引きこもりからのアルゼンチンサッカー留学記

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僕はビジャでこの日の賭けサッカーでPecho Frioと言われた。そんな事を言われるとは思わなかった。審判はいたが時間の管理くらいしかしていない。上手いか上手くないかは関係ない。最後まで体を投げ出し力の限り走りぬく事が求められた。一人退場者がこちらに出た。決定機の阻止に反則を使いさすがに笛が鳴り退場。その後ケンカが始まる。試合に負けるくらいなら男として戦いピッチから去る事も評価される。戦う、この点においてビジャの賭けサッカーは州リーグよりプロよりも上だった。そしてそれはどんなに下手でも出来る事だ。

僕は引きこもっていた頃より明るくなっていたがどうやらまだまだピッチの中でも外と同じだったみたいだ。このオンとオフの切り替えをモノにする事はまた1つレベルを上げるにはとても大事な事だと分かった。

ここアルゼンチンでは信号待ちの車のガラスを拭く幼稚園や小学校低学年くらいの子達が多くいる。ガラスを拭けても1台25センターボ(当時は1ドル1ペソ。センターボとはペソより小さい通貨。25センターボとは約25円)。良くて50センターボしか稼げない。学校に行く暇もなく大きくなったらサッカー選手になりたいだの宇宙飛行士になりたいだのケーキ屋さんになりたいだのといった夢を見る暇もなく今日食べるために働く子達がいる。日本でも大人のホームレスは繁華街に行けばいるがアルゼンチンでは子供のホームレスを見かける。彼らは笑顔を絶やさない。ここのビジャの人達もそうだ。そんな彼らも時折一般的なビジャの人らしさといえばいいのだろうか、そういう部分を見せることがある。思い切って聞いてみた。盗みやケンカはするのか。「裕福そうな人や普通の人達を見ると時々どうしようもなく心が飢えていく時がある。きっと彼らは良い人達なんだろう。それは分かる。でもある時、突然中から悪い感情が湧きあがってきてしまうとどうしても抑えられなくなる」そういう話をしてくれた。「お前達はもう友達だから心配するなよ」とも言ってくれたが複雑だった。ビジャの人には短期的に楽してお金を手に入れようとする者がいる。計画的に悪事を重ねる人もいる。だけどビジャには素直でマジメに家族や地域で手に手を取り合って慎ましい生活をしているこういう人達の方が圧倒的に多い。クキ、ありがとう。ビジャは危ないから近寄るななんて周りが言う事を信じていたらこんな素晴らしい経験と温かい人々には知り合えなかった。何でも一歩踏み出す事は重要であるという事をビジャの人達が教えてくれた。

ベジャ・ビスタはコルドバ州リーグの中で待遇の良いクラブ。ローカルの試合に出て勝てば50ペソ(当時約5000円)。引き分ければ20ペソ。負ければ0。クキには試合に出なければいけない理由と負けられない理由があった。僕にだって負けられない理由がある。彼らに競争で勝ち、多くの人を認めさせなければいけないんだ。

いよいよコルドバ州3部リーグ開幕だ。僕はと言うと開幕戦レセルバで控えだった。意味が分からなかった。今日に至るまで州1部やってきてこの扱いには驚いた。そしてメンタルを乱してしまい、後半途中から出たが良いプレーは出来ず。ローカルも勝てなかった。このような扱いで僕は自分の何を壊せばいいのだろうか?

その後の試合も控えだった。4試合目でスタメンで出て点を取ってからはレセルバスタメン定着したがローカルはまだまだだった。ローカルはというと毎試合大差で負けていた。ラシンから戻ってきた数名を除いては昨シーズン所属していた選手、特にローカルの主力は大分いなくなっていた。代わりのローカルの選手たちは昨年4軍日本で言うユースの高校生達だった。やはり経験値と体格差があり勝てなかった。


給料未払い 監督、コーチがいなくなる。

ある日、監督とフィジカルコーチが今日で最後だとの事を言ってきた。給料未払いが数ヶ月続いていた事が原因だ。監督は「君達にも何が起こるか分からないから気をつけなさい」と言ってくれた。アルゼンチンにおいてはこの手の給料未払いはよくある。クラブの規模が小さくなればなるほど特に。給料といっても州3部の監督で生活できるほどではない。監督コーチも他に仕事を持っている。わずかな給料も払わないのだ。

