引きこもりからのアルゼンチンサッカー留学記
僕のポジションは左ハーフ。足りない部分をアルゼンチン人選手を補強して戦う予定が、このポジションにも選手が補強された。この大会に日本人チームが参加する目的はまだまだ真剣勝負(クラブの1軍で負けてはいけない試合や厳しい試合)の経験が少ない日本人選手のためではなかったのか、という思いはずっとあった。だが、そんな事はいわなかった。僕に実力があれば、補強されていないわけで補強されるということは信頼が無い。信頼を取ること、スタートラインに着くための戦いを勝って来い。出れないのであれば何かに価値を見出さなきゃいけないとすぐにほかの日本人とは違う目線で見て目標を持った。これは今までの自分の否定から得た、すぐに気持ちを切り替えるということだと思う。引きこもっていた頃の僕なら腐って自分の殻に閉じこもって時間が過ぎるまでとりあえず毎日をこなして終わっていたと思う。それじゃ高校時代「逃げた」あの日から何ら成長していないということになってしまう。アルゼンチンでプロを目指しサッカーをしている僕は引きこもっていた頃の僕じゃないんだ。と自分に言い聞かせる。
それでも多少の恐れはあった。初戦はタジェレス・コルドバ。トップチームはアルゼンチン1部リーグ所属(当時)。そこでデビューし活躍するのに最も近い本当に本当のプロ予備軍の選手達と対戦する。その時の僕はある言葉を思い出した。
僕が所属しているコルドバ州3部リーグのデフェンソーレス・フベニーレスの監督の言葉を心の中で唱える。
「Hay que tiene paciencia.」直訳すると「我慢しなければならない」になる。
この監督は選手として17歳でプロデビューし引退まで一線で活躍した人だ。
この言葉の主語は?ここがアルゼンチンの指導者の良いところだと思う。「何に対してだろうか?」僕はこれに疑問を持った。僕に対して言っているから僕の事なのは間違いない。僕は何に対して耐える事をしなければならないのか。実際には会話の中でここしか理解できなかったのも大きいは大きい。でも、それを聞くんじゃなくて自分で考える、もしくは経験やそれこそありとあらゆる事象からアンテナ張って自分の成長に活かせるものを感じて血や肉にする。パッと浮かんだのはこの事。当然聞かなかった(言うまでも無く聞けるほどスペイン語の語彙はありませんでしたが)。
何でアルゼンチンに来たのか考える。その為に今、置かれた状況で何をする?何を耐える?待ち、我慢する?自分に問う。落ち着くことができた。アルゼンチンに行く動機、イチフナを選んだ理由。思い出した。それは今(20歳の時と、15歳の時です)と変わっていなかった。僕はプロサッカー選手になるんだ。
高2の時にジェフユースと試合をした。相手には今レッズの阿部勇樹選手やサンフレの佐藤寿人選手がいる。「どうせ負けるからやりたくない」これが僕の気持ちで試合前から負けていた。実際試合は0-10の負け。今、目の前にはジェフユースより大きく強い相手がいる。これからも出てくる。試合したくてしょうがなかった。強い相手にはびびらない僕がいた。
試合にはみんな出たい。出れないなら準備を常にして心は誰よりも強く。やりたくも無い事を無理矢理やらされて何も言わず無抵抗なのとはこの状況は違う。我慢と慣れはもっと違う。1個、誰が何と言おうと負けない物を持たなきゃ我慢なんてできないと思う。けど、僕は誰より我慢できるということで他の奴に勝つ。その我慢している状況の中から結果を出すために必要な何かを「具体的」に理解する、気付ける所にいくまで常にアンテナ張って生活する。その結果、試合に出れなくてもその生き方を身につけられれば僕のアルゼンチンサッカー留学1年目は大成功。プロ選手に辿り着くであろう道を歩ける自信になる。
タジェレスと試合。前にも書いたが、基本的にレセルバはローカルの前座なのでそこまでいい選手は出ないだろうと思っていた。しかしプロデビュー済みの選手や後にプロで活躍する選手が何人もいて相当将来を見込まれている選手が出てきていた。タジェレス所属の日本人選手が「あいつも出んのかよ」くらいの事を言っていた。
試合はスタメンではない。予想はしていた。開始早々に先取点。当時の日本人留学生はコルドバ州1部リーグでバリバリやっていたのは2人しかいない。タジェレスはプロ予備軍。衝撃的だったんじゃないか。そのまま後半に入り、終了まで残り僅かな所で出場した。そして何もせずに終わるが本当に終了直前失点し引き分け。時間は少なくてもあの中の空気感を知れただけでも収穫だった。
サッカー留学に来ている日本人は国際交流しにきたんだろう、くらいの見方しかしていないアルゼンチン人達には驚きを与えた。事実この試合の翌日、タジェレスの監督は怒って選手に早朝練習を課したほどだ。タジェレスと引き分けた日本人チームの僕もその一員だ。実際の試合における貢献や影響は少ない。しかしこの試合に至るまでに全てを出してきた。この日の引き分けは僕が掴んだものだ。これが経験なんだ。
大会はまだ1戦目。まだまだ続く。
2戦目はインスティトゥートというクラブ。アルディレスや最近イタリアのユベントスに移籍したディバラの出身クラブ。
この試合はスタメン。背負った番号は10番!アルゼンチンの場合、スタメンは1から11の通し番号。しかもポジションごとに番号が決まっている。左MFは大体の場合10番をつけるのである。何でスタメンかというと人がいなかったからと、タジェレス相手に引き分けた事もあり「どの程度できるのか、みてやろう」的なものだったんだと思う。
はっきりいって対応に追われるだけで精一杯だった。何かを予測してプレーなんて出来ない出来ない。一回股抜きかましたけどそれだけ。僕が絡まない方がチームのリズムはいいし、はっきり自分のレベルが低いのを感じた試合。さぼらず守備をした。プロの下部組織相手に出せる物は全て出した。前半45分のみのプレーだったがやりきった。
次の試合はベルグラーノ・コルドバ。全然出れず、最後の最後に出場した。僕のポジションのスタメンは本来センターバックのアルゼンチン人。前の試合でスタメンで出たものの結果を出せなかった。しかし少しも腐らなかった。
とにかく何がしかを得ようと試合を集中して見ていた。自分が出たらどうするか、常に考えながら。ほかの選手のプレーを参考にしつつ。そして次は最終戦。
戦力外扱いを受ける日々だった。力がないから仕方がないとはいえ、辛い日々。ベルグラーノ戦あたりから何となく気付いてはいたが認めたくないという気持ちから避けてきた部分を考え始める。僕は所詮ここまでか・・・。しかし何とか打ち消すけど根拠はない。ただしそんな暗い気分を表に出さない事。まだまだスペイン語は話せないけど監督のへススに笑顔で挨拶と握手をする事。それだけは欠かさなかった。しかし気分は晴れぬまま最終戦を迎える。
Goooool!
