早稲田で人生を変える 第八回

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社会の受験科目は、日本史を選択した。今でいう、「日本史B」だ。今思うと、なぜもっと効率よく政治経済を選ばなかったのだろう。政治経済のほうが覚える量も少ないではないか。日本史を選んだのは、結局、何も情報を知らなかったのだろう。「みんなやってるから」と流されてしまったのだ。インターネットのない時代の、失敗である。私は受験が終わったとき、

情報をたくさん入手し、取捨選択できる人間は、情報を上手に活用した生き方ができるものなのだ。

私の早稲田大学の同級生に麻野という友人がいる。

麻野は3浪して早稲田大学に入ったヤツだ。

それなりに裕福で、地方のスポーツが強い学校から来た奴だった。大学の近くで一人暮らしをしていた。もちろん、金は親が出していた。麻野は、高校時代、高校駅伝で全国優勝をした時のキャプテンだった。箱根駅伝の常連校からは沢山の誘いがあったようだ。早稲田大学からは、誘いがなかったとのことだ。麻野は、どうしてもエンジ色の早稲田の襷をして、箱根駅伝に出場したかったのことで、彼は箱根駅伝常連校の誘いをすべて断り、浪人したのだ、そして、3浪して早稲田に入ったのだ。私は、彼に「麻野の駅伝の実績だったら、自己推薦で早稲田に入れたんじゃないのか?」と聞いた。彼は「何?それ。そんな制度あるの?」との回答だった。つまり、彼は、「自己推薦」という制度すら知らなかったのだ。全国大会優勝の成績であれば、あとは学業成績が設定された内申点より上であれば、彼はかなりの確率で現役で早稲田に合格できた可能性が高い。麻野は、結局3年間のブランクにより、椎間板ヘルニアとなり、最後まで箱根駅伝に出場することはできなかった。彼は今でも箱根駅伝に出れなかったことを悔いている。皇居ランなど、ランニングがかつてより随分盛んになった今、麻野の高校時代の実績や大学で駅伝を走る、競争部であったことの経歴から、一緒に皇居ランを走ってほしいと頼まれることがあるようだ。そのとき、「高校駅伝優勝、箱根駅伝も出場」と言えない自分が悔しいとのことだ。やはり、「箱根駅伝出場」というのは、皇居ランをしている素人ランナー連中には相当なインパクトがあるフレーズのようだ。彼は、私に正直に胸の内を語ってくれた。私は麻野に聞いたことがある。「俺も2浪したが、麻野もよく3浪もしたな。途中でイヤにならなかったのか?」と。麻野は「俺って、長距離ランナーだろ。だから。3浪でも、そんなんい辛くないな」と納得していいのかどうかわからない回答をしてきた。面白いやつだ。今でも付き合いは続いている。今ではアメリカの有名大学を卒業し、アメリカで活躍している。3浪したヤツがである。

日本史は比較的得意であった。1浪時で偏差値60代前半、2浪時は偏差値70以下になったことはなかった。ひたすら無印良品のA4判再生紙メモ帳に黒のボールペンで年号や歴史上の人物を書き、暗記した。受験が終了したときにひたすら書きなぐった何冊ものメモ帳を見て、処分するのが惜しくなった。努力の証であった。二度とあんなに書くことはないだろう。

国語の偏差値が最も低かった。スタート時は30台だった。特に現代文が苦手だった。あまり本を読まなかったのと関係があるのかもしれない。文章をよく理解できていないので、設問の意味もよくわからず、選択しの回答がすべて正解のように感じてしまったのだ。国語が得意な人は、特に勉強しなくても高得点を取れてしまう。私は得意でないので、予備校の先生の教えのとおりに文章を読むようにした。一浪時には最も苦戦し教科であろう。偏差値50代前半だった。

古文、漢文についても、有名な先生に教わった。私は私立大学一本だったが、国立大学を受験する人は7教科勉強するのってすごい。古文、漢文ですらかなりの勉強時間を要したのに。相当要領よくやらないと、国立大学なんて合格しないと思った。

一浪時には、偏差値が三教科で50台中盤に上昇した。それでもやはり早稲田は遠い。親に対してはどこかの大学に行くことが前提で浪人していたので、日東駒専ランクの大学も受けた。全部で10大学・学部を受験した。早稲田はそのうち4学部受けた。結果は全部不合格。時期的に、日東駒専ランクから試験は始まり、最後が早稲田という日程たった。そこで、思ったのだ。「もし、日東駒専に合格して、早稲田に合格しなかったら、日東駒専に通うことになるよね。そしたら、早稲田に行けないよ。仮面浪人をするのか?わざわざ大学に通いながら受験勉強するなら、もう一年勉強して、もっと偏差値を上げて早稲田に行きたい。」そう考えた。そこで、日東駒専ランクを受験したとき、私はワザと回答を間違えたのだ。そして不合格。全滅したのだ。合格発表を見に行く前から早稲田以外は不合格なのはわかっていた。早稲田は本気で受験した。

しかし、現実はそんなに甘くはない。



模擬試験で偏差値50中盤台の学力の者が早稲田には当然受からない。

受験にラッキーはないのだ。

日頃の努力の結果が合格に結びつくのだ。

「受験は水物ではない」。

ラグビーと同じだ。全滅が決定する瞬間のこと。早稲田大学は教育学部、社会科学部の不合格が決まり、最後に第一文学部、第二文学部の合格発表を見に、早稲田の戸山キャンパスの合格発表掲示板を見に行った。そこには、私の受験番号がやはりなかった。二浪確定だ。その時、私の隣の女の子が、「あっ、あった!合格!」と喜び、周りにいた早大生が「おめでとー!」と祝福し始めた。私は静かにそこから戸山キャンパスのスロープを歩き、掲示板を後にした。私はその時、



「もし、来年俺が受かったら、絶対に合格の喜びを表に出さないようにしよう。二浪確定した俺のような人が隣にいるかもしれないのだから。」と思った。



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早稲田で人生を変える 第九回

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