ぺいぷら

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カリフォルニア州の中部、アプトス市にあるカブリオ・カレッジ、そこにあるお気に入りのベンチに私は腰をかけている。自身のノート・パソコンで宿題やメール・チェックを行う。ふと、私はどこまでやってこれたのだろうか日本からカリフォルニアまで、を思う。齢29歳。この6年間は、人生で最もドラマチックであった。いまのところ、私の人生は何度も浮かんだり沈んだりだ。何が起こるかなんて想像もつかなかった 誰かのアドバイスに従って人生の岐路を選んできた。私がこれから話そうとしているのは、そうした生き方から己と他人について学んだこと、そして、その結果についてである。私は、私の為に用意してくれた選択肢を全うしなければいけないと思っていた。必ずしもそうではないと気づいたのは、ある年配の日本人男性との出会いであり、この人物は私にどのように人生を成功させるか 過去のことは忘れ、前向きに、目標を持ち、他人を思いやる、ということを教えてくれた。

2001年以来、私は、オオサカにある某新聞販売店で働いており、毎週6日間、早朝と夕方の新聞配達、電話受付、その他雑用、そして上司の指示をすべてこなしていた。月々の給料に加え、通っていた大学への授業料を奨学金で全額給付、また会社の寮も与えられた。ひとりの上司には特に気に入ってもらい、私的な会話も増えた。ある時、私がその上司に言ったのは、アメリカのシアトル市にある大学へ留学するつもり、ということであった。私は、その大学で1年間英語とビジネスを学び、そして現地の会社でインターンシップをするつもりだった。私の上司は是非紹介したい人がいると言って、その人物が今働いている同じ職場にいることを明らかにした。上司によれば、その人物は年配の日本人であるが、アメリカの大学を卒業し現地で働いていた、という。

2004年の11月14日は早朝5時半、私は自分の部屋で一本の電話を受け取り、それは私の上司が話していた年配の方からであるとわかったが、名をヒライと言った。カレは私がシアトル留学することを聞き、私と会ってみたいと言った。どうしようか迷ったが、私は紹介をしてくれた上司へ恩義を感じていた。ヒライと名乗る年配の方は近くの公園で会うことを提案した。また、カレは現金3万円を持ってくるように、とも付け加えた。私は困惑した。3万円といったら大金であったし、どのような理由があってのことだろう?また、公園へは30分以内にという新たな条件も加わっていた。頭の中で考えがぐるぐる回っていた、行く、行かない、行く、行かない。私は行くことにした。一番近いATMに急ぎ、必要分を引き出し、指示された公園へ走った。神経質になっていた。まだ外は寒かった。

私がその公園に着くと、一人の年配の男性が園内のベンチに座っているのを確認し、その人の隣に一匹の犬が寝転がっていた。近づくと、この男性がヒライさんに間違いないと思った。カレは軽く会釈した。お互いの自己紹介をすませ、握手を交わした。カレは180cmもの長身で、黄色のパーカをまとい、頭にはドジャースのベースボール帽を被っていた。また、リーバイスのジーンズとナイキのシューズも着こなしていた。カレとの話でわかったことは、歳が63であることだった。ぱっと見ればアメリカの高校生のような雰囲気ともいえた。カレは連れてきた犬を紹介したのだが、名をアガペーといった。

カレがすぐに知りたかったことは、私が例の現金を持ってきたかどうかであった。私は、それを手にとってみせた。カレは私の顔をみて、ほほえみ、そして、こう言った、「実はこれがキミへの最初のテストだったのだよ。」「どんなテストですか?」と、私は尋ねた。「私がキミとうまく歩んでいけるかどうか、それを決めるためのテストだ。」と、カレは答えた。私は、「どういうことかわかりません。」と、言うと、カレは次のように話した、「キミに英語を教えることはできる。しかし、私はそれを超えるものを教えたいと思う。つまり、アメリカ的な成功する人生の送り方、とでも言おうか。」

私はカレに尋ねた、「成功とはどういう意味でしょう?」、と。すると、カレは自身で成功を定義したが、それは金銭的に自立しており、車、家、ボート、など何でも買えるくらいお金に困らない、ということだった。これについて、私は暫く考えた末、自分も成功したいと決心した。「いいお話ですね。では、どのように教えて頂けますか?」と、私は尋ねた。カレは、「では、私の自宅へ一週間に2回来なさい、そして、代価を支払うこと、これが大切。」 私は持っている現金を差し出した。「お金については、後で話そう。」と、カレは少しモゴモゴした。私はカレの自宅の住所を教えてもらった。別れの握手を交わし、その場をあとにした。

