セブの高校でいろいろ考えた(仮題)-日本語教師なのに、なぜか机は保健室-第2話:なぜか机は保健室-セブ生活はこの机から始まった-

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僕は国際交流基金の日本語教育専門家として2011年4月から2014年4月までの3年間、セブに派遣された。主な業務はセブ地域の中等教育機関での日本語プログラム導入と、この地域における日本語教育全般の支援である。

実はフィリピンに行くことは予想していなかった。それまで、6年間タイのバンコクで暮らしていた僕は、もちろん勤務地もバンコクになるものだと思い込んでいた。しかし、フィリピン。大学時代に徘徊したインドネシアやタイについては、その国の文化や宗教などについて、一通りの情報を仕入れて渡った。

が、フィリピンに関しては、スペイン、そしてアメリカの植民地であり、子どものころの若王子さん誘拐事件の記憶と、デカセギとお尋ね者の逃亡地というイメージしかなかった。

フィリピンに来てすぐに2か月間マニラで行われた研修を担当して、セブに着任したのはその年の6月だった。到着後すぐに国際交流基金マニラ事務所の職員2名と教育省セブ事務所、そして日本語プログラム導入が決まっている2つの高校を訪問した。どこでも大変暖かく迎えてくれて幸先のよいスタートだった。そして、同じ日の午後にはマニラ事務所の職員はマニラに戻っていった。

空港で二人の職員を見送るときに、これでとうとう一人で何でもやっていかなければいけないなあと思い、本気半分、冗談半分で「Don’t let me alone(置いてかないで~)」と言ってみた。クールな若手職員は苦笑を浮かべ、もう一人のベテラン職員はヒャヒャヒャーと大爆笑し、「You can survive(何とかなるでしょ~)」と激励の言葉を残し、颯爽とマニラに去って行ったのだった。

その後セブ市内に戻り、契約が済んだばかりの何もないがらんとしたアパートで一人異国の地に沈む夕日を眺め、「始まったなあ~」としみじみ思った。それから、近くのショッピングモールのスーパーで身の回りの品を買い、フードコートでホットドックを買って簡単な夕食を済ませた。体に悪そうな真っ赤なソーセージが挟まったそれは、とってもまずかった。

翌日、これからの活動の拠点となるセブ市内にある高校に行った。「あんた誰?」と怪訝な顔つきで自分を眺めるガードマン(警棒と拳銃で武装)に用件を伝えると、校長室に通された。すると、昨日挨拶をした肝っ玉母さん風の校長が満面の笑顔で迎えてくれた。テーブルの上には真っ赤なソーセージ風の物体が挟まったパン。それはホットドック。校長はまずは食べろと促し、無言でホットドックを食す僕に向かって語りかける(この日以降、おやつとして出されるこの真っ赤なホットドックに悩まされる日々が続く)。

「アンタはもう私の息子のようなものよ。これからは、アタシを母さんだと思って何でも相談なさいね~」

心の中で「Yes Sir,Mam(わかりました、マダム)」とつぶやき、首を縦に振りホットドックを完食。それから、校長は教務担当の教師と僕の机をどこに置くかについて話し始めた。その結果、候補は3つ。

① 校長室:いつもエアコンが効いているし、校内で唯一ネットに繋がるPCがある。ただし、一日中校長を訪ねる来客で談話室と化している。来客中はもれなく、談笑に加わることができる(というか、談笑加わることなく仕事をすることは許されない)。

② 英語教員の職員室:全校生徒4,000人超のこの学校には20名以上の英語教師がいて、専用の小さな職員室があてがわれている。その全員がこの小さな部屋にひしめき合っている。エアコンのない教員室で恰幅の良いマダム達が過密状態で勤務。10時と3時のおやつの時間には1時間ほど仕事がストップする(もちろんおやつと談笑への参加は必須)。

③ 保健室:一般的な教室の広さに、保健の先生のみが常駐。エアコンはないが、風通しの良い部屋で涼しい。この学校で例外的に人口密度が低い唯一のエリア。

校長は、好きなところに机を置いて良いと言ってくれてはいるが、保健室にはすでに机が用意され、準備万端。実際、校長室ではほとんど仕事ができないだろうし、英語教員の職員室では、ただでさえ狭いうえに、自分が入っていっては余計狭くなってしまう。それに、この部屋には持参した教材を置く場所がない。ということで、保健室に決定。

保健の先生であるテスさんも既に話を聞いているらしく、「まあ、日本人の息子ができるなんて、驚きだわ~」と、こちらも満面の笑顔で歓迎してくれた。

どうも、ある一定の年齢以上の女性については、新参者には家族のメタファーで歓迎の意を表すのがフィリピン流のホスピタリティーであるらしい。これ以降も、「息子」的歓迎をいくつかの場所で受けた。組織を運営する上での理想的なメタファーは「家族」であり、そして、一度「息子」として遇されれば、かなりの自由度で何でもさせてくれた上に、助力も仰ぎやすい。

ただし、これは大変居心地が良い反面、「母親」が「息子」に向けて発する「誰がボスか?」というメッセージでもあり、ある半面では「母親」の威光に服することも期待される。と言っても、自分の場合は無理なお願いをされて、不都合な思いをしたことは一度もなかったのだけれども。

とにかく、こうして3年間の保健室暮らしがスタートした。

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