現在28歳でアメリカでプロゴルファーを目指している私が出来上がるまで(高校時代)
ニューヨーク校ゴルフ部
高校はニューヨークにある私立の日本人学校に進学しました。
親の仕事の都合で?と聞かれることが多いのですが、寮制の学校に1人で行きました。
16年間日本で育ち、親元を離れたこともなかったのに、無鉄砲100%。(笑)
(これまたユニークで充実した高校生活を送ったのですが、それはまたゴルフと別に長くなるので、また違う話で。
また、学校の名誉の為に言っておきますが、私みたいな無鉄砲な生徒は少数で、海外居住経験のあるバイリンガル、バイカルチュラルな生徒が大半でした。すくなくとも当時は。)
さて、ジュニア大会でのトラウマはあったものの(幼少期のストーリー参照)、「やっとゴルフ部のある学校に入学できた!」と思っていた私。
しかし期待とは裏腹に、すぐにはゴルフ部は始まりませんでした。
ご存知の方もいるかもしれませんが、日本では4月入学、3月卒業なのに対して、アメリカは9月入学の6月卒業。
さらにアメリカのクラブ活動システムは 秋・冬・春のシーズン制。
1年で約3ヶ月毎に違うスポーツを楽しめる画期的な制度なんですが、
これは毎日でもゴルフがしたい私にとっては、全然嬉しくない(笑)
そう、ゴルフは春のシーズンスポーツなので、3月〜5月しかゴルフができない!
強行してラウンドに出たいけど、冬のニューヨークは雪が積もってゴルフ場は閉場!
つまり、ゴルフをやりたくてウズウズしているのに、部活動が始まるまで6ヶ月待たなければいけなかったのです。
仕方なく 秋は女子テニス部マネージャー、冬はアート部で時間をやり過ごす…
(それはそれで楽しかったのですが割愛)
ようやく、待ちに待った部活動の開始日。
初めてのゴルフ部活動。
期待で胸をドキドキさせて行った体育館。
そこにいたのは男子生徒7人。
知り合いもおらず、好奇の目に晒される9年生の私。
構成員は12年生(高3)が4人と、11年生(高2)が3人。
下級生は9年生(中3)の私ただ1人でした。しかも女子生徒も私1人。
その状況で、よく入部を決意したね!と友達からは言われましたが、こんなのなんとも思いませんでした。だってゴルフがしたかったから。
部活動開始
3月と言っても、ニューヨークはまだまだ寒い。
ゴルフ場は開き出していましたが、シーズン最初の頃の練習は凍えました。
部活動は授業が終わって大体3時以降、コーチの運転するバンに乗って近くの練習場へ。
(外部の部活動コーチがいる、というのも新鮮でした。マリオという名前のアメリカ人だったので何言ってるか最初は全然わかりませんでした)
打ちっぱなし練習場に着くと、各打席に入って、球を打ちます。
先輩たちは和気あいあいと、高い球を打つにはどうしたらいいかとか、あの的に早く当てた方がジュースおごりとか、楽しそうに練習していました。
シャイで真面目だった私は、しばらく黙々と球を打って、勝手に四面楚歌状態を築きかけていました。
でもそのうち、同期もおらず女子も1人という状況を不憫に思ったのか、先輩が特に気遣ってくれました。
たぶんこんな感じで、吹き出しに表すほどではない、他愛もない会話でしたが、話しかけてくれる先輩には本当に救われる思いでした。
面白いことひとつ言えない私でしたが、不器用ながらもちょっとずつ、チームに馴染んでいきました。
今まで大人達に混ざってしていたゴルフが一変して、
「部活って、ゴルフを仲間とやるのって、楽しいじゃん!」と思えました。
シーズンが本格的に始まると、週2,3回は対外試合でした。
近所のローカル高校ゴルフ部と、放課後の午後3時頃から9ホール戦います。(時間によって日没までという時もありましたが。)
大体上手い順に、各校1番〜6番手 の選手がそれぞれ1〜6の選手と一緒に回り、自分の番号の選手とストロークプレーで競っていました。
私はレギュラーではなく補欠だったのですが、バンの移動中での会話も、ゴルフバッグを担いで回るのも、白人の男の子達とラウンドするのも、すべてが新鮮でワクワクの連続でした。
(といってもやっぱり英語はできなかったし社交的でもなかったので、一緒にラウンドしても結局黙々とプレーしていましたが)
余談ですが、他校を見てもやっぱり女の子はほぼいませんでした。ティーボックス(距離に応じた青・白・赤などのティー)は、一緒だったか分けていたのかあまり覚えていません。
当時の私のスコアはというと、長年いいかげんゴルファーだった私は平均90前半だったと記憶しています。80台が出たらまだ喜んでいました。
特にホームコースのゴルフ場はアップダウンの激しいコースで、ハーフは45を切ればめでたい!という感じで、30台を出してくる先輩は神様に見えました。
そう、私は7歳からゴルフを始めたけれど、ゴルフの色んなことを全然理解していませんでした。
もちろんアメリカのゴルフ事情を知らないのは当たり前でしたが。
例えば
稲葉ちゃんが日本で行ってたのはパブリックコース?プライベートコース?
