ぺいぷら

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日本帰国の前夜、バーバラさんは私のために腕をふるって料理してくれた。彼女は素晴らしいコックであり、そして先生でもあった。私に住むところだけでなく、食べ物、着るもの、教育を提供してくれ、そして、自立の意味を行動で教えてくれた。私は師匠のヒライさんが教えようとしたことを理解し始めた。つまり、この狂気の計画で私が自立するよう、そして自律するきっかけになるように、と思ったのだ。結局、パロアルトへ行って働き、勉強するという目標は達成できなかったが、私はそれをどのように達成するか、というアイデアを得ていた。

最後の夕食を食べていたとき、バーバラさんと私はそれまでの日々を振り返って話しをした。そして、私は自分の荷物をまとめ早く寝ることにした。翌朝、朝食をとると、彼女は私をサンホセ国際空港まで車で送ってくれた。空港のチェック・カウンター付近の玄関に着くと、彼女は100ドル札を私に渡したのだが、これはもしかのときに、という心遣いだった。彼女は旅行かばんを前日にプレゼントしてくれており、そこには、凝縮の3ヶ月未満で得た、着るもの、勉強に使ったノート、そして、思い出を詰めた。バーバラさんは、「縁あって会ったのは良かったわ。気をつけてね。」と、言ってくれた。私は彼女に何度もお辞儀をし、「おかげさまで、一生経験できないような日々を送れました。また、戻ってきます。約束です。このご恩は忘れません。では、次回会うときまで、失礼します!」と、別れを告げた。予定通りの飛行機に搭乗し、アメリカを発った。その日は、2007年のアメリカ合衆国が独立記念日を祝ってから1週間後であった。

 

日本に帰還

カリフォルニア州での約3ヶ月におよぶ冒険もおわり、私は日本に無事戻ることができた。最初にかけた電話は父親へだったが、後日家に寄ったときに、私の残したメモと写真が飾っており、まるで仏壇のようであったのを覚えている。

また、私は師匠のヒライさんに電話を入れ、無事の旨を伝えた。カレは私に自宅へ来るよう言い、次の計画について話し合う必要性を説いた。私がわからなかったことは、カレが、法律、ビザの条件といった、アメリカのカリフォルニア州に滞在するための諸事について知っていたかどうか、であった。カレにしてみれば、それらは、私がカレの計画を遂行できなかった言い訳にすぎなかった。

コンピューターやインターネット検索機能は師匠にとってなじみのないものだった。たしかに、私は前もって、計画に必要な情報を調べることはできた。その場合、違ったルートで計画を進めていたかもしれない。師匠の計画に飛び込んだのは、私が決めたからであった。数日間、風邪、空腹、孤独と対峙した。カリフォルニアでは、天使に会い、自身を見直し、また、合法的にかつ事前の準備をして行くことがどれだけの価値があるか、を学んだ。新たに見つけた目標を達成するために、新しい計画が必要になった。

 

コーヒーと師匠に再び

「元気だったか?」 通いなれたあのフルイ家の玄関をたたくと、師匠はいつものように私を迎えた。正直、私が無事に帰ることを師匠は予期していなかった、かのように思えた。実際、カレは予期していなかったようだ。「オマエがどうやって生きながらえたのか、想像もつかんわ。いや、本当に。だが、戻ってきて何よりだ。」と、カレは言った。調子狂ったが、ともかく私は二階にあがり、カレを待った。以前のように、コーヒーを2カップ運んできて、一つを私に差し出し、そして、話し合いが始まった。カレは、次のように言った、「さて、オマエはアメリカで滞在して2回とも失敗したので、勉強や仕事において成功したいという気持ちがもろすぎる、といえる。この次は3度目になる。そして、これがオマエにとって最後のチャンスとなるだろう。もし、失敗すれば、オシマイ。だから、ここで勢いをしっかりとつけ、今一度やる気を出さなければならない。とにかく一生懸命働き、カネを貯めろ。」

私は師匠に、アメリカにはチャンスが山ほどあり、通いたい大学があることを伝えた。私にはたくさんのカネが必要だった、というのも、留学生は地元の学生が払う倍以上の授業料を払う規則になっていたからだ。私の新たな計画のために、どのように貯金し投資するかを話し合ったあと、師匠の「奥さん」がつくってくれたアップルパイにアメリカンコーヒーを頂いた。私は今後のレッスン料として6万円払うことで合意した。翌週、私は、ミエに移り、トヨタ系列の工場で働き始めた。以後は、オオサカにいる師匠に会うため、月一回、電車で4時間かけることになった。