私は天にも昇る気持ちであった。ついに、自分の人生を変えるチャンスがやってきた、というたぐいの感覚だった。私はこのとき22歳で、自己嫌悪の塊であり、日本社会を斜めに見ていた。自身の成長過程と家庭環境は決して納得できるものではなかった。幼いころから事情により、父方の祖母が私の面倒を見るようになったのだが、その教育方針はスパルタであった。私の学校の成績は完璧でなければならなかった。自宅での掃除のようなお手伝いは、時間どおり終わらせる必要があり、これもまた完璧にこなすことが必須であった。何をしてもたいてい一言二言文句を言われた。常にイライラしており、その腹いせは私によく向けられた。だが、私は、「いい子」になった。私には弟がいるのだが、小さい頃、わたしより子どもらしく、いい子になるのに抵抗があるようにみえた。一家は、お金の無駄遣いがほとんどなかった。生活に困ることはなかった。祖母は「正しい」服装へのこだわりがあり、たとえば、わたしはシャツやスラックスを着た。小学校のともだちはジーンズやTシャツを着ていた。自分が時代遅れと思った。なかには私のそんな服装をからかう輩もいた。だから、中学校、高校へと入学したとき、みな制服を着ていたので、服へのからかいがなくなると思うと安心した。だが、私の一匹狼的な存在によってか、いじめのターゲットになり、さらに内向的になった。

 

人生レッスンの始り

ヒライさんに出会った翌日、約束に従って、私はカレの自宅に朝7時ちょうどに着いた。仕事と学校の多忙なスケジュールではあったが、約束を守ることは重要であると認識していた。

私は門を通り抜け、その家の玄関に立った。カレの自宅はとても古く、暗いイメージを抱いた。その玄関は木製でガラス戸であり、光の反射によっては、玄関奥の動きが見えた。その玄関を軽くたたくと、ヒライさんはアガペーと一緒に現れ、和やかに私を迎えた。アガペーとじゃれたあと、ヒライさんは、「ほら、2階へ上がれ、それと、コーヒー持ってあがるから待っとれ。」と、言った。

私は2階にあがると畳の上に正座した。まもなく、カレは階段を上ってきたが、お盆にコーヒーを2カップのせており、ひとつを私に差し出した。私はとても緊張していたので、そのコーヒーを一気に飲み干し、気持ちがいくぶん和らいだ気がした。カレと対面で座っていると、ヒライさんはレッスン中におけるルールについて、説明した。「どんなルールでしょう?」と、私は尋ねた。カレは、「ルールその1、今から、英語のみを使用すること。ルールその2、紙とペンを持参し、話すことすべてを記録すること。ルールその3、トイレに行きたいときは手を上げること。」と、言った。わたしは、同意の旨を伝えた。そして、レッスンが始まった。

この日のレッスンでは、ヒライさんは一枚の紙を差し出したのだが、そこには「新しい一日」という題の詩が英語で書いてあった。この詩は、カレにとってかけがえのないもの、という話だった。アメリカ原住民から伝わるものと、カレは言っていた。(この詩は実際のところ、ドクター ハートスィル ウィルソン氏によるもの、と何年もの後にインターネット検索をして知ることになる。) ヒライさんは、毎日この詩を誇りを持って唱えていた。カレはそれを私と分かち合いたいと考えていた。カレが文毎に区切って読むと、私はそれを真似して繰り返した。

 

「新しい一日」

「今 新しい一日が始まろうとしている

天は 私に自由に使えるこの一日を与えた

私は この一日を無駄にすることも あるいは 生かすこともできる

しかし 今日何をするかが重要なのだ

なぜなら私は 私の人生の一日という時間を 犠牲にしているからだ

明日がやってくると 今日と言う日は二度と戻って来ない

自身に残るのは その一日で取引したものである

私は それを失うものではなく得るものに

悪ではなく善であり

失敗ではなく成功にしたい

後悔しないように

私が支払った代価に対して」

 