相手はLa Universitario。元代表FWクラウディオ・ロペスも在籍していた街のクラブ。不思議なもんで試合が近づいてくると弱気は消えていた。そしていつもどおりアップから集中する。スタメン以外はアップしないのが普通。でも関係ない。いつも試合に出ていると思っている僕は一緒にアップをしていた。試合に集中して自分が出たらどうするか、常に考えながら見ているだけでも上手くなっているような感覚を身につけようと必死だった。最終戦、毎日積み重ねたそれが見事にはまった気がした。
後半途中からの出場。最後の試合だし、これはもう超お情けで出してもらえたと思う。
ファーストタッチが上手くやれて試合に良い形で入れた。
後半の後半、コーナーキックを得た。それのこぼれ球が目の前に落ちた。蹴る前からどこにボールが来るか分かった。コーナー競り合うよりこっちだって匂ったんだ。もちろん味方に190近い選手がいて、僕は良いプレーしていないから皆マークはそっちにいった。どフリー。来たボールに後は飛び込むだけ。苦手の右足。利き足も怪しいもんだけどこんな時に限り逆足に来る。しかしこれまたこんな時の逆足の方が良い当たりのキックをする(笑)。ここしかないという凄いところに突き刺さった。その後一点を追加し2-0の勝利。
監督のへススもようやく声をかけてくれました。
この日の相手は今までの相手に比べたら全然弱い。他の日本人にしたら「練習試合の中の1試合」だったろうけど、僕には全てが最高の思い出だし、ここのイメージが翌年への期待になった。あと、海外のプロ選手が点を取った後、凄い全身で喜びを表現するのが分かった。
自分で言うのもアレだが、日々死ぬ気でやって試合に出れると信じていて出れない、常に強力なライバルがいてそれらの競争に打ち勝つ。仮にダメでも1分しか出れずとも、やる気、プライド全て打ち壊されようとも好きでやってて結果出したいときに結果が出たら叫ぶよ。叫ばないとどうにかなってしまう。そんな自分の内面から溢れ出てくるパッションの解放。それがゴールセレブレーションに繋がる。僕はこの日そんなの恥ずかしくてやらないでいたら朝まで眠れなかった。どんどん腹のそこから湧き出る解放への欲求。日本の育成年代でサッカーやってる奴らでこれを味わったことのある奴、何人いるだろうか。これを感じるだけでもアルゼンチン行く価値はある。そしてこれこそが楽しいんだということが自分の価値観になった。気の合う友達といつもほどほどでプレーして汗と心地よい疲労を感じてやった気になるのは何年も先で良い。今この時は自分の全てを勝利のために差し出してプレーする事が何より大事なんだ。この試合をもってこの日本人チームは一端解散。
帰国直前の留学生皆でアサードをしている時に代理人のラファから一番伸びたのは誰か?という話になってその時に僕が選ばれた。スタートがマイナスからだったのだからある程度予想していた。しかし褒められ慣れていないのでリアクションは上手く出来なかった(笑)。ラファからの「表彰」はアルゼンチンに来てまだ3ヶ月ほどでその間にこれをやると自分で決めて信じてやり続けた結果だと思う。
アルゼンチンサッカー留学1年目に得たもの
この年、得たものの1つとして日本で積み重ねたものは全部捨てなければやっていけないという事が分かった事だ。僕は引きこもっていたので日本で積み重ねた物なんてものはあまりない。だけど日本人として日本で生きてきた20年はベースになっている。ここアルゼンチンで日本人がプロになるにあたりアルゼンチンで評価されるために必要な物をアマチュアとして留学しているこのときに身につけなければならない。その経験を積み上げるには土台を変えなければ積み上がっていかないという事が分かった。例えるなら軽自動車にフェラーリのエンジンは積めないんだ。変えていく。
最高の仲間との別れ
この年で最年長の留学生キムさんが最後だった。僕より4つ年上の当時24歳。冨樫さん経由でアルゼンチンに渡った人だ。キムさんには色々相談にのってもらった。キムさんからも聞いてきてくれた。リーベルファンでリーベルが負ければ落ち込んでしまうような人。球際がとんでも無く強かった。何度倒されても立ち上がり最後まで体を張り続ける5番の守備的MFの選手。プロを目指してアルゼンチンに来ていたが僕に言ってくれた言葉で「今俺はコルドバ州1部でプレーしている。目指すプロはカテゴリーで言えば3つ以上上にある。今いるこのクラブはプロにたどり着くまでの腰掛クラブじゃない。俺はここの1軍でプレーできる事を誇りに思っているしこのクラブで終わっても後悔しない。ここで死んでもいいと本気で思っている。そういう覚悟で日々の練習に取り組んでいる」というのが印象に強く残っている。貧困層の地区にあるクラブ。100年近く前に創設されたクラブ。30代後半の元プロ選手もプレーしている。日本で「好きなチームはどこ?」と聞けば地元のクラブか全国区の知名度のあるクラブの名前を言うだろう。野球なら巨人や阪神。ここアルゼンチンではリーベル、ボカという世界屈指のクラブがあるのだが、コルドバの人間ははっきり地元の州リーグの名もないクラブの名前を言う。そういうクラブでスタメンを張る。監督、コーチは勝てなければクビになる。この日本人はチームの力になれるのか。伝統あるユニホームの重みを理解できているのか。
