にイライラしているのを感じながら、
「なんでもいいよ。メキシカンを食べたい」と適当なことを言う。
そこからまた会話はなくなり、しばらく壮大な土地を車が走る音だけ、耳の奥で響いていた。
しばらく車を走らせると、ポツポツと小さな商店や、お店らしき看板が出ている低い建物のある場所に突入していった。
やっと、まともにアメリカっぽい、と思ったユキは、ふと叔父が行こうと持ちかけて来たのがメキシカン料理であることに気付く。
どうしてアメリカに来た一日目にメキシカンを進めてくるのだ、この男は。ユキの中で、叔父に対する何とも言えない気持ちが、過去の思い出と重なる。
ユキにとって叔父の存在は、とにかくすべてを脅かすような印象だった。トラのリー、と密かに心で呼んでいた幼い頃のユキは、その印象が自分の父親と少し被っていることに気付く。
父親はユキが一歳に満たない頃、母親と幼いユキを置いて単身で日本に渡った。本来は、アメリカに行く為のワンクッションとして日本を選んだはずが、気付けばそこに定住し、今となってはアメリカの「ア」の字も生活には見当たらない。再び父親と出会ったのは、ユキが小学生にあがる直前の6歳になったばかりの頃。
その頃から抱いていた父親に対する恐怖と恐れが、それよりももっと昔に見ていた叔父の姿とかぶって、ますます横で運転をするリーのことが憎たらしくなった。
「どうしてメキシカンなのだろう、ほんと空気がよめない…。」
誰にもきかれない声は、車のドアが閉じる音にかき消される。ついに到着した、これがはじめてのアメリカ料理(メキシカンだけど。)
どこか安っぽくて薄汚さを感じさせる店の外観からは想像がつかいほど、店内は混み合っており、大声で喋るガタイのよい人々が夜の晩餐を楽しんでいる。
少し待っていてください、と言われたのだろうか、レジ横の椅子に座るよう指示されたユキとリーの間に、車の中とはちょっと違う沈黙が流れる。うるさい中での沈黙は苦になりにくい。帰りもあのような沈黙があるのかと思うと、この店の騒々しさが常にあればいいのにとさえ、思う。
「こちらへどうぞ」
間もなくして案内された、4人がけのテーブル。薄暗い店内には不釣り合いの、黄色のテーブルクロスがしいてある。ボンッとテーブルの真ん中に置かれたキャンドルは灯っていない。ふと周りを見渡すと、どの席のキャンドルも灯されていないということは、ただの置物なのか、それともこの国の人間性を象徴するものなのか、ユキはそのキャンドルから何かしら自分の暮らして来た場所とは違うものを受け取っていた。
「お肉がいい?タコスというのが美味しいんだ。お腹がすいているだろう、お肉を食べよう。どの味がいいか選んでくれ。」
ちょぼちょぼとした目を細め、メニューに目を落としながらリーはユキにつぶやく。目と同じくらいちょぼちょぼとした口から、独り言のように何かを言っているが、それはどうやら、ユキに対してではなく、クセのようなものらしい。
思えば車の中でも、叔父のリーはひたすらちょぼちょぼと口を動かし、何かをつぶやいていた。これからのこととか、アパートのこととか、ユキがこれから通う学校のこととか。
旅に出るつもりでやってきたユキにとって、学校に通うなんてそんな話は知らない、と独り言として聞き取らないようにしていたのだけど、それにしてもリーのちょぼちょぼとした独り言は、どうにしたってカンに障る。
『だから、2度も離婚したのよ…』
ふと、そんな恐ろしい声が自分の中から聞こえて来て、ユキは焦るようにメニューへと視線を落とした。
英語で書かれたメニューは、単語ひとつひとつや、文章が一文、一文ならともかく、びっしり詰め込まれて書かれるとどうも意味が分からなくなる。大学受験の為にあれほど必死に勉強した英語も、こうして生々しい文章に触れることで、全く意味がなかったのだと思い知らされる。