ヒライさんの説明によれば、この詩は時間への認識と感謝について学ぶものであった。カレは、私がこの詩を理解したかどうか尋ねた。カレが言うには、成功者と呼ばれる人々はいつも時間を大切にしている、という。「新しい一日」という詩は、言い換えれば、人々の心構えを教えるのもであり、それは、待ってましたとばかりに朝を起き、新しい一日を手厚く迎え、去る日からのネガティブな考えを引きずらない、ということだった。ヒライさんはまた、別の紙を私に見せたのだが、そこに示されたチャートからは、一般的に、人々が時間を有効に使っていないことが読み取れた。その日のレッスンが終わり、私が帰ろうとすると、カレは例の3万円について話した。今後の3ヶ月分のレッスンをするにあたり授業料という形で渡した。私は、「新しい一日」の詩を持ち帰り、繰り返し読み、覚えようとした。それまで私は、時間について何とも思わなかった。すると、これまでの時間の使い方を思い出したのだが、たとえば、私は勉強よりもテレビゲームに何時間も熱中した。友人との遊びばかりで、親とはほとんど話さなかった。

翌週の金曜日はレッスンの日であり、私はヒライさんの自宅へ朝7時ちょうどに着いた。いつもの門を通過すると、カレが外に立っているのが見えたが、このときカレは、ドジャースのスタジャンにおそろいのベースボール帽、そしてパジャマのようなズボンに下駄を履いていたこともあり、少々変な感じがした。そんな気をよそに、カレは、私に2階へ上がって待つよう促した。カレはこのとき、熱々のコーヒーに加えて、アメリカ直輸入のチョコレートチップクッキーをお盆にのせて、2階へ上がってきた。レッスンが始まるとカレは、「今日は衛星放送でメジャーリーグの試合を見るぞ。」と、言った。カレはテレビをつけると、メジャーリーグ野球がアメリカ人の大好きなスポーツであることを説明した。また、カレが付け加えたのは、ゲームの開始前に星条旗を歌えることが名誉なことである、ということだった。私も覚えなければ。

ヒライさんはこのときの試合観戦を存分に楽しんだが、私はテレビから聞こえてくる野球解説者の言ってることを理解できずにいた。そのあと、私はカレから英語で書かれた忠誠の誓いの紙を渡された。カレは私にそれを翻訳し、また、あたまで考えずに言えるようにすることを宿題としたが、これは、私が忠誠の誓いを無意識で言えるレベルにするため、だった。一方で、私は仕事と学校の両立で猫の手もかりたいほどであった。宿題をする時間は通学中しか見当たらなかった。それまでそれは、仮眠に使っていた時間だった。だが翌週のレッスンまでに、なんとか暗唱できるようになった。さて、その次のレッスン時、カレは、開始と同時におもむろに立ち、右手を左胸にあて言うには、「こんな風に言うんだ。」、と。カレによれば、アメリカの学生は毎朝、アメリカ国旗の前で忠誠の誓いを暗唱し、その旗はどの教室にも掲げられていたそうだ。この慣例はすべての公的な式前においても行われていたらしい。

 

「忠誠の誓い」

「私はアメリカ合衆国国旗と、

それが象徴する、

万民のための自由と正義を備えた、

神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、

忠誠を誓います」

 

最初はこの意味はおろか英文すらよくわからなかった。ヒライさんは私に辞書をつかってこの英文を日本語に訳するよう言い、翌週私は自分の翻訳文を見せた。カレはあまりいいできとは思わず、そのため一語一語意味を私に説明した。

レッスン中、ヒライさんはいつもホットコーヒーとSnickerのチョコレートバーを差し入れた。時々カレは、一品料理をもってくることがあり、たとえばすき焼きだが、これでもかというくらい野菜、肉、そして豆腐が入っていた。とてもうまかったが、カレが作ったのかどうか、不思議に思っていた。というのも、カレはアメリカンフード、たとえばハンバーガー、ピザやホットドッグしか食べていなかったからだ。ある日の午後、カレは一階に住んでいる女性を私に紹介した。奥さんだと、そのときは聞いた。(実は元奥さんだったと知ることになるのはもっと後のことである。)