戦う事がアルゼンチンで何より大事なことをいつも伝え続けてくれた。理屈では分かっていた。でも本当にそれを理解したと言えるのはそれが出来るようになったもう少し後のことだ。キムさんは州1部でのプレーが認められアルゼンチン1部のベルグラーノから獲得オファーが届いた。メディカルチェックで引っかかってしまいプロにはなれずこの年で彼の挑戦は終わった。キムさんにアルゼンチンサッカーをプレーしているところを見せられず一緒に夢に向かって頑張る事は出来なくなってしまった。そういう事も含めて人生の積み重ねなんだ。彼と過ごした日々が来年に繋がる。そう心に刻んで帰りの飛行機に乗った。
アルゼンチンサッカー留学2年目。
2001年1月の半ば。他の留学生とともに出発する。そのおかげで約30時間の移動もそれほど苦痛ではなかった。
日本→アメリカ→ブラジル→アルゼンチン・コルドバと言う感じで当時は直でコルドバまで行けた。(今はブエノスアイレスから国内線に乗り換えなきゃいけない)
この時コルドバに着いた感想は暑い。南半球のアルゼンチンは日本と真逆で季節は夏。
メチャクチャ日差しが強くて暑い。日陰にいけば湿気がない分、過ごしやすいがとにかく日差しは痛くて暑かった。
コルドバに到着してすぐに日本人の練習が始まる。チームの練習開始は翌週に始まるが、その前に時差ぼけ解消やある程度コンディションを上げとくためだ。
2つのニュースがあった。今年から僕の所属クラブが州1部に上がったばかりのリベルタに変わること。もう1つは前年までとはこの年は違う人が日本人の朝練指導に来てくれることになった。
監督はワールドカップ優勝メンバー
78年ワールドカップ優勝メンバーのミゲル・オビエドはコルドバで生きる伝説的人物。
「そんなヤツ来るのかよ」信じられずにいて実際に来て驚いた。元プロ選手どころか世界一の代表選手。会う前から緊張した。しかしこの人の下、上手くなれるかなと期待した。
そして日本人練習の日。僕らの到着よりやや遅れてオビエドが来た。各々がバンテージ巻いたり練習の準備中に彼はやってきた。
とんでもない人をイメージしていたがその人は思ったより小柄で
見た目も老けていた。有名人としてのオーラもなく好々爺という表現が正しい。
この日は指導をせずに練習振りを見ていただけだったが、かなり気持ちが引き締まった。
皆、いつもより緊張感を持ってやっていたのは来るべきシーズンをいいものにしようという決意とすぐそこにレジェンドがいたからだったと思う。
この頃はプレテンポラーダとこの日本人練習。かなりハードなスケジュールだった。
プレテンポラーダとはシーズン開幕前の練習の事で州リーグのクラブでも強いところは合宿をしに行ったりする。
何せプレテンポラーダはメチャクチャ練習する。真夏で30度以上の猛暑の中、走って走って走りまくる。もしくは走って走って筋トレ。2部練など当たり前。このプレテンポラーダで1年間のシーズンを戦い抜く体を作る。
それは以前から聞いていたのでどこまでやれるのかこの日々で体を慣らすことに照準を置いた。
さて、オビエド監督だがまだまだスペイン語が上手くないのと緊張とで毎度顔を合わせても挨拶しか出来ない。日本では今でこそクラブチームも多いがこの当時はまだまだ部活サッカーがメイン。事実、当時の留学生約10人ほどは皆、部活上がり。指導者は先生で、選手は生徒。指導者に管理されてきた日本人は選手と指導者の関係性でそれ以上のコミュニケーションは挨拶やサッカー指導以外のものはなかなかない。しかし、ここアルゼンチンでは選手と指導者は練習前や普段会えば他愛も無い世間話や冗談を言い合ったりする。指導者や年上の知り合いが横断歩道の反対側にいる僕に気付いてわざわざ大声で呼んでくれて挨拶を向こうからしてきてくれた事が何度もある。お互いをあだ名で呼び合ったりもする。
僕は挨拶もそこそこに目を逸らし着替えたり自分の事をしだした。このように選手と指導者であってもそれ以前に人間同士のつながりを大事にするアルゼンチン流に慣れたつもりでいたのだが。目の前のレジェンドにどうしていいか分からなかった。ちなみにオビエド監督はこの年、日本人練習の指導者のみならず、僕が所属するコルドバ州1部に昇格したクラブ「リベルタ」の監督でもあった。
日本人練習の基礎練習の最中、オビエド監督の目の前でミスしてしまった。その時監督の顔つきが変わった。
個人的には週3日、午前中にやる日本人練習と所属クラブでの練習とオビエド監督にアピールしまくれるチャンスだと意気込んでいた。しかし、この日のミスから地獄のような日々が始まった。
次からの練習でオビエド監督は僕と目も合わせてくれなくなった。明らかに不機嫌。