この監督は色々教えてくれた。シーズンオフはしっかり休んでサッカーのことは忘れなさい。そしてプレーする事、その為に必要なたくさんの犠牲と献身と努力に飢えて戻ってきなさいと教えてくれた。休み無く練習して心身共に疲弊していた高校のサッカー部とは間逆の考え方だったので新鮮だった。事実、バカンス明けに戻ってきた高校生が体が大きくなってプレーもダイナミックになりローカルでレギュラーを獲得していた。

受け入れて適応する

サッカーにおいても私生活においても日本の常識はアルゼンチンの非常識だし、逆もまた然りだなと思った。例えばアルゼンチンでは練習のスケジュールを1ヶ月単位で出さない。全て翌日の練習時間と場所を口頭で伝えるだけだ。バスなど公共の乗り物がよくストライキを起こす。乗車拒否をしてくる。何か不具合、不都合を客が被ってもまず謝らない。日本だったら少し時間が遅れたら謝る。アルゼンチンではテレビの放送が押してしまえば次の番組の始まりが遅れる。それについても謝らないで何事も無かったかのように始まる。移民局でビザ更新に行ったときも何らか不備があったみたいで更新してもらえなかったが担当を替えたらすぐ更新できた。後で電話する、と言われて電話が2日後にきて文句を言ったら驚かれた。担当者単位で話が食い違ったり引き継がれていない事でやきもきする事も経験した。でもこういうのって謝られる事が無ければ無いで全く気にならない。事実アルゼンチン人はこんな事で怒らない。時間の流れが日本と違うんだ。日本だったらチームの練習なんて仕事が終わった夜8時、9時にスタートする。アルゼンチンでは昼2時、3時に良い大人が週5,6日集まって本気でサッカーする。シエスタといって昼寝もする。土日は宗教的理由で殆どのお店が閉まって街全体がお休みモードになる。チームの練習でも当時は1つのカテゴリーにボールが2,3個しかない事が多かった。これはタジェレスやベルグラーノといったアルゼンチン1部のクラブでもそうだった。だから全体練習が主体だ。2人組、3人組の練習は必然できない。ゲーム形式の練習で来るパス1つ1つが基礎練習でありシュート練習だという思い込みとイメージが重要だ。用具もコーンなどが無いからそこらに転がっている大きい石や選手の荷物の入ったバッグを利用したりする。無きゃないでどうにかする工夫をしているからそれらが自然と身についてきた。

おもてなしが日本の良さで日本を離れて日本の素晴らしさが分かる部分はあるけど、何でもあって色んな事が出来るからこそ考えないでやっていけてしまうんじゃないかというような部分を僕は強く感じた。そしてこれらは僕にとっては小さい事でストレスは全く感じなかった。僕の土台はアルゼンチンのそれに変わってきたようだ。それもこれも僕がアルゼンチンサッカーや私生活の全てに没頭してハマッていたからだと思う。色々な不都合を感じて不満を言うのは簡単。被害者ぶるのも簡単。でもその先には何も無い。余計な事は考えずに集中する。そうすると何でも面白くなる。親切そうな人を感じ取ったり、取っ付きにくそうな人とは本題から入らず世間話から入ってみてある程度打ち解けてからお願いをするようにしたり。監督が想定外にいなくなった不安はあるが人生は続く。日本で引きこもっていたら出来ない経験をさせてもらっているんだ、と思えばマイナスは見当たらなかった。もしそれでもどうしても嫌だったり馴染めないのであれば日本に帰ればいい。来てくれなんて頼まれたわけじゃない。日本人1人の為にアルゼンチンという国は都合のいいように変わってくれない。逆もまた当然だ。

給料未払いもあり後任の監督はチームメイトの父親が就いた。監督を雇う金がないのだから来てくれる指導者などいないのだが無償で引き受けてくれた。試合は勝てないのが続く。それもそのはずで全然選手が揃わない。監督のいないクラブに来る理由がないのだろう。そして今後について選手、スタッフ皆で話し合うことになった。そこでは「俺達はプロじゃない。試合に行きたくても行けない事もある。この状況は変えられない。このままやるしかない」という主張をする者ばかりだった。話し合いは平行線を辿った。練習や紅白戦もいる者はしっかりやっているが、どこか自分達を信じきれなくなっていた。そして敗戦を重ね監督は辞めて監督の息子の選手も来なくなっていた。次の監督も選手の身内が就いた。

Conoces Takayama?(君はタカヤマを知っているか?)