 

トヨタ系の工場

もともと、私は工場で働くつもりはなかった、というのも、ヒルトンオオサカで受付の仕事をするつもりだったからだ。実際、インタビューの結果待ちだった。師匠は、工場で働くように言い、その理由として、カネを稼ぐことだけに集中する必要性を挙げた。また、1,2年で辞めることがわかっていて、正社員に応募することは、会社に失礼である、とも説いた。私は反論する理由がなく、カレのアドバイスに従うことにした。すぐに、トヨタ系列の自動車工場のアセンブリラインで働く一年契約を、派遣業者を通して交わした。小さなアパートを借りることになった。アパートと工場の往復は、送迎バスによるものだった。

私が配属された工場は当時、およそ200人ほどの正社員と1000人もの季節労働者で操業されていた。季節労働者の年齢層は下は18歳、上は50歳くらいまでだった。そのうち、95%は男性だった。以前の会社から解雇されて流れてきたものは多数集まっていた。そのほとんどは高校卒業資格がなかった。私は、明らかに下層階級のたまり場にいた。そういった人々にとっては毎日が変わることのない日々。仕事は一定作業の繰り返しで、その時間配分は恐ろしく早かった。この職場の雰囲気はというと、それまで経験したどれとも、大きく違っていた。私は場違いな気がした。結局、私は一度大学生であり、私の傲慢な態度が変わるのは、もう少し後のことだった。

とはいえ、この環境は私の精神力を鍛えるという意味で、格好の場所だった。私は、師匠の教えを思い出した。「オマエが周りをコントロールするんや。周りにコントロールさせるな。」 つまり、私はこの状況下でも、アメリカ留学の計画を忘れず、やる気を持続しなければならなかった。と同時に、私が思ったのは、工場のヒトやモノの流れ、また、トヨタ方式を学ぶべき、ということだった。しばしば、配属部署の正社員である長と会話した。いつだったか、耳にはいってきたのは、2008年の世界不況のため、大量解雇があるかもしれない、ということだった。契約を新たに更新する場合、手取りがかなり減ることは自然と予測された。

働き始めて一年経ち、私は150万円をためた。私はこれを師匠に送った、というのも、カレは、「オマエはどうせ服や漫画に無駄遣いする。」と、言ったからだ。カレは私のために、知り合いの投資ファンドに話をつけ、倍以上に増やすことを誓った。私は、ぎりぎりの生活を送った。ハンバーガーが大好きだったが、それもぜいたく品とみなし、一切無駄遣いしなかった。

工場内では、一年で部署を二度変わった。初めは、電気自動車を使って、自動車部品を乗せた台車を、工場内で連れまわしては、ラインとよばれる組み立ての工程へ届けることが、作業だった。その作業の要求スピードはまさに、人間業ではなく機械にさせるようなレベルに思えた。部品の種類は100種類だったろうか、それぞれの運ぶ重さ、大きさ、数、置く場所は、決まっているので、覚えてしまうまでが勝負といったところだ。始めたころは特に遅れて部品を届けたり、部品を落としてダメにしたため、暴言を吐かれることは日常茶飯事だった。部署を変わって、慣れてきたころは、部品を受け取る部分もこなし、暴言を吐く作業員の気持ちが分からないでもなかったが、私はそれをする気にはならなかった。その年の冬、大量解雇がいよいよあるらしいという話を、正社員の方々から教えていただき、一足先に工場を辞めることにした。

 

日本のギャンブル場

エンターテイメント業界というと聞こえがいいが、私はパチンコ会社で働こうと思い、別の派遣会社に履歴書を送り、面接もすんなり通り、長期契約を結んだ。私の職名は、ホールスタッフだった。