嫌われているのが露骨に分かった。しかもその理由が僕自身も分かっているからやりきれなかった。
しかしキツイ。僕がミスれば怒鳴られる。もしくは呆れられる。僕がシュート決めても何も言わない。他の留学生がミスしてもそんなに言わない。最悪の状態だった。周りの留学生に雰囲気を察知されて面白がって冷やかされた
キツかったがこの状況を変えるチャンスはいくらでもあるもんだと思っていた。何せ所属クラブの監督でもあるんだ。クラブではアルゼンチン人含めて30人弱はいた。他の選手にはどんどん声をかける。僕は視界に入っていない・・・。
リベルタでの初の紅白戦。これは全員が出た。僕の出場時間は短い。ただピッチの上に立って終了。
その日の練習終了後、名前が呼ばれている。何の事だか分からない。
後で聞いたら紅白戦は入団テストも兼ねていたようで名前を呼ばれた選手は不合格ということだった。僕の名前は呼ばれなかった。奇跡だ、と思ったがそれは代理人のラファの力だったことを後で知った。もし、ラファがいなけりゃ終わってた。
このままいくんだろうか。急に不安になった。
その後の日本人練習でフォーメーション練習をやることになった。僕はその輪から外された。そして練習に来ていたアルゼンチン人GKの練習の為にシュートを打つように言われた。
完全に蚊帳の外。悔しさ、恥ずかしさなど全く無くこの練習に集中して打ち込んだ。全てのシュートを決めてやる。そう思って取り組んだ。こういう練習でも自分で楽しめる要素を見つけてやる。後にこのアルゼンチン人キーパーはプロになって今でもプロで活躍している。あの日のシュート練習が今日の彼を築いたはずだ・・・と思う。練習は終わり、留学生複数で住んでいたマンションへ。
夕食時、アレが話題になった。僕に対するオビエド監督の扱いだ。みんなまだまだ高校生ノリで僕のハブられ具合を面白がったり、あの扱いはない、と言ったりで盛り上がってしまった。僕は当然ノれるわけもなく。
「そんなのお前らに言われなくても分かってんだよ!!」なんて言い返したかったけどそれも出来なかった。そうするとドンドン悪乗りしたり。この流れ、市船時代を思い出す。けどあの経験があり、全部聞き流す術を覚えた。1つ違うのは一緒に住んでいたほかの留学生は本気で馬鹿にしていたわけでは無いという事だ。
続いてリベルタでの練習試合。相手は忘れたがチームは勝てない状況だった。こちらは2部上がりで選手は寄せ集め。まだまだ連携も拙く勝てない。人の入れ替わりも激しく手探り状況。僕はというと試合に呼ばれず。
そしてある日の練習試合。メンバーに呼ばれた。今までは呼ばれなくてもベンチに無理やり入り込んだり何とか監督の視野の中に入り込んでいた。ちなみにこれはキムさんが実際使っていた手だ。
そして練習試合。カテゴリーはレセルバ。ユニホームは11枚しかない。僕はベンチでベンチには16人いた。交代の際はユニホームに替えがないので出ている選手から受け取ってから出場する仕組みだ。僕は常にタッチライン際にいて出場のチャンスを窺っていた。そして全く違うポジションの選手であってもユニホームを交代のたびに毎回僕は受け取って着ようとした。その都度取り上げられる。しかし全く意に介さない。
残るベンチの選手は僕ともう1人。交代だ。しかも僕と同じポジションの左MFの選手。僕はそいつが着ていたユニホームをもらって着て出ようとしたらオビエド監督に「お前じゃない」と止められユニホームを奪われ、もう1人が試合に出た。そこで試合は終わった。
真夏の午後の雲一つない青空の下、白いタッチライン際で上半身裸で立ち尽くした。
その日の夕食どき。リベルタには一緒に生活している留学生も所属している。その為にチームの話になる。この日の試合の話題になった。「アレは酷い」「試合出れないからもう移籍しろ」だの。この時はチームを変えるのを考えた。しかし考えただけで日本人練習でもクラブでも見てもらえる環境は良かったし、リベルタの選手たちとの関係も良かった。
プレテンポラーダというとんでもなくきつい日々。それを一緒に乗り越えていっているというチーム全体の一体感それが漲っていた。はっきりいって両足攣りながら走っていた市船の時なんか目じゃないくらいきつい。あまりにキツ過ぎてご飯が食べれないほどだった。人間、自分の中のキツさの限界を超えると固形物を摂取したくなくなる。水しか飲めない。無理矢理詰め込んで毎日プロテインを飲んだがどんどん痩せて絞れていった。キレは増してきた。最後まで全力でやりきる姿勢。アルゼンチンには連帯責任での罰走などは無い。キツイからといって手を抜くことは可能だ。そういう選手は落ちていくだけだ。僕は日本の時と同じで遅くとも全てを出し切った。アルゼンチンではそれは伝わるんだなと感じた。
スラム街にあるクラブ リベルタ