奇妙な事が起きた。

街を歩いていると人々に声をかけられる。


アルゼンチン人
「君は日本人か?」



「そうだよ」



アルゼンチン人
「タカヤマを知っているか?」



「?知らない」


お店で店員に


アルゼンチン人
「タカヤマについてどう思う?」


バスに乗れば


アルゼンチン人
「タカヤマは有名か?」


練習に行けばチームメイトにも


アルゼンチン人
「タカヤマってどんな奴だ?」


僕にはタカヤマなんて知り合いはいない。そもそもなぜ見知らぬアルゼンチン人がそんな事をそれも次から次へと尋ねてくるんだろうか?一緒に生活している留学生達も聞かれていた。過去の偉人なのか?分からない。

「タカヤマは良い選手なのか?」

ん?どういう事だ。

何かの選手か。どうもサッカーっぽいけど分からない。

数日後、テレビにアルゼンチンの空港に到着した高原選手が映し出されていた。シドニー五輪後にジュビロ磐田からボカに移籍してきたのだ。

タカヤマじゃなくて高原だろ!あの日アルゼンチンにいた日本人は皆叫んだのではないだろうか(笑)。

僕はあるチームメイトにヒロフミじゃなくてヒロスミとずっと呼ばれていた。このあと、2005年にはコーチとして留学するのだが、その時あった時もヒロスミだった(笑)。日本人の名前はアルゼンチン人には発音しにくいみたいだ。

日本ではどうだったか知らないがアルゼンチンではそこまで熱心に報道されていなかったように思う。日本最高の若手ストライカーがここアルゼンチンのビッグクラブで通用するのかどうか。来てくれた嬉しさと同じくらい興味があった。そして高原選手のおかげで会話の話題に事欠かなかった。朝も夜も関係なく街を歩いているとどこからともなく「タカ!!」なんて大声で声をかけてくれる人達がいっぱいいた。親日国家アルゼンチンから遠い日本は高原選手をきっかけにさらに注目してもらえるようになってそれはとても嬉しかった。次第に僕はこの人達になら心を開いていいんじゃないかと思うようになっていた。せっかく声をかけてもらっているのに。もっともっとアルゼンチン人と関わりたい、分かりあいたいと思うようになっていった。

最下位から抜け出せない状況と選手がいないローカルとレセルバ。最悪の状況の中で選手が2人戻ってきた。17歳のユースの選手達だ。彼らは2人ともブエノスアイレスの名門リーベルの入団テストを受けに行っていた。トップチームが最悪の状況の中、デフェンソーレスは育成面で素晴らしい結果を出していた。2人は結局リーベルには入れなかったものの彼ら以外でもメッシの出身クラブであるロサリオのニューエルスやベレス、タジェレス等に選手を送り込んでいる。いつも思うがトップチームと下部組織のギャップが激しい。

このように選手が減っていく状況になり、僕はローカルで出場できるようになった。残り3試合。レセルバで出てそのままローカルのベンチに座る。そして出番が来た。体力的にきついかと思ったがそうでもなかった。出たいカテゴリーで出る事が出来てアドレナリンが出ていたからだろう。相手は以前に大差で負けたクラブだが、どうしてこのクラブに負けるんだろうと感じるくらい歯応えがなかった。いつも通りやれば負ける相手じゃない。しかし最近のいつも通りはこれまでにないくらいのカオスだったわけだが。試合は0-1の負け。

2001シーズンは終わった。やれる事はやった。こうすれば良かった。あの時、言っておけば良かったと思う事はいくつかある。チームは最下位で終わったけど全力は尽くした。悔しさや悲しさはあるかと思ったが不思議と全く無かった。やり切った充実感の方が上回っていた。

残るは日本人練習くらいのものだ。あとはアルゼンチン生活を満喫する事に注力する。なるべく練習場と住んでいるマンションの往復にならないように気を使っていたが、まだまだコルドバの街について知らない事もある。