私がこの業界に興味を持った理由を挙げるならば、ひとつは、前回の工場のときよりもカネを稼ぐ可能性が十分にあったからだ。ふたつめには、この業界で働いたことがなかったという、単なる好奇心にあるだろう。仕事内容は、おおざっぱにいうと、ホール内のすべての人をVIPのようにもてなし、楽しんで遊戯してもらう、ということだった。また、遊戯説明もときどき必要だった。加えて、犯罪行為もありえることから、監視も仕事のひとつだった。同僚である派遣社員や会社の正社員は平均年齢が若く、業界名に相応しく、活気あふれていた。私は、大きな目で見ると、仕事を良くするようになった。仕事を覚えるのは早かった方で、同僚のなかには、仕事内容について私にアドバイスをくれたり、逆に質問するものもいて、ともにその解決方法を創り上げた。私は自分への自信が少し増え、自律心が育ったように思った。ホールで一日に何十人何百人との生のコミュニケーションがあり、そのおかげで、自分の殻から出ることができた。あるとき、会社の他店からお忍びで見学に来ていた役員クラスのひとりから、直属の上司を通じて、スタッフのお手本である、とお褒めの言葉を預かった。「見本となって示すように」とは、私が師匠から学んだレッスンのひとつであった。

2009年秋までに私は新たに150万円を留学用に貯めた。誇りをもって、師匠の口座に振り込んだ。

 

 

 

ピザとビールのおごり

2007年の夏以降ずっと、師匠と私は一週間に一度必ず、それぞれの携帯電話で英語で会話した。2ヶ月に一回は、電車で4時間かけて、オオサカにあるカレの自宅へレッスンを受けにミエから向かった。だが、2009年冬になると、自宅の代わりに、ピザ屋で会うことになった。時々、そこに若いものも加わった。カレらは、私の新聞奨学生の先輩後輩で、現役のものもいた。師匠がいつも食事代を全額払った。みな、とてもおいしい思いをした。リラックスできていた。師匠が続けていた新聞配達を1年も前にやめていたことを知ったのは、このときが初めてだった。

たまに師匠の自宅でレッスンのときは、コーヒーとチョコレートチップ・クッキーがおなじみだった。カレは、私の振る舞いや英語の発音にまだ納得がいかないようだった。私の職場での活躍もカレにとってはまだまだであった。そして、カレが私の発する言葉について指摘するのが、いつものことであった。言い換えれば、もし、自然と不満をもらすようであれば、私は成功者としての考えかたが身にしみていない、むしろ、失敗者であるということ、だった。ふと、レッスンの部屋で気づいたのは、カレの椅子にかけてあった新しい高級なジャケットで、カレは誇らしくそれを手にとって私に見せた。また、カレはナイキの特注である高級スニーカーも持っていた。カレはポケットから2万円を取り出し、好きなスニーカーを買うようにと、それを私に渡した。私は返した。

また年の暮れ、師匠から、新年会と称していつものピザ屋に招待された。私がそこで師匠に伝えたことは、翌年にアメリカへ留学するつもり、ということだった。カレは、今その時ではない、と言った。しばらく待つように、と付け加えた。私は、年齢も年齢だから、と、もう勉強しなければ、という理由で、出発したい意向を伝えた。フォロー・アップとして、その日のうちに、師匠に改めて、翌年の留学の意志を伝え、私の口座にこれまで預けた金額を、いったん送るようにお願いした。学生ビザのために、私は残高照明をとらなければならなかった。

 

 

 

午前5時半の電話

師匠は、私と二人になってから、私の投資がどうなったかについて語りだした。カレは、それを投資ファンドに送っていたことを話したあと、世界不況のあおりを受けて300万円が170万円になってしまったことを告げた。私は、「残念です。しかし、とにかくそれを私の口座に送ってください。今、残高証明を取る必要があります。それで、アメリカ留学を始められるのです。」と、強気に言った。すると、「あいわかった。少し時間をくれ。4月までに送るよう手配する。」と、師匠は言った。私は電話を切った。私は、ビザ発行に必要な他の書類を集めたり、大学入学志願書の作成に取り掛かっていた。残高証明が最後の鍵だった。

私はもしやという期待で毎日、自分の銀行口座を調べた。もちろん、一円も入ってきていなかった。私は師匠の携帯電話に度々かけた。返事はなかった。留守電に伝言を残したが、どうにも返事がなかった。心配になった。師匠は海外の投資ファンド・マネージャーのところへ行ったのだろうか?あるいは病気になったとか?