リベルタというクラブのスタジアムはスラム街のど真ん中にある。車で送っていってもらえる時は古い町並みの中にあるんだな、くらいに思っていたが歩きで練習にくるチームメイトは上半身裸にボロボロの短パン、両足共に穴が開いてソールが剥がれているシューズで来ていた。そうやって「俺を襲っても何も盗めないぞ」というアピールをしておかないと確実に強盗に襲われるからだ。僕はもっとできる。そうまでしてこのチームの練習に来るチームメイトからも、このスラム街のど真ん中にあるこのクラブを取り巻く環境からも学ぶ物がたくさんあると感じていた。このチームを出るのはいらないと直接言われるその日でも遅くはないと決めた。
次の練習試合は同じ州1部しかし強豪のベジャ・ビスタ。しかもアウェー。こちらベジャ・ビスタもリベルタほどではないが中々良い感じのスラム街の中にある。試合はレセルバの後半半ばから出場。みんな必死のアピールだ。試合も同点の緊張感のある状態。空中戦の際に肘うちを喰らって倒された。ファウルはもらえたが、チームメイトの皆は僕にマジギレ。「お前そんなのもらってんじゃねえ!」「自分の身は自分で守れ!もっと腕を使え」心配してもらえるかと思ったけど逆だった。しかしこれは事実だ。しなくてもいい怪我をしてしまいかねない。腕の使い方は課題だ。そして終了間際に大乱闘が始まった。理由は分からないが入り乱れての殴り合い。僕から一番遠い場所で始まったとはいえ、気付いたら終わってた。そしてローカルの試合をせずに練習試合は終わった。こうなってしまっては継続は困難だという判断。スラム街の中にあり悪そうな人が騒ぎを聞きつけて近所からスタジアムに集まってきていたしベストな判断だと思う。
州リーグ開幕まで1ヶ月を切った。少し練習量は落ちてきたけどまだまだ走りまくる。練習場所がサルミエント公園通称「パルケ」だと真夏で気温40度近いにも関わらず寒気がする。この日は12分間走を行った。400メートルトラックをひたすら12分間走るのだ。12分間でプロサッカー選手はポジション問わず3000メートル走れるかどうかが持久力の目安だ。リベルタの選手たちも殆どが3000は走れる。僕と同じグループで走っていたチームメイトのアルゼンチン人が1500くらい走ったところで倒れた。そのまま彼は練習を抜けた。どうしたんだろうか。いずれにせよ彼は終わったな、と思った。
その週末の試合では走れずぶっ倒れた選手がスタメンで出た。
そしてフル出場をしてゴールを決めて彼のゴールで勝った。僕はまたしても出れなかった。
何故彼を使うのか。使われた彼はどうして結果を出せるのか。最後まで走りきれるのか。両方とも本当の彼だ。僕は彼に対して感動してしまった。練習より試合の方が上手いし強い。アルゼンチンの人たちは練習で出来ない事は試合で出来ないという日本の常識が通用しない。使ってくれないオビエド監督への恨みよりこの目の前で起きている現実に僕は思いを巡らせていた。
きついプレテンポラーダだがその中でミニゲームのみの日があった。アルゼンチン人はこの時ばかりは皆マラドーナになる。ボールを持ったらドリブルで全員抜きにいく。そうでなければボールをもらって2タッチ目にはバティストゥータかのような強烈なシュート。中盤なんて存在しない。僕はここでボールを捌くようなプレーをした。1つもミスはしなかった。しかしそれはもっと自分の存在をアピールしなければいけないのに裏目に出てしまうことになる。
ゴールを奪う事もドリブルでガンガン抜きにいく事も実際の僕の得意なプレーじゃない。それをやってなんのアピールになるんだと思っていた。しかし実際そう言われて代理人のラファにもそれを指摘されて僕は次はそれをやろうと決めた。何せオビエド監督の僕を見る目は変わらないのだから。
週末、サルミエント公園通称「パルケ」に行った。土日は試合かオフ。しかし僕は試合に呼ばれない。ならば出来る事は「試合」に出る事だ。パルケにはストリートサッカーがあった。ここでは腹の出たおっさんや中学生くらいの子でも上手い人がゴロゴロいる。ボールを持っていってリフティングでもしていれば3分経たずに「サッカーしようよ」と声をかけられる。しかしそれではその人が上手いかどうかは分からない。僕はもうすでに始まっている草サッカーに飛び込む事にした。ここで前回の練習で気付けた課題に取り組んでみた。ボールを持ったらどんどん仕掛ける。スピードに乗れば抜ける。抜けばボールも回ってくる。連続で止められたりしたらゴール前に張り付いた。ゴールは落ちている大き目の石を2つ並べた物や近くの工事現場から勝手に借りた三角コーンを並べたりして使っていた。シュートを撃ったら相手DFより先に大声で「ゴール!」とか「ゴラッソ!!」と叫んだモノ勝ちだ。やってていつの間にか日が暮れて誰からともなくゲームを抜けていき終わりになった。「ここにいるからまたやろう」と約束を交わし帰路につく。これってチームと同じシチュエーションじゃないかと気付いた。ストリートがそのままチームの練習にもある。練習にあるだけではなく評価の対象になっている。レクレーションやリカバリーではない。絶対にチームでも今日のストリートでの経験を活かそうと思った。そして日本の価値観を捨てると決めたがまだまだ残っているなというのを感じた。もっともっとアルゼンチンに染まらないといけない。100%アルゼンチン人になるつもりでやらないといけないと感じた。その為には未だにまだ染まりきれていない自分の考えと逆の事をやっていこうと考えた。