そして年末恒例の日本人チームの試合。

僕はセンターバックでプレーした。本当は左MFなのだが他の留学生がファーストチョイスなので控えでいるくらいだったらやろうか、くらいの気持ちでやった。

相手は全国4部リーグにも出場するサン・ビセンテというクラブ。

僕は相手FWを止めまくった。一緒にセンターバックをやったのが後にパナマやJリーグでもプレーした選手なのだが彼のおかげで凄いやりやすかった。正直ヘディングも好きじゃないのだが、いざやってみると相手FWを止められるのでとても楽しかった。彼とも言葉ではないサッカーのコミュニケーションが出来た。彼がやり易いように僕を使っていただけかもしれないが、本当にDFは楽しかった。だって抜かれないし崩されないんだから。しかもプロになってやってやる。俺なら出来る。と思っていたが現実の僕は州3部の選手。州1部より上のクラブの選手のレベルは分かっているし自分自身がそのレベルじゃないのは心の奥底では分かっていた。そんな「こいつら凄いな」と思っていた相手を全部止めてしまったのだから面白くないはずがない。


ワールドカップ優勝メンバーとコンビを組む

年末で留学生はそれぞれの好きなタイミングで帰国する。留学生はかなり減ってきていた。そんな日にも試合の日はある。相手はオビエド監督の友達達チーム。しかしオビエドの友達だけに殆どがプロだった。サン・ビセンテ戦に出ていた選手もいる。そして選手が足りない。どうしよう

「俺が出る」

オビエドだ。

いやいやおっさん、あんたが凄かったのは20年以上前だろ?向こうから借りようぜってな雰囲気になった。しかし彼は出る気満々で有無を言わせない雰囲気だ。というわけでアップが始まる。

オビエドはバスケットシューズ、バッシュを履いている、サッカースパイクではない。履きかえる気は無い。

対面でパス交換する。上手い。

デコボコなグラウンドだがパスとコントロールが全部正確だ。僕が受けやすい質のボールを蹴ってくる。僕より圧倒的に上手い。いや、周りを見渡せば彼が一番上手い。これだけの格の違いを見せ付けられるとひょっとしたらと思う。ポジションはセンターバック。僕とコンビだ。アップでは確かに上手い。しかしいくらなんでも動けないんじゃないかと思った。

試合が始まった。押し込まれる展開となったが最後は完璧に閉める。オビエドは空中戦や球際で完璧に奪い取る。バッシュで。それどころか決定的なパスを通したりゲームを切るようなプレーを一切しない。バッシュで。オビエドの読みが凄すぎてまるで相手攻撃陣をオビエドが操っているかのようにボールの転がる先を読みきっている。キックも正確。バッシュで。スピードで来る相手の動きすら遅れずに読みきっている。バッシュで。

コンビを組む僕も今までサッカーしてきた中で一番やりやすかった。というか今まで僕はサッカーをしていたつもりでいたがしてなかったと感じるほどだ。僕もまたオビエドの手の平の上で転がされていたという方が正しいか。通常、ディフェンスは相手FWと自陣ゴールの間にポジションを取りFWとボールを視野に入れる。この日はオビエドとの距離感を保つ事に集中した。相手FWがどこにいようと関係ない。オビエドと離れすぎず、近すぎず。この距離感さえ保てれば相手に何もさせない事が出来た。試合中はボールより相手FWよりもオビエドだけを見ていた。それだけで全てを完璧に防げたし僕でさえも次の展開が必ずこうなるという確信のもと動けた。ここまで安心感を与えてくれて自分のベストを出させてくれるチームメイトはいなかった。流石にカウンターを喰らってしまった時は振り切られてしまったがそれくらいなものでミスはゼロ。50歳ちかくでバッシュで現役プロを完璧に抑える。現役時代は、全盛期はワールドカップ優勝したときは一体どれほどのものなんだ。底知れぬ世界を制した超一流の凄さを体験した。残念ながら名選手は必ずしも名監督ではない。という格言そのままの人でベジャ・ビスタをクビになりその後は監督としては無所属だった。一緒にプレーしてくれればそれだけでどんな指導者よりも雄弁に語れるほどだった。

僕は来年はセンターバックで挑戦しようと思った。オビエドがその佇まいで教えてくれたディフェンスの妙を出してみせる。小学生以来となるセンターバック。ヘディングが苦手で嫌いだったがアルゼンチンでセンターバックでプレーしてみて殆ど競り合いには負けなかった。自分の好きなプレーと特徴が違っていたのに気付いた。この日のプレーが出せれば最低限プロは間違いないと思えた。オビエドのおかげとはいえ僕もプロを抑えたのだから自信になった。