しかめっ面でげんなりしている叔父がユキに更なる追い打ちをかけるかのように言った。
「ユキ、何でも好きなものを注文していいんだぞ。たくさん食べて明日からに備えなきゃいけないからな。ほら、何を食べる?」
この英語が重なったメニューを理解するのに時間がかかることが言えないユキは、とりあえずこれでいいや、と二つほど指を指した。
一つはかろうじて読み取ることが出来た「タコス」と書かれた一品。もう一品は完全に運にお任せ、というところだ。
ユキが指をさしたところでリーは顔を上げ、店員を呼ぶ。つたない英語とおちょぼ口で、店員にメニューを頼むと、愛想のない女性店員はメニューを颯爽とさらっていってしまった。
再び、沈黙が流れる。いっそのこと、メニューを置いていってくれれば何も考えずに、このメニューを眺めることが出来たのに。憂鬱な顔を見せないようにと、店内を見渡す。
「明日からのことなんだけど。」
ふと、リーが沈黙をやぶった。
「明日は同じアパートに住む友人を紹介するよ。彼女は、ユキがこれから通うフリースクールに連れて行ってくれる。毎朝彼女と待ち合わせをして、車で学校に向かうんだ。一日目は試験だからな、少し勉強しておくといい。」
途切れもなく、あらかじめ決めてあったことのように喋りだすリー。ユキはその事実をはじめて知ったかのような顔も出来ず、ただ混乱していた。
『わたしが学校?旅はどうなったの?っていうか、アパートに友人がいるの?それならどうして最初っから引っ越しを手伝ってもらわなかったの?
っていうか、何で学校にいく手続きがしてあるの?私、何も聞いていないけど?』
この混沌とした怒りにも似た感情を、なんとかなだめ、ユキは順序よく自分の聞きたいことを聞いていくことにした。
「叔父さんは、どうするの?仕事はもうやめたんでしょ?
「いや、それがね、今すぐにやめることは出来なくて。僕の代わりがいないからっていって、あと1ヶ月ほどはこのまま仕事をしなくちゃいけないんだ。」
リーの仕事は、鍼灸の先生だ。東洋医学というものは西洋医学が基盤のアメリカでは割と重宝されていて、それなりに仕事が忙しい。叔父のリーは、中国で東洋医学を学び、鍼灸師としてアメリカに渡った。
「それに、今すぐ旅に出るとしても、そのための準備と資金が必要だ。僕が仕事に言っている間、ユキは学校に行って英語を勉強するといいよ。そこはお金のいらないフリースクールだから、外国人の友達もいっぱい出来るし、ユキなら大丈夫だよ。」
叔父の言う「ユキなら大丈夫だよ。」の一言に、無責任さと、自分の不安とが混じり、今すぐこの店を出てやりたいと思った。
けれども、この場所は、もうかつて住んでいた馴染みの深い街ではない。出て行ったところで、車がなければ何も出来ないようなこの場所で、逃げ道はない、とユキは思った。
「わかった。じゃあ、あと一ヶ月したら旅に出られるんだよね?」
「あぁ、そうだよ。あと一ヶ月したら離婚調停も終わるし、仕事も片付くから、それまではしっかり学校に通って英語を勉強しておくんだよ。」
タイミングよく運び込まれた大皿の料理に、救われた気分のユキだった。これ以上会話をしていると、思わぬ暴言を吐きそうだったからだ。
それはおそらく、叔父に対する怒りだけではなく、この土地にポンッと投げ込んで来た両親の無責任さに対する怒りや、自分でどうすることも出来ないこの場所での孤独感や、先が見えない不安に対する、つまり自分自身に対する怒りだった。
その日食べた、メキシカンタコスの味はとても濃くて、ジューシーそうに見えて固いステーキはユキにとって忘れない味となった。
いや、忘れてたまるもんか、とどこか心に誓い、ユキのアメリカでの一日目はスタートした。
つづく
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