2010年の2月28日5時半、携帯電話が鳴ったのを反応でとり、半寝ながらも、電話に出た。それは、師匠からのものだった。

「もしもし、お元気ですか?」

「ああ。」

すぐに私は何かおかしいことに気づいた。カレの声の調子が普段のそれとかけ離れていたからだ。なんだが、鬱というかとても弱々しかった。

「オマエはどうしてる?」

私はいつものように一生懸命働き、勉強している、と返事をした。

「何かあったんですか?」

「オレな………破産したんや。」

カレは、それがつい最近であることを私に伝えた。

しかし、私は、

「だから、何だと言うんです?あきらめるつもりですか?」と、言い。更に続けた、

「あなたは、失敗してドン底に落ち込んでも、次のステップを決め、そして這い上がってきた。加えて、あなたのレッスンには、“周りにコントロールさせるな”とあるではありませんか。この状況をコントロールしないでどうされます?弟子に言っておいて、理想で終わらせるのですか?がっかりの領域を超えて嬉しいくらいです。」

「そうがっかりするな。前向きになれ、いつも言ってるように、身体的にも、精神的にも、心も、強くあれ。」

「問題ありません。来週いつものように電話します。お電話ありがとうございます。では、失礼します。」

そう言って、私は電話を切った。しばらくのあいだ、私は困惑していた。この妙な気持ち― 第六感は何を意味しているのだろうか、と、目をつぶり考えた。再び夢の世界に入った。

翌週、私はいつものように近況報告をすべく、師匠の携帯に電話をかけた。だが、このときは留守電にすぐつながった。伝言を残した。忙しいのだろうか、と思った。その週の終わりになっても、カレからの返事はなかった。さらに次の週、カレに電話したが返事はなかった。こうなってくると、何か通常でないことがカレに起こっているのでは、と考え始めた。結局3月はいちどもカレからの返事が来なかった。

2010年は4月1日、私は、だいぶ前に師匠の「奥さん」から教えてもらっていた自宅の電話番号にかけてみた。すると、ほとんど待たずして、正にその「奥さん」が出た。「もしもし?」 私は飛び上がるように嬉しかった、というのも、ようやく師匠と話の続きができる、そう思ったからだ。私は、「奥さん」に師匠に取り次いでもらうようお願いした。そして、彼女は言った、

「え、あなた知らないの?あのヒト亡くなったんよ。」

 

 

 

オオサカ湾のいずこ

冗談かな、と思ったので、「奥さん」に聞いた。「これはエイプリル・フールっていうものでしょうか?」と、尋ねると、彼女は、「あのヒト死んじゃったの。」と、言った。それから、師匠の死について、語りだした。

2010年2月28日、師匠はオオサカ湾をぐるっとまわる、ヒメジ港発の遊覧船に搭乗した。カレの最後の姿が目撃されたのは、船内の食事処で昼食(?)のラーメンを食べていたときだった。その日は、くしくも、カレが朝5時半に私に電話した、「あの」日だった。サイズの大きい二足の靴が上部デッキの端の近くで見つかった。乗船者のひとりがあとで報告した話によれば、男性が船から飛び降りた、という。師匠のサングラスとウエスト・ポーチは、カレが最後の食事をした、テーブルに置かれていたそうだ。身分証明証がそのポーチから見つかっていた。

私は、そのとき聞いたことすべてを信じることができなかった、というのも、私の知る師匠がとったとは思えない行動ばかり― カレはヤバイ状況や病気になっても自殺することは、ありえない、そういうタイプだった。死ぬまでしぶとく粘ったはずだ。現実は、というと、カレは書類上、すでに死亡扱いとなっていた。ヒメジ港湾警察はカレの遺体を捜索した。それは2日間で見つからなかったので、捜索打ち切りとなった次第だ。

私は、師匠の「奥さん」に話し続けた。

「あの、一度ご自宅に伺いたいのです、そして、私がヒライさんに投資として送ったお金についてお話したいです。宜しいでしょうか?」、と。彼女は、「ええ、どうぞ。うちにおいでちょうだい。私もお話したいことがあるから。」と、言った。日取りを決め、電話を切った。私は、急遽、仕事の休暇をとった。