留学の終わりに

来年への展望を持ち代理人のラファにも伝えたがそのすぐ後に家庭の事情でアルゼンチンサッカー留学はこの年限りとなった。

もっと早くセンターバックをやっていれば良かったとか過去への後悔ではなく本当に良くやったなという満足感と充足感でいっぱいだった。なので日本ではJリーグクラブのセレクションを受けたり、社会人でサッカーをする気は全く起きなかった。シーズンが終わった時点で僕がプロになる事は無くなったわけだが帰国するその日まで自分のためになる日々を過ごす事を考えた。

思えば出来ない事だらけだった。自ら何もやらないと決めて自分の殻に引きこもったあの日々から1年6ヶ月ほどしか経っていないのに我ながら驚いた。

その間に

・ アルゼンチンに実際に行った。

・ 自分の言いたい事が言えた。

・ アルゼンチンで公式戦に出た。

・ スペイン語を覚えた。

・ 地球の裏側に友達が出来た。

・ スラム街に住む人達と交流をした。

・ ワールドカップ優勝した選手と一緒にサッカーをした。

挙げていったら100個じゃ足りないくらい出来た事がある。挙げていったら100個じゃ足りないくらい出来なかった事もある。それでもやり続ける事が出来た。やりたいと思った事をやらなかった事はなかった。諦めるという事はしなかった。

アルゼンチンに行かなければ引きこもったままだっただろうと思う。イジメられ、人に本音は言わず、人の目を見れず、引きこもる。それが僕だった。

引きこもりから抜け出した僕の心境の変化

高校を辞めているので18歳の時。同級生皆は高3だ。市船は後にワールドカップに出場する玉田選手率いる習志野高校に選手権千葉県予選決勝で負けて選手権出場を逃している。泣いている市船の選手達を見て僕は「ざまあみろ」と思った。彼らの努力が報われなかった時は心から嬉しかった。僕をイジメたり馬鹿にした同級生の子達の何人かは僕が部活を辞めたあとの夏休み明け、つまり1年生の2学期には部活を辞めていた。その中には世代別代表に入るような子もいた。その時は「俺にあれだけ言っといてお前らもその程度か」なんて思った。その子等の市船サッカー部を辞める経緯は置いといて僕はそんなこんなも含めてプロになって彼らに文句を言って見返そうと思っていた。しかし帰国前のある日、色々振り返っていたら彼らへの恨みや憎しみは消えていた事に気付いた。アルゼンチンという国がサッカーが日本であった嫌な事を忘れてしまうくらい楽しかったからだ。楽しさが増していくほどに自分が順応してサッカーもスペイン語も上達していく事が分かった。過去の恨みや憎しみは僕の力にはならない事に気付いた。

僕はこの時、彼らを許した。

許したといっても謝られたわけでもないし、同級生には今日に至るまで会ってはいない。引きこもっていた頃と比べると僕は明るくなったし、人見知りでもなくなった。ふと思った。もしあの頃の口数が少なく何考えてるか分からない僕と会った時、果たして友達になりたいだろうか?一生懸命戦ってその結果負けて泣いている選手達を称えないで蔑むような人間と関わりたいだろうか?アルゼンチンサッカー留学を経て21歳になっていた僕には高校生の頃の僕はとてつもなく嫌な奴に見えた。もちろんそれだからといってイジメを肯定する気はない。

あの頃の僕に自分から自分をさらけ出し一緒になって頑張る姿勢があればまた違ったんじゃないだろうか。僕をイジメて僕が部活を辞めた後、夏休みを過ぎて部活を辞めていった子達も何かほんの少しの上手くやれない事があったんじゃないだろうか。それがたまたま重なっていった。そう思うようになっていた。僕と同じような目に遭っても3年間部活を続けた子がいるのは知っている。イジメなんてのは気の持ちようの部分もある。それは分かるが現実は当時の僕には限界だったから引きこもった。このままじゃ良くないのは分かっていた。だからどうしても行きたいからアルゼンチンに行った。よく、引きこもりから抜け出すにはまずは外に出ること、なんていわれるけど、外に出て知っている人に出会ったらどうすりゃいいんだ。だったら誰もいない世界に行けばいいんだ。僕にとってはむしろ近所の散歩より地球の裏側のアルゼンチンに行く事の方が圧倒的にハードルが低かった。

