【第3章_新たな仲間たちとともに、次のステージへ。
〜刺し子糸が紡ぐ縁〜 】
[ 刺し子さんからの申し出。〜商品化の作業を現地へ〜 ]
立ち上げから2ヵ月が過ぎた頃には、刺し子プロジェクトは口コミにより
大槌町内でも徐々に認知されていき、
新規刺し子さんの募集を兼ねた「刺し子会」も、たくさんの参加者で賑わうように。
・ 仮設住宅にテレビを買った。
・ 孫や子どもにお小遣いをあげられるのが助かる。
・ 嫁にお米を買ってあげた。
・ 結婚の決まった孫にお祝いを渡せることが嬉しい。
多くの刺し子さんが仮設住宅に移り、生活面・収入面に大きな不安を抱える中、
刺し子で得られる収入をとても喜んでくれていました。
膨大な作業に追われ、今のままでは回らないと危機感を持っていた吉野が
SOSを出したり、何かを頼ったりすると、快く引き受けてくれる刺し子さんたち。
「そんなの、もっと早く言ってよ!」と言われることもあったそうです。
そのうち、アイロン掛けやNG品の修正、新規刺し子さんへのレクチャーなどを
刺し子さんたちが自発的に協力してくれるようになりました。


<アイロン作業を手伝ってくれる刺し子さん(左)と、ベテラン刺し子さんによるレクチャー(右)>
それもすべて、身を粉にして働く吉野や秋田、現地スタッフのひたむきな思いが
刺し子さんの心に届き、信頼関係を築くことができた結果なのだと思います。
これにより、少しずつスタッフの負担が、対応可能な範囲になっていきました。
「刺し子プロジェクトがなくなると私たちも困るから、一緒にがんばっていきたい」
スタッフと刺し子さんが集まって行われた初めてのミーティングで、
刺し子さんたちから出た言葉です。
この活動が刺し子さんたちに必要とされていることを、改めて強く感じることができました。
[ 本舗飛騨さしこさんの協力。 ]
遡って2011年7月。
スタッフの小杉は、岐阜県は飛騨に向かっていました。
当初、手芸品店で資材の調達をしていましたが、生産量が増えるにつれて、
コースターに使用していた生地が廃番になるなど、材料の安定した確保が難しくなっていました。
そんな中、本舗飛騨さしこさんが私たちのプロジェクトを知り、コンタクトしてきてくれました。
当時の担当者、二ツ谷淳さんと久保・小杉のSkypeミーティングを経て、
飛騨さしこさんがプロジェクトへの協力を申し出てくれることに。
不安定だった資材の調達に風穴が開き、ふきん・コースターの布と糸を
飛騨さしこの刺し子専用糸に変更することができました。
また、飛騨さしこさんでは9月から“支援糸”と称して、
「300円を寄付すると、1カセの刺し子糸がプロジェクトに寄付される」
という応援キャンペーンも行ってくださいました。

<刺し子糸。それまでは刺繍糸を使用していましたが、
刺し子さんより度々「刺しにくい」との意見が。
刺し子専用の糸を使用することで、刺し子がしやすくなり、
ふっくらと仕上がるため、品質が向上しました。>
何よりも大きかった変化が、材料のキット化です。
これまではボランティアスタッフの手を借りて、
1枚ずつチャコペンと型紙でトレースしていた下書きが、飛騨さしこさんから
「消えるインクで下書きがプリントされたカット済みの布」と「刺し子糸」という状態で納品され、
それを現地スタッフがキット化して刺し子さんたちに配布できるように。