4日後、私は、「奥さん」の家まで来ていた。その際、40歳になる息子さんもいらした。お互い自己紹介した後、彼は自身の父親について少し話し、私は師匠からの最後の電話について詳しく説明した。「奥さん」が言うには、「うちの家族の誰もあのヒトから電話なんてなかったのに。やっぱり、あのヒトにとって、あなただけが家族のようなものだったと、思うの。あのヒトはほんとあなたによくしてたわ。いつもね、あなたがどうのこうのって、嬉しそうに私に言ってたの。」 私は黙っていた。それからしばらくして、私は、師匠に投資したお金について説明した。その息子さんは、「本当に何とお詫びを申し上げてよいやら。私の父があなたを騙したとみて間違いないです。カレの部屋を隅々まで調べて、何か証明になるものを探しました。とある口座の履歴を見つけ、そこでは、少なくともあなたからの振込みの半分以上が確認でき、父はすぐに引き出していたようです。他の記録はすべて処分されていました。」と、言った。息子さんそして「奥さん」双方、大変げんなりされ、また、残念な気持ちが伝わってきた。二人はお金を賠償すると申し出た。私は、次のように言った、「お気持ちはとても嬉しいです。しかし、それをあなたがたに支払っていただくなんて考えはありません。お二方の責任ではないですから。」 「あの」レッスン部屋に何か手がかりがあるかもという考えで、二階に上がる許可を得た。いざ上ったら、これまで何度レッスンがあり、何杯ものコーヒーをここで飲んだのだろうか、と、ふと考えた。

 

お金の行方

考えるのをあとにし、私は、その部屋をじっくり見回した。師匠が使っていた携帯電話が机の上にあった。すべての電話登録者名が削除されていた。私のかけた通話記録が残っており、留守電も残っていた。机の上の高級車が写る写真は散乱していた。「ナンバーワン・カー・セールス・オブ・ザ・イヤー」の表彰状はフルイ額縁に入ったまま、傾いているものの、壁にまだかかっている。私は、古びた座布団の上に腰掛け少しの間目をつぶった。カレはかつて言った、「もし、百科事典を売れるなら、何だって売れる。」 カレはたしかにバリバリのセールスマンだった。私には、栄光ある未来を売った、そして、この瞬間において、私はほとんどの持ち金がなかった。3年間働いてきた結果…か。思い出すのは、トヨタで機械のように働き、楽しみをすべて諦め貯金した1年と少しを、そして、パチンコホールで汗水垂らし、倹約して貯めた1年と半年、であった。ふと目をやった部屋の角に、以前見たあの高級なジャケットとナイキのスニーカーが置いてあった。私のお金で買ったのだろうか?みなで食べたピザも全部…?

一階に降りたあと、「奥さん」と息子さんは私を待っていて、お茶を入れてくれていた。しばらく、沈黙が続いた、そして、息子さんが彼の知る限りの父親について真実を語り始めた。

「父は私が幼い頃から、ほとんど家にいませんでした。うちは、だいたい、貧乏に暮らしてました。短い期間でしたが、私たちは人々がうらやむような派手な生活をしていたでしょう、少なくとも父親がそうしていました。イタリアによく旅行しました。一家はマンションに住み、父は高級車をいくつも所有しました。このとき父は、ベルギー・ダイアモンド会社に勤めていました。カレは、モチベーショナル・スピーカーでした。何千という人々がカレのセミナー会場に来ては、ダイアモンドを売って儲けようとしました。日本政府は、同会社の操業方法を調査し、ピラミッド・スキーム、いわゆるマルチ商法にひっかかる部分を発見しました。本格的な捜査と裁判がありました。儲けようとした人々は大変怒っていました。というのも、すべてのカラクリが新聞やタブロイド紙で明らかになったからです。その多くの人々は何年~何十年分のたくわえを失いました。私の父は同会社の職員ではありませんでした。有罪にはなりませんでした、が、ニュース・レポーター十数人が毎朝のようにわたしたちの住む家の玄関に、姿を現しました。父は雲隠れしました。残された私たちは引越しするしかありませんでした。引越し先の住所がどこからかもれると、そのたびに、引越しを繰り返しました。地獄でした。父はその間、たとえば、湾岸戦争のとき中間業者として食料や水の供給を手配していたようです。それから、ニューヨークへ渡りワールド・トレード・センターで仕事の相棒と働いていたようです。そこで、いったい何をしていたかは、家族の誰も知りません。2001年の9月11日に父のビジネスすべてがおじゃんになり、父は文無しで帰ってきました。そして、新聞配達でなんとかご飯だけは自分でしようというプライドがあり、とはいったものの、母の借家の2階に転がりこんだわけです。」