ヒライさんが一階の台所から戻るのを待っていたとき、私はカレとのレッスン部屋を眺めていた。一枚の表書状が年季の入った額縁に飾られており、その英文で書かれた文章を読むと、ヒライさんがアメリカにおいて1964年に自動車のナンバーワン・セールスマンだったことが判明した。アメリカ・カー・セールス協会からのサインが記載されていた。また、私はレッスン用の机に置いてある数冊の本を手にとって見た。すべて高級車についてだった。ヒライさんは部屋に戻り、いつものように対面して、いつもの使い古した濃い緑色の座布団に座った。この日は、レッスン用の紙を使うことはなく、テレビをつけた。チャンネルを変え、メジャーリーグベースボールの画面になった。カレは、「今日は試合を楽しむとしよう。」と、言い、なぜレッスンになるかを説明した。それは、アメリカの文化に親しむことで、現地に行ったとき、地元の人々と交流できるから、というものであった。2時間ほどテレビ中継を見た後、カレは私に毎日寮で見るよう勧めた。何度も繰り返すが仕事と学校の両立で余分な時間はなかったのだが、インターネットで試合結果くらいは見ようと思った。

とある日のレッスンで、ヒライさんが説明した内容は、日本人のたった5%しか金銭的に成功していない、というものだった。もし、私がそのグループに入りたければ、「シンク・アウトサイド・ザ・ボックス」必要があることだった。「どういうことでしょう?」と、私はカレに尋ねた。一度も聞いたことがないフレーズだったからだ。カレは、「仕事に勉強に努力するのは当たり前だが、アイデアがなければいけない。」、と。私は、「どんなアイデアでしょう?」と、言うと、「誰もがほしがる何かを提供する、アイデアだ。過去にトースター、自動車、電球、などなど 発明はアイデアから生まれた。発明家は長年かけてアイデアを練ったという。誰も途中で投げ出したりしない。オマエラみたいな根性のないワカいモンと違ってな。」と、カレはいつもの皮肉を混ぜて話した。私が門を出たとき、別の詩が書かれた英文の紙を手渡された。

 

「いけないよ 君 やめては」

「すべて悪天候 すべて悪条件、君 いけないよ やめては

疑いの雲だって銀のおおいだろう

つらいんだろうがガンバローよ

最悪の時こそ 君 いけないよ やめては

あゆみは遅く スロー

だけどあと一歩かも

とぎれる呼吸で見えないんだね

遠くに思えるんだけど近いんだ

君 いけないよ やめては」

 

私は、以降シアトルへ行くまでのあいだ、毎週ヒライさんのもとへレッスンを受けに行った。教わったすべてに対して、私は感謝の気持ちでいっぱいであった。カレは私のメンターであった。師と仰いだ。3ヶ月間であったが、カレの人生について知ることもできた。

師匠の話によれば、18歳のときに渡米し、その目的は一財産を築くことだった。その理由のひとつが、カレの母親の手術費用に必要なお金を稼ぐことであった。その母親には保険でまかなえる金額は到底なく、かといって手術しなければ先はないというものだった。師匠は渡米後、カリフォルニア州はロサンゼルス市にあるビルナカサキ氏のイチゴ農園で働くチャンスを得た。ナカサキ氏はこの若者すなわち師匠を気に入り、その将来性を見た。ナカサキ氏は師匠がアメリカで合法的に滞在してほしいと思った。そして、保証人になったそうだ。グリーンカードを取得後、師匠に大学へ行くこともすすめた。ナカサキ氏の期待にこたえ、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学で心理学を専攻した。

当時、師匠は大学の授業料を自分で賄うため、近所の一軒一軒をまわり百科事典を売った。カレは、誰にどんなものでも売ることができた。この経験と心理学で学んだ知識を活かし、カレは本よりももっと儲かる、自動車を売ろう、と決めた。その3年後にカレは、カー・セールス・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

師匠の母親はカレの稼ぎが間に合うのを待たずに他界した。失意の底からなんとかはいあがったものの、収入が増えると、カレはギャンブルにのめりこみプレイボーイの生活をはじめた。人生はよかった、いや、良過ぎた! 26歳のとき、カレは莫大な借金を背負い、アメリカを去らなければならなくなった。日本に戻ると、カレは様々な職に就いた。

師匠は、まもなく結婚してこどもをもうけていた。だが、家族をほったらかすことは頻繁にあり、おもに商業出張であった。カレは、日本国外にいる必要があった。第一次湾岸戦争時、カレは水の供給を手配する中間業者だった。その後シンガポールに移ったときは、地元企業役員に、アメリカスタイルのビジネスを取り入れるよう、研修を行った。カレの妻は、ずいぶん前に夫に愛想をつかし離婚していた。

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