<コースター(グリーン)のキット。
カットされた状態で納品された布と糸を現地スタッフがキット化して
刺し子さんに配布していました。>
これによりスタッフの作業負担は大きく減り、材料の安定供給に加えて
品質も向上、大量生産に対応できる環境が整ったのでした。
そして、この飛騨さしこさんのオリジナル商品・「段染め糸」は、
その後の刺し子プロジェクトの商品デザインにおいて、なくてはならない存在となります。
[ 2011年8月。テラ・ルネッサンスへの事業移管。 ]
立ち上げから約2ヵ月後の、2011年8月。
東京チームは、吉野をスタッフとして雇用していたテラ・ルネッサンスから
「テラとして刺し子プロジェクトを事業化したい」との申し出をもらっていました。
東北の復興のために、得意分野である“自立支援”で何かをしたいと考えていた
テラ・ルネッサンス。
そして、5人のメンバーのうち4名が遠隔で関わり、しかも本業を抱えながら
業務を続けることに、それぞれが限界を感じ始めていたこの頃の東京チーム。
両者の思惑と状況が合致したこともあり、
代表・鬼丸さんの「2021年までに現地法人化をめざす」という
長期的ビジョンを受け、運営を移管することを決めました。
これにより、大槌復興刺し子プロジェクトは、
資金とマンパワーという重要なリソースを、比較的安定して得られることに。
とはいうものの、商品の企画・制作管理や経営判断は、
引き続き東京チームが中心となって活動していました。
この時点で、販売枚数は600枚を超え、
参加してくれている刺し子さんものべ55名になっていました。
それぞれが家庭と本業を抱えながら手一杯で関わっていた東京チームのメンバーは、
東京近郊でのイベントの販売を中心に、
久保はリーダーとして運営のトータルのフォローやアドバイス、
五十嵐はお問い合わせ対応のフォローや経営・生産管理、
小杉はSNSでの情報発信、オフィシャルサイトの管理、
澤向は商品開発
…と、徐々にではありますが、
それぞれの得意分野を生かした関わり方へとスライドしていきました。
[ 2011年9月。まだまだ予断を許さない、ギリギリの運営。 ~支援とビジネスの狭間で~ ]
運営を無事に移管し、これまで走り続けた東京チームに訪れる平穏な日々。
…とは、やはり、まったくなりませんでした。
ここにきて、プロジェクト最大の事件が起こります。
名づけて、「超大量発注事件」。
トータルで6,000枚分のふきん・コースターの材料を発注していたことが発覚したのです。
立ち上げから3ヵ月間での売上枚数が、合計で約800枚。
いかに無謀な数字だったかがお分かりいただけると思います。
なぜこのようなことが起こってしまったのか。
それはひとえに、高いモチベーションを持って関わってくれる
刺し子さんの手を休ませたくなかったからです。
つまり、「刺し子さんに仕事を回すこと」が目的となり、
刺し子さんへ配布する材料が切れてしまう事態を恐れるばかりに、
現実的ではない量の材料発注が起こってしまったのでした。
「“やること”をつくりたい」から始まったプロジェクトだからこそ、
「やることがない」状態に戻りたくないという一心。
刺し子さんへの愛情、一生懸命さが招いた、深刻な事態でした。
最終的には、この資金はテラ・ルネッサンスが豊富な経験を生かして得た
プロジェクトへの助成金で賄ったのですが、この助成金に関しても、
東京チームは予想しなかった難しさを知ることになります。
この助成金の申請に際しては、お金の使途を明示する必要がありました。
しかし、助成金の用途として買取代・仕入代・人件費などの計上はできても、
管理費や、新商品に取り組む費用としては計上できないものでした。
そのため、ほとんど利益の出ないふきん・コースターを大量に作ることに人手を取られ、
新商品の企画・試作など次の手を打つことができないという
厳しいスパイラルに陥り、結果、かえって経営を悪化させることに。
その一方で、助成金申請のために提出した生産計画が、「月に3,000枚×3ヵ月」という
これまたおよそ現実的ではない無謀なものであったことも後に発覚。
繰り返しますが、これまでのトータルの売上数は、3ヵ月で約800枚です。
この枚数を売り上げるために、どれほど地道な努力があったことか。
当たり前のことながら、「作った分は売らなければ」という大きな課題が振りかかります。
売上枚数からすると、単純計算でこれまでの3.5倍以上の努力をする必要が
出てきてしまいました。
いずれにしても、大量に届いた材料に対しての刺し子さんの数が足りず、
無謀な計画に沿った大量生産をクリアするために
とにかく刺し子さんを大募集することに。
このことが需要と供給のバランスをくずし、
翌年の春に再び訪れる、最大の運営危機への伏線となってしまいました。
この時、東京チームと現地スタッフの間で、
特に用件がなくても近況を聞くなどコミュニケーションを密に取っていれば、
この事態は回避することができていたのかもしれません。
東京チームへの大きな教訓となりました。
[ 2011年10月。刺し子会の充実。そして、名実ともに“大槌発”へ。 ]
そのような内部のトラブルの一方で、
週に一度、毎週水曜日に定例化した大槌の「刺し子会」。
前述したような大量生産に追われる状況下、
買い取ったまま商品化できずに山積みになっていくふきん・コースター。
困り果てた吉野が、立ち上げから参加してくれている古株の刺し子さんに相談したところ、
「それはみんなで手伝うべきよ!」と頼もしい申し出をもらいます。
そして、秋以降、徐々に検品やアイロン、梱包などの商品化作業も
刺し子会の中で行うことができるようになっていきました。
それまではスタッフがかかりっきりで毎週3日間もかけて行っていたアイロン・梱包作業。
それがわずか4時間足らずで完了するようになりました。
検品に関しても、「どこが良くないか、間違いが起こりやすいかわかるから、
全員が経験した方がいいよ」と刺し子さんが自発的に声を掛け合い、
みんなで協力する体制ができていきました。
刺し子会は、初対面の刺し子さん同士が親しくなる場にもなり、
週に一度の刺し子会を楽しみにかよってくる刺し子さんもたくさんいます。
ある日の新規刺し子さん向けの説明会には、なんと17歳から83歳までの女性が参加!
説明会の運営を自発的に手伝ってくださるベテラン刺し子さんもいました。
10月に、京都のテラ・ルネッサンスからスタッフの牧野が赴任。
11月には、卒業した秋田に代わって
青年海外協力隊の活動を終えタンザニアから帰国した鈴鹿も加わり、
新体制が整っていきました。