アルゼンチンがサッカーが強い理由はいくつもあるが貧しさから抜け出すモチベーション、ハングリー精神とかよく言うけど違うと思う。彼らはサッカーが好きなだけだ。好きな事に全力。全てを差し出しているだけだ。試合にレギュラーで出れないなら自らカテゴリーを下げる。クビになったって堂々として次の場所を探す。その次の場所が遠くて車やバスで通わなくてはならない。けど交通費が捻出できない。なら自転車で片道2時間かかっても行く。歩いて3時間かかっても行く。プロになれない、なる気が無い選手がここまでする。それはサッカーが好きだから出来るんだと思う。好きな事に夢中になる。僕は夢中になれた。好きな事で成功したければ口数が少なく暗くて何考えているか分からない僕のままではいけないのだ。100個以上ある出来た事は全て暗かった頃の僕では出来なかった事だ。好きな事に夢中になっていれば他人の欠点なんて気にならなくなる。回りに何を言われても構わないしそれすら笑い飛ばせる。

イジメられている人は「自分が何をしたんだろう?何が悪いんだろう?言ってくれれば直すのに」と思った事があるんではないだろうか?「もしかしたら明日になればイジメられる前みたいに普通に接してくれるんじゃないだろうか。イジメは終わってるんじゃないだろうか」なんて期待をして学校や職場に行った事がある人は多いんじゃないだろうか。そんな事はないんだ。

僕が高校を辞めた時、僕の事を心配した同級生はおそらくいないと思う。むしろ「そんな人いたっけ?」くらいなもんだと思う。僕がいなくても誰も気にしないんだ。そう思えば今いる場所で上手く出来なかったり良い評価をもらえなかったとしても変に落ち込む必要は無いと思う。絶望感、閉塞感を感じて自殺なんてする必要が無い。

イジメられたり、引きこもっている人達は遠くに行ってしまったらどうだろうか。知っている人なんて誰もいない世界。もしかしたらそこにあなたが夢中になれる何かがあるかもしれない。もしくは今なんとなく興味がある事を知っている人の居ない場所でやってしまえば良いと思う。海外に出ることなんて全然凄い事ではない。パスポートと航空券があれば行けるんだ。だから嫌だったら、このままだったらヤバイと感じたら逃げてしまって良いと思う。「逃げるなんて無責任だ。最後までやり通せ」と言われるだろう。僕は親に言われた。けどそれはあなたにとってはそうかもしれないけど、僕にとっては違うんだ。逃げる事が最善だったのだ。僕は自分にとって一番良い事をやったと思う。世界は広い。引きこもっていた人が誰も知っている人のいないところに行ったならそれだけで成功だ。生きていればきっとあなたは夢中になれる場所にたどり着けると思う。僕がたどり着いたように。


僕の今

今、僕はアルゼンチンサッカー留学支援の仕事をしている。簡単に言うと僕が留学生を受け入れる側になりました。

日本で認められている選手にも来て欲しいし、かつての僕のような境遇の選手に今の感情のままサッカーを辞めてしまうのではなく一度でいいから外に出てもらって必ずアルゼンチンのサッカーに触れてもらいたいと思います。サッカーを辞めるのはその後でも全く遅くはないです。アルゼンチンに行ってまで試合に出れなかったりプロになれなかったらカッコ悪い?大丈夫。そんな事誰も気にしない。質問をくれたり相談なりメッセージ大歓迎です。

このストーリーでは僕のひきこもりから変わっていく過程を書くにあたりアルゼンチンサッカー留学を経験して分かった、感じた日本サッカーとの違いや良さは少なめにしました。別の機会に書ければと思います。


最後にアルゼンチンという国に、アルゼンチンで出会った全ての人々に、驚くほど美味い牛肉に(アルゼンチンの牛肉消費量は日本の約10倍)、僕の身に起きた良いことも悪い事も含めたすべての出来事に、一緒に過ごした当時の留学生達に感謝します。


長い文章を最後までお読みいただきありがとうございました。このストーリーに1つでも面白いなと思う部分があれば「読んでよかった」を押していただけると嬉しいです。


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