我が子を抱くまで14年。 ‐⑦‐

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最後の挑戦。 「切迫流産~切迫早産」



再入院後すぐにウテメリン点滴が開始されました。
それと週1回のプロゲデポー筋肉注射。(おしりです)

まだ18週、これから36週までの4ヶ月間も点滴に繋がれて家にも帰れない・・・そう思ったら一気に落ち込んでしまい担当医や看護師の前で大泣きしてしまったことも。
どうせダメなら早いうちにダメになれなんて最低なことを思っていた時期もあります。

夫はほぼ毎日通ってくれました。
洗濯もしてくれて、必要なものを買ってきてくれて、長い入院になるからとプライベートビエラまで。
(個室だったので結構自由に過ごしていました)
本当に有難かったし、一緒にいてくれることが心強かったです。

体的にも精神的にも綱渡りの日々を送りながらも、19週 初めての妊娠6ヶ月、22週 第一目標の切迫早産域を迎えることができました。
点滴は入院後数日で副作用の顔面痛により一旦中止で内服に切り替わっていました。

22週も終わりに近づいた週1の診察で、内子宮口がシロッカーの糸まで開いてしまっているのを確認し点滴再開。
そして翌日、何故かいきなり妊婦殺しの異名で有名なマグセントに変えられてしまったのです。

変更直後から酷い血管痛、瞼が重い、吐き気、息苦しいなど・・・気分もどん底に。
翌日も食事を受け付けず嘔吐、そんな状態で迎えた翌々日にウテメリンに戻してもらうことができました。
どうやら血中濃度の上がり方がちょっと急激だったようです、あれは本当にきつかった。

23週 診察後に帝王切開の話が出ました。
24週 生存率が上がる第二目標の24週を迎えました。胎児に肺機能を上げるステロイド注射1回目。
25週 赤ちゃん800g。ステロイド2回目。
26週 第三目標の週数、ずっと逆子。帝王切開の説明を受ける。
27週 旦那4Dエコー見る。
28週 夢の8ヶ月、後遺症の確率が下がる週数、第四目標。旦那4Dエコー見る。

28週で一度お腹の痛みがありバタバタしたことがありました。
そしてこの週数の診察後から、それまで週2で許可されていたシャワーが禁止に。

5月20日から再入院して6月は長かったけど、24週後半~28週までの7月はすごく早く感じた1ヶ月でした。
でも8月に入ると、モチベーションの保ち方が難しくなりました。

もう産まれそうと言われて1ヶ月以上・・・「明日にも産まれてしまうかも」という切羽詰まった緊張感を持ち続けていたらいいのか、それとも「36週まで長いな~」と長期入院への覚悟を決めたらいいのかわからなくなって疲れていた頃です。


29週 20週台最後の週。
点滴の差し替えはほぼ1日おき、5ヶ月あたりで悪阻が終わってもずっと味覚はおかしかったし、何食べてもすぐにお腹いっぱいで苦しかったし、ずっと逆子で子宮口付近の胎動が激痛だったりと細かなところでも辛いことだらけの20週台でした。

30週 医師からも大きな目標だと言われていた果てしなく遠かった30週。
私には経験できないと思っていた30週。
また一段と後遺症の確率が減る30週。
妊婦さん!というお腹の大きさになれた30週。


再入院してから80日が経過。
この時点で妊娠前より-4kgほどと体重はあまり増えず、横になって太ももを触ると骨ががっつり掴めるほど衰えていました。

そして担当医が夏休みに入ったので、その間に急変はしないで!と祈った4日間。
8月11日 30週4日 夕方あたりから10分おきにお腹が張り出しました。
緊急で診察したところ糸から先の頸管があと7mmほどとギリギリ状態になっていて、点滴を2A20まで上げて様子を見ることに。

私の場合はMAXが2A20と決められていました。
普通の人はもっと上げられるけど、私は重度の子宮頸管無力症のため胎胞膨隆、破水、胎児が突き破って出てくる、臍帯脱出などリスクが高く、そうなる前に帝王切開だったからです。

その夜は点滴を上げてなんとか落ち着き、翌朝を迎えました。








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