ミニゲームは無いが日々の紅白戦で少しづつ出場時間が以前より増えてきた。怪我人やら1軍に昇格していった選手がいるやらで僕が出ざるをえないからだったと思う。その紅白戦の中できつい言い合いが繰り広げられている。文句と言うか罵詈雑言。ありとあらゆる悪態をつきあっている。「おい。お前は何も出来ないんだからとっととボールをよこせ」「お前のふくらはぎには辞書でも入ってるのか?」なんて時にはジョークを交えて言ったりもする。どの辺が面白いのかはさておいてこの中で僕も言うようになっていた。時には「目が細くて見えないんだろ」なんて差別的な事も言われたりもした。その時ばかりはキレてその後、落ち込んだ。練習が終われば言ってきた奴が馴れ馴れしく接してくる。あまりにも続くので言われた事に一々反応しないで自分の主張をする。ボールが欲しいタイミングがあれば呼ぶ。その時来なければそいつの名前を呼んでこっちを見ろと言う。その内時々回ってくるようになった。ここで感じたのが彼らアルゼンチン人は言っている内容なんて気にしていないんじゃないかという事だ。こちらの要求を聞いてないようで聞いている。文句に対して言い返して「いいから出せよ。このへたくそ」だの言う。次のプレーではパスが出てくる。その時々で表現した自己主張が少しづつ浸透していく。そしてその瞬間を感じ取ってプレーしていく。連携していく。そして練習中彼らは本気なんだ。普段は優しいアルゼンチン人が一度サッカーになると人間が変わる。優しい一面と全てを否定するかのような罵声を浴びせてくる一面。一体どちらが本当の彼らなんだろう?悩んだ事もあるが優しく冗談好きな一面とサッカーしていて熱くなるところ。どちらも本当の彼らなんだ。そんな風に思えるようになってきた。そうなってくるといちいち言われた事に対して本気で落ち込んだりしなくなった。それすらも受け入れる。その時の状況やプレーに対してのみ本気で反応しているだけなのだ。
こういう経験を積み重ねていくうちにサッカーに関わる事であればスペイン語が分かる場面が大分増えてきた。分かるようになって感じたのは練習中、試合中はそんなに難しい言葉はアルゼンチン人同士といえど話していないという事だ。ボールが欲しければ名前を呼んで。シュートを撃つ場面ではそれを叫んで。守備でも身振り手振りを交えて指示を出すので分からない事は無くなってきていた。
そのような気付きと自分の変化を感じた頃に紅白戦でローカルと対戦して試合終了間際に出てゴールを決めた。次の日も紅白戦で昨日より少し長く出てローカル相手に点を取った。そしたらフォワードで使われだしてまた紅白戦で点を取れた。ミニゲームでは僕にボールが集まってきて何回も面白いように抜いて点を取れた。そうするとローカルのディフェンス達がガンガン僕を潰しにきた。両足を思いっきり踏まれて痛くて感覚がなくなったがこのゲームが面白すぎてまたボールをもらいにいった。そうこうする内に凄い出来事がやってきた。
言葉を超えたコミュニケーション
全てが分かるようになったと言えばいいのだろうか。皆と会話を交わしているのだ。ボールで。目線で。体の向きで。僕が動きすぎれば「そうじゃない。まだ待て」「スピードを上げすぎるな」「前を向けるぞ」「勝負しろ」「決めて来い」野球漫画でピッチャーとキャッチャーがテレパシーでやり取りしているのを見た事がある人は多いのではないだろうか。まさにあれだ。これをパスの出し手とだけではなくこのミニゲームに参加していた全員と交わしていた。
僕は確かに皆と言葉じゃないコミュニケーションを取っていた。それは日本でサッカーしていた時より明らかに多くの言葉を交わしたといえる。僕も言われっぱなしじゃない。目線で体で自分の意思を示していた。僕は皆と確かに同じ意思の元、分かり合っていた。するとオビエド監督は「お前は上手くないけど、点を取るんだな」なんて声をかけてくれたみたいだ。みたいだというのは同じチームの留学生が教えてくれた。僕は何を言っているのか分からなかった。スペイン語力はまだまだだ。しかしそんなのは気にならなかった。大きな手応えを感じていた。日本にいた時はチームメイトと同じ日本語を操っていたが、このようなやり取りは無かったし、ここまで分かり合ってプレーした事はなかった。
いよいよ開幕が近づいてきた。試合も後半から出れるようになっていたし、日本人練習でもオビエド監督とは話すようになってきた。というか彼の方から一言、二言話しかけてくれるようになってきた。
これが点を取る、結果を出すという事か。