それから、「奥さん」は私に数枚の写真を見せたのだが、そこには元夫がきれいな女性たちと一緒に高級車に乗っていた。「あたしは、カレの生き方に我慢できなかった。あたしたち家族を何度も酷い目にあわせて。こどもなんかほんとうに父親のこと知らないんですよ。だから、離婚してやった。」

 

人生レッスンの末

その日その家から出たとき、私は感傷的になっていた。お金については許せなかった。かつて尊敬した師の存在がもう過去のことであることに悲しみを覚えた。同時に、自分自身に怒った、なぜ、投資したなら、いくら、いつ、どこからどこへ、そうした月々のやりとりを、レシートかなんらかの紙で記録しなかったのか、ということを。私は、そのヒトを信用していた。カレは私の無知で無邪気な性格をある意味で巧みに利用した。カレは大学で心理学を専攻しセールスマンで成功するほどの実力だ。だが、果たして、カレは本当に死んだのだろうか?海上ですり替えを行い、カネを持って国外逃亡できなかったのだろうか?

もういい、私には、もう新しい計画を立てなければならない、そんな状況だった。結局、いま、新しい一日が始まろうとしている。自分の払った代価に後悔はしていない。

そんななか、私に手を差し伸べたのは私の父だった。私は、父と弟をゴルフ・リゾートの小旅行に招待したのだが、それは、父が定年まで働き、その春に退職するので、それを祝うというものだった。私たちはラウンドをまわり、グリーンを眺めてのディナーを満喫した。もちろん、日本酒も忘れなかった。私たち三人そろって会話する、というのは、過去10年以上、いや、もっと長い間なかった。こうして一緒にいるというのもいいものだ、と思った。夜10時を過ぎたころ、弟は疲れたということでじきに布団に入った。しばらくして、私は、父に、退職後の夢について、聞いてみた。今からそれが楽しみで計画は順調のようだった。そして、今度は私の夢― アメリカ留学について、父は尋ねた。私は、酒を一杯ぐいっといき、伝えたのは、その夢は宙ぶらりんになっているということともうしばらく働いて貯金することで、その理由として、投資を失ったことを話した。父は、なぜそうなったかを言及することはなかった。そして、「オレが金を貸す。今、おまえはアメリカへ行かなければいけない、学生としての年齢を考えると、だ。」と、父は言った。数杯酒を飲み交わし、布団にはいり、部屋の電気を消した。

小旅行から数ヶ月後、私は、お世話になったヒライ元奥さんと、また、新聞奨学生として最後まで連絡を取り続けていた二人の友人と、それぞれに別れを言うため、ミエからふたたびオオサカまで移動した。その際に、履こうとした靴のなかで、元師匠がプレゼントしたイタリア製の高級靴を見つけた。しかし、それを、履く気持ちは、一片もないことを確認した。ゴミ箱に捨てた。

 

カリフォルニアに返り咲き

5月末には、私は学生ビザを取得していた。自身のアパートにある衣類と勉強道具をまとめた。だが、一つ忘れていた。「どこに住もう?」 私は、バーバラさんに藁をもすがる思いで連絡をとった。彼女は、3年間私からほとんど連絡がなかったのが残念だったけれど、でも、仕方ない、うちに来な、と大きな心で受けいれてくれた。さらに、サンホセ国際空港まで車で迎えに来てくれる、と言ってくれた。私は、どこまで幸運なのだろう。

夏がはじまろうとしていた。サンホセに向かう飛行機内で、私は、これまで学んだことを振り返っていた。頭のなかをかけめぐる主題は、これが最後だから結果をだすまで諦めない、であった。いけないよ、やめては…

私は、バーバラさんの家にある、「あの」部屋に戻っていた。3年ぶりのハンバーガーを食べ、彼女の台所でつくられた手料理をたべ、涙が出ずにいられなかった。私は、念願のカレッジへ正規入学した。カブリオ・カレッジで2セメスターが過ぎようとしていた。いまのところ、編入について必要な授業はすべてAである。スタンフォード大学へ行くくらいの気迫で、狙いを定めた全米短大奨学金をとろうと、必死に勉強している。

そして、今、私は、カブリオのお気に入りのベンチに腰掛けている。太陽がさんさんと照る中、私のこれからについて考えている。毎日が、新しい一日であり… 私は、自身のノートパソコンで宿題をすすめようとしている。私の物語「学生の章」は、まだ始まったばかりだ。。。

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