もしかしたら、母は中国残留孤児になっていたかもしれない・・・。 戦後の満州から幼子を連れて日本に帰国した祖母の話。今、私がここにいることの奇跡。6話
チヨ達のグループは日に日に人数が減っていった。
あるの者は子を失い、ある者は日本に帰る事をあきらめ中国人の妾となった者もいた。病気になったり、発狂して自殺するものもいた。
そして、何より彼女達が最も恐れていたのがソ連兵だった。昼夜問わず避難先に押し入っては金目の物を略奪し、手当たり次第に女性達を物色しては連れ去っていった。そこで彼女達は一見して女性の容姿とわからぬように、髪を短く刈り上げ、顔に泥や墨を塗り小汚い身なりで過ごす様になった。
ある晩、迂闊にも昼間の疲れで深い眠りに落ちていた彼女達の枕元にソ連兵が土足で上がりこんできた。
部屋の中はパニックになり、ソ連兵は次々と女性達を連れ出そうとした。
チヨの隣で寝ていた友人は兵士に腕をつかまれ、連れ出されそうになった。とっさにチヨは彼女のもう片方の腕をつかみ必死で引っ張った。兵士はチヨに罵声を浴びせチヨの手や肩を硬い軍靴で踏みつけ、銃で胸を突いたりしたが、チヨは友人の腕にしがみつき離さなかった。しばらく小競り合いをすると兵士はあきらめたのか、早口で怒鳴り散らすと、怒りながら部屋を出て行った。
チヨと友人はしばらく放心状態であったが、チヨは肩に痛みを感じると同時にたった今起きた出来事の恐怖がじわじわと押し寄せてきて体が震えた。チヨはしばらく手をあげることも出来ないほど肩を痛めつけられたが、幸い臨月間近の腹は蹴られずにすんだ。友人はチヨの手をとり涙をこぼして礼を言った。
黒龍江省を後にして約五ヵ月が過ぎた。旧満州は極寒の冬を迎えていた。年が明けた昭和二十一年一月チヨは第三子を出産。次女「まさ枝」である。(後にこの叔母から話を聞くのだが・・・)
まさ枝は最悪の環境の中で生まれた。ろくな物を口にしていなかったチヨは乳が出ず、まさ枝にはとうもろこしを潰した汁などを飲ませていた。
外でオムツを洗っているとすぐに布が凍ってしまい、いつも湿り気のあるごわごわした固いオムツをあてられていた。風呂もろくに入れず、まさ枝の小さな尻はいつも荒れていた。
栄養状態も衛生環境も悪かったので、チヨはこの赤ん坊はそう長く生きられないだろうと思った。母親達は乳飲み子がいても、病気の子供がいても、仕事があれば、部屋に残して働きに行かねばならず。チヨもまた、赤ん坊のまさ枝を部屋の隅に寝かせて働きに出て行った。
そんな殺伐とした日々の中でも、チヨ達に優しい手を差し伸べてくれた中国人の娘がいた。
彼女はかつてチヨの家で賄いをしていたお手伝いさんだった。敗戦後、日本人が大変な目にあっているという噂を聞きつけチヨの避難先を転々と追いかけて探しに来てくれたのだった。
チヨと運よく再会できたが、子供達共々あまりにもひどい状態だったので、周囲に気づかれぬように、チヨ達を一軒の家に案内した。そこでは一人の老人が待っていて、チヨ達を優しく出迎えてくれた。彼女はチヨ達に食事を作ると
と言って勧めた。
それは、四人にとって久方ぶりのご馳走だった。チヨは涙を流しながら、子供達に食事を勧めた。
しかし、きよしとすみえは目の前に並んだご馳走を前にきょとんとした様子でいる。そして、きよしは白いご飯が盛られた茶碗を手に取り
と尋ねた。
きよしは白米の記憶がほとんど無くなっていた。それが、食べられるのかも判断がつかないほどだった。チヨが口にしたのを見ると、二人の子供は手づかみで食べ始めた。チヨは子供たちを叱ったが、避難してから二人は箸を使ってまともに食事をすることなどほとんどなかった。行儀の悪い子供達を前にしても、老人は土間をぐるぐると歩き、外の様子をうかがいながら、
と微笑んで言った。
そして、お腹がいっぱいになった子供達に一足ずつ新しい靴まで用意してくれたのだった。
この老人と娘が日本人の家族を助けたと知れわたれば、彼らは国賊として捕らわれ処罰を受ける事になる。チヨは命がけで手を差し伸べてくれた彼らに心の中で手を合わせて感謝した。
時折、このような奇跡的な出来事が、チヨと子供達の過酷な避難生活の救いとなったのだった。
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