オビエド監督との出会いはマイナスからのスタートだった。しかし今、僕は自分の出した結果でワールドカップで優勝した人を認めさせたんだ。明らかに世界が変わってきた。そうなるとスペイン語の勉強にも熱が上がってくる。この頃からスペイン語力は上がっていった。今までは勉強してもどうしても分からなくなると頭が止まってしまう。この経験からそういう事が無くなり、自分でも驚くほどに覚えていって使えるようになっていった。というか話したくて仕方がなかった。引きこもって人に会わないことに喜びを感じ人に本音を出さない僕が1年も経たずに、である。そんな充実した時だ。僕や同じチームの留学生全員とオビエド監督はリベルタを離れる事になった。
もう開幕まで1週間というところで。リベルタの会長と代理人のラファとの関係が悪化したのが原因だ。僕は残りたかった。いい一体感を感じていたし、自分の成長を実感していた。最高のプレテンポラーダを過ごして自信を持って開幕できると思っていた。
決まった以上僕はどうなるのか。肝心の移籍先は以前に乱闘騒ぎを起こしたベジャ・ビスタだ。
大丈夫かな?さすがに覚えられてたりして。なんて不安だったが杞憂に終わった。皆いい奴だった。
今週土曜に開幕で僕は試合に呼ばれない組での調整となった。1軍と2軍が紅白戦をしている中、あまった僕らはピッチの外を延々走り。交代の度に1人減り、2人減り。僕は最後までハブ組だった。またここからか。という思いでいっぱいだった。しかしベジャ・ビスタの選手たちは上手い。リベルタの1軍の選手も上手かったけどそれより全員が上手くて強くて速い。何人かはそのままもっと上でやれるだろうし、Jでもやれるんじゃないかと思うほどだ。次のステップとなったここベジャ・ビスタでこのレベルの選手達のプレーをどんどん吸収していこうと思った。
初戦の相手はラシン・デ・コルドバ。1軍はプロの2部(当時)なので州リーグのローカルというカテゴリーはプロクラブにおいては3軍カテゴリーが出てくる。試合は良い所無く負けてしまった。負けた事よりラシンに昨年所属していたデフェンソーレス・フベニーレスの選手達が数名いた。ラシンで試合には出ていなかったが、彼らもステップアップしているのだと思った。僕だって上がっている。彼らとの対戦が楽しみだ。対戦を約束して僕たちは別れた。こういう出会いもあるんだな。ますますやる気が出てきた。
しかし現実はレベルの違いを嫌でも感じる。リベルタでは何が足りないか分かるような差だったが、ここベジャ・ビスタでは全てのレベルが違っていた。試合に出れない選手たちでさえも上手かった。そういうレベルの違いを感じている頃、ラファからデフェンソーレス・フベニーレスに戻らないか、と持ちかけられた。僕を思っての事であり、デフェンソーレスの監督やディレクターから「日本人は戻ってこないのか」としょっちゅう連絡がきていたからだ。僕の現状と照らし合わせれば戻るという選択はベストだった。州1部から州3部。州1部でさえプロへの距離で考えれば3つのカテゴリーを上がらないといけない。アルゼンチンにおいては州1部の上に地方4部アルヘンティーノB(現フェデラルB)とブエノスアイレス4部ともいえるプリメーラCというカテゴリーからプロといえる。ここでも十分にレベルが高い。だが僕が目指すプロは2部以上をイメージしていた。州1部であれば下部組織とはいえコルドバのプロクラブと対戦する事が出来る。そういう試合もまたアピールの場だった。そこから去るというのは、アルゼンチン2部にいくということは5つのカテゴリーを飛び越えないといけない。このステップアップは自分ではイメージしきれていなかったのでここからイメージを作り直す作業をしなければいけないな、と思った。
州3部リーグは州1部より開幕が遅い。またもやプレテンポラーダだ。州1部で鍛えたフィジカルは州3部ではかなり上のほうになれた。走りでは今まで以上に速いグループに入れた。
ある日、ラシンに行っていた選手達が全員戻ってきていた。
何故戻ってきたのだろうか?プロの下部組織に呼ばれるなんて凄いチャンスにも拘らず。この頃には言いたい事はスペイン語で言えるようになっていた。聞けば「俺は選手だ。ベンチにはいたくない。試合に出れなければそれはステップアップじゃない」プレーぶりは認められラシンに移籍する事は出来た。しかしそこではスタメンではなく控えからのスタートである事を告げられた。その上で彼らが自分で出した決断だった。僕はプロを目指すとはいってもサッカー留学という形でアルゼンチンに来ていて留学費用としてお金を払っている。プロクラブにいるだけでも頼めば出来る。事実、今回のデフェンソーレスに戻るにあたり出れなくても良いからベジャ・ビスタに残るかプロクラブでやるという事も出来なくはなかったし、そうしようかと思った事もある。彼らの決断で気付かされた。今、試合に出ること。ここデフェンソーレスでも競争はある。競争を避けるのではなく試合に出ることを掴み取れる状況に身を置く。それがここアルゼンチンでは一番大事なんだ。彼らと僕ではアルゼンチンでサッカーしている理由は違う。僕ならラシンに残ったかもしれない。けれどラシンに呼ばれなかった僕はここでラシンに呼ばれるほどの選手達と競争し一緒に試合に出て勝つ経験を積む。それが必ず自分のレベルアップに繋がるはずだ。高校で100人以上の部員がいてスタンドで応援するためにい続けるわけじゃない。そんな事を甘んじて受け入れない。ここアルゼンチンまで来てプロクラブに留学していたって事だけを抱えて帰るのを目的に来たんじゃないんだ。公式戦に出るということの意味。価値。それだけがここアルゼンチンで重要なんだ。そういう事をデフェンソーレスのチームメイトから学んだ。全てを出し切る今を積み重ねる。その結果、試合に出れる、出れないがある。それは監督が決める事だ。僕がコントロールできる事ではない。そのような事に一喜一憂せず全てを受け入れ日々を全力で取り組む。