セクショナルが近いから、今日はレンジに行って練習!
ゴルフの知識と、英語の壁!!
ちなみにプライベートコース (Private course)は会員制のゴルフクラブで、パブリックコース (Public course) は誰でもプレーできるゴルフ場にのこと。
ステート (State) は州大会、セクショナル (Sectionals) は地区予選、レンジ (Range) は打ちっ放し練習場のことでした。
私はルールとエチケットとプレーファーストの精神だけ、ジュニア時代に刷り込まれていましたが、
ラウンド以外の概念が通用しない…!
ちょっと専門的で申し訳ないのですが、逆に日本のジュニアゴルフ界ではマストの、「目土袋」を持たないのは戸惑いました。
最初にゴルフコースに出た時、持参の目土袋とスコップを持って、土管を探しました(笑)
(↑コレですコレ。芝をえぐってしまった時にこの砂を入れるのがマナーなんですね。)
そんなこんな文化の違いに驚きながらも、異国の地で同年代の子達とゴルフをするのは、とても楽しいことでした。
1シーズンはあっという間に過ぎ、お世話になった先輩達も卒業。涙涙の卒業式でした。
長い夏休み中は当然、ゴルフに熱を上げます。
夏休みと冬休みは日本に帰っていたので、その間にキャディのアルバイトも始めました。
(キャディのエピソードも面白いのでそのうちストーリーをかけたらと思います。)
そしてまた新学期。
翌年の3月まで、また待たなければならない…
けれどもある程度勝手がわかってきた私は、寮周辺の芝生でアプローチ練習をしたり、タクシーでゴルフ場へ行きプレーをするという荒技をしたりしていました。
なぜそれほどに情熱があったのか、よくわかりません。
しかし更に疑問なのは、情熱と行動力があったのに、プレーできる事に満足して、プレーの内容に全然頭を使っていなかったことです。
プロゴルファー猿 みたいに、本能で球と戯れていた、そんな感じ。
翌シーズンは部員不足を心配していましたが、5人加わってチームも活気立ちました。…
ちなみに私の代は最初から最後まで同期が現れず、4年間在籍した中で女性部員は私ただ1人でした。
同期がいないが故に、12年生(最上級生)になった時には自動的にキャプテンになりました。
スコアは少し伸びたものの相変わらずで、コーチとのコミュニケーションは英語だったので、全部バイリンガルの後輩に丸投げしていました。ダメなキャプテンです(笑)
雨の日は校内トレーニング!といって走っては「稲葉さんのダイエット部」と揶揄され、
紅一点のはずが「ゴルフ部のお局さま」と部員にからかわれました。
それでも他学年、異性、異文化と部活動を一緒にしなければいけない状況から、無意識的に精神面が鍛えられました。
無口で臆病だった私が、笑顔で場を乗り切ることを覚え、
フレンドリーに積極的に話しかけて味方を作り、できないことは迷わず人に頼る。
感謝を伝える。
多様性を受け入れる。
海外でのゴルフ部というと特殊ですが、高校という多感な時期に部活に入ると、おおよその人はこういう人間的な学びがあるのではないでしょうか。
シーズン最後の打ち上げには、なんだかんだと慕ってくれる仲間に恵まれ、後輩メンズ達から温かいメッセージとプレゼントをもらいました。
ありきたりな表現ながらも「胸がジーンと」しました。
ちなみに、その時もらったのはティファニーのグリーンフォークで(笑)実用性ゼロな為 今も大切に飾ってあります。
決して強いチームではなかったし、少人数だし、コーチのマリオはいいかげんだし…
でもきっとそのユルさと、同期も女子もいなくて競争がない環境が、自分には合っていたんだと思います。(スポーツ部として邪道でしょうが。)
少なくともゴルフが楽しい、仲間と切磋琢磨するのが楽しい、と思わせてくれたゴルフ部のみんなには、本当に感謝しています。
4年間、毎年3ヶ月しかないこのゴルフシーズンで、私は人間的に大きく成長させてもらいました。
そして感謝とゴルフ熱は大学へと続く…
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