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16/1/22

あの頃、ビアハウス:A.D.

Image by Olia Gozha

アサヒの名物男の一人に「A.D.」と皆から呼ばれていたおじさんがいました。しょっちゅう顔を出すわけではないのですが、ちょっとした風貌でビアハウスでは人気者でした。

いつも広島カープの赤帽をかぶり、ガニまたの足に履く赤い靴だけはやけにピカピカ光っているのです。

けっこうなお歳で70近くだったかも知れません、小柄でした。頭は、これまた靴と同じく、ツッルツルのぴっかぴか!よくよく気をつけて見ると、両目がアンバランスなのですね。それでびっこ気味で片足をすこし引きずっていました。若い頃はボクサーだったと聞きました。

多く話す人ではないのですが、話し始めると江戸っ子弁かと思われるような べらんめぇ調が入ってきます。顔いっぱいに浮かべる笑みは、どこか少年のような無邪気さがうかがわれ、わたしにはとても魅力的でした。
  
独り身で、当時は大阪のどこかのボクシング・ジムに住んでいるということでしたが、A.D.については、誰も多くを知りませんでした。ふとした折に見かけるA.D.の背中には一抹の寂しさが漂っている気がしてならなかったのでした。

ステージが終わり休憩に入ると、わたしは時々呼ばれもしないのにA.D.の立ち席まで行ったものです。
     
「おじさん、元気?」と声をかけると、決まって、
「おお、あんたも元気かい?」
ADのアンバランスな目が、なぜかウインクしたように見えたりするのでした。

ポルトガルに来てからこのかた、一度もA.D.のことを思い浮かべたことはありませんでした。
それが、しばらく前に、人づてに、そのA.D.のことがポルトガルにいるわたしの耳に入りました。ADが何歳で、そしていつのことだったかは知らないけれども、亡くなっていたのです。

路傍での孤独死だったと聞きます。誰も引き取り手がなく、アサヒヒアハウスの常連の一人が引き取り、彼を知る常連たちが集まっての見送りになったそうです。

わたしは少し落ち込みました。随分若い頃、20代も半ばを過ぎる頃までのわたしは、若気の至りで 「例え明日命が無くなってもいい」くらいの意気込みで、日々を、あの頃のわたしからしたら、一生懸命、しかし、今振り返って見ると無謀にしか思えないような生き方をしていたものです。「たとえ路傍死しても悔いはない」との思いがあったのも若さゆえだったと、今にして思います。

 「路傍死」。その言葉に記憶があるわたしは、A.D.の死に様に堪えたのです。
  
若い頃、ADがどんなボクサーだったのか、今となっては知る由もありません。アサヒビアハウスが「人生のるつぼ」と思われるストーリーではあります。

A.D.に、心をこめて、合掌します。

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