僕は語学学校には行っていない。アルゼンチンでは本当にありとあらゆる瞬間が学びの場だ。先生は師はアルゼンチンにある全てだ。教室で教科書を読んで問題を解く事よりも気付ける、学べる事はそこら中にあった。
アルゼンチンサッカー留学に来ていてサッカーがメインの生活だ。でも練習場と家の往復で他は何もしなかったり一緒にいる日本人留学生と群れているだけではアルゼンチン行く前の引きこもりとそれほど変わらない。州3部が開幕まで時間があるので週末はベジャ・ビスタの試合を見に行った。残った日本人留学生がローカルで出ていることもあるし自分が体験した中で最もレベルの高いチームの試合を見ることで刺激といつでも州1部のレベルを感じていたかったからだ。ベジャ・ビスタは中々勝てないでいた。それも大量失点での負けが続いていた。
スラム街の屋根の無い家
そのような日々の中でベジャ・ビスタの選手クキから賭けサッカーに誘われ日本人留学生数名で行く事になった。場所はクキの家の近くなので彼の家に行く。彼の家で皆で昼食を食べようとなった。クキの家はスラム街の中にあった。「俺から離れるなよ」初めてのスラム街。アルゼンチンでは「ビジャ」と呼ぶ。直訳すると村なのだけどここアルゼンチンではビジャと言えばスラム街。クキはビジャの有名人。ひょっとしたらこのビジャからプロになれるかもしれない選手。ビジャの人たちは遠巻きに僕らを見つめる。クキが「彼らは日本人でチームメイトなんだ」と言ってくれると笑みがこぼれ挨拶に近寄ってきてくれる。そうこうしている内に人だかりが出来て交流が始まった。離れるなよと言う理由が分かった。クキから離れたらビジャに勝手に入って来たよそ者になってしまうんだ。そうなったら身に危険が及んだだろう。ビジャの人達はよそ者を嫌うそうだ。それにしても良い人達ばかりだ。百聞は一見にしかずという諺は本当だ。クキの家の料理もおいしかった。食後に「歯磨くか?」と僕達は聞かれて差し出されたのは今まさにクキが使っていた歯ブラシだった。歯ブラシのシェア・・・。想像もしていなかった。断ったけど気持ち悪いというよりは「ここではこれが日常なんだ」と知る事が出来たのが印象的で衝撃を受けたからだ。そしてもう1つクキの家には屋根がなかった。屋根だ。貧困のスラム街でテレビが無いとかじゃない。もう1度言う。屋根だ。彼はそれを恥じる様子も無く、家を案内し家族を紹介してくれた。僕だったらもし屋根のない家に住んでいたら友達や知り合いを呼びたいだろうか?貧しいだの可哀想だの感じる前に何とも言えない気持ちになった。それは呼んでくれた嬉しさや有難さだったりこれが普通なんだという事への複雑な感情だった。
賭けサッカーは何とか勝利。ビジャの人達はサッカーが上手かった。賭けサッカーはプロサッカー選手が来たりする事もある。プロはクラブの活動以外でサッカーしてはいけないのだが、賭けサッカーで稼いでいる選手は多くいる。今回の相手にはプロはいなかったが皆上手くて最後まで体を張ってプレーする。手の使い方が上手く、利き足にボールが来れば全て完璧にコントロールする。賭けサッカーから学ぶ事は戦う姿勢。普段トレーニングしていないとかそういう問題ではなく彼らは体が動く。練習より試合の方が上手い。試合にお金や誇りがかかっていれば尚更力を発揮する。パルケでもそうだがクラブに所属して本格的にサッカーなんてやったこと無い人たちからこの試合を通してビジャに足を踏み入れて人々に接してみてたくさんの事を感じて考えさせられた。
Pecho Frio(ぺチョ フリオ)
直訳すると「冷たい胸」。どういう意味かというと胸には心臓があり赤く熱い血を全身に巡らせている。心臓とは魂。アルゼンチンでは気持ちを込めて強いプレー、最後まで戦う姿勢を貫く事が求められる。それが出来ない選手は胸に血の通っていない冷めた選手という事になる。アルゼンチンにおいてPecho Frioとは何も期待しないし興味がない最低の評価である。アルゼンチン1部(当時)のあるFWはPecho Frioであるが故にボールを持てばブーイング。点を取ってもブーイング。チーム得点王になり、クラブ史上初のコパ・リベルタドーレス(南米のチャンピオンズリーグ)に導いた中心選手になったにも関わらず追い出されるようにクラブを去った。
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