<遠野事務所の様子。
作業が効率化してもやるべきことは多く、連日、夜遅くまで作業していました。>
そして、プロジェクト立ち上げから5ヵ月を経た2011年11月、
神奈川から発送していた商品のすべてを、とうとう大槌からの発送に移行。
この頃には、刺し子さんたちにとって
「大槌復興刺し子プロジェクト」が一過性の受け身の活動でなく、
どんどん主体的に関わっていくものに育っていました。

<2011年11月の「刺し子会予定表」。
大ケ口(おがくち)の集会場を借りて刺し子会をしていたこと、
新規刺し子さんの募集が盛んに行われていたことがわかります。>
[ 2011年11月。しかしまだまだトラブルは続く。 〜大槌冷戦時代、安定しない運営〜 ]
刺し子会が充実していく反面、運営を移管したものの、
webサイトの更新作業、新商品の企画制作をはじめ、
東京チームが担当していた業務の中には
内容・スキル面からなかなか引き継げないものもありました。
そして、現地スタッフが増えてより盤石な体制に
…と期待していた東京チームが落胆してしまう、さらなる事態が起こりました。
大槌事務所内の人間関係が、あまりうまくいっていなかったことと、
現地スタッフと東京チームの見解の相違です。
ルーツも性格もバラバラの人間が突然集まり、
時間的にも内容的にも密度の濃い時間を共に過ごす…
これは、うまくハマれば問題はないのですが、
ハマらないケースでは非常に厳しい状況を生みます。
この頃は、定例Skypeからもメールの文面からも、
現地のギクシャクしたムードが伝わってきていました。
人間関係でもめている場合ではない、予断を許さない時期。
そのへんはうまくやってくれないものか…というのが
東京チームの偽らざる本音でした。
さらには、「重要なのは復興支援であって、刺し子である必然性は二の次」
とする現地スタッフの考え方と、
「刺し子をビジネスに乗せることこそが、継続につながり支援になるのだ」
と考える東京チームの意見の対立も生まれていきました。
そんな現地のムード。そして地に足の付かない運営。
運営を移管したはずだった東京チーム内では
現地スタッフに対する不信感が募っていきました。
[ 2011年12月。ECサイト導入。 〜運営のフォローと業務の効率化〜 ]
11年の12月にはWEBサイトがリニューアルし、ECサイトがスタート。
9月に始まったAmazonページに続いて、
ようやくWEBサイトから決済ができるようになりました。

< 2011年12月にリニューアルしたサイト。小杉が手がけました。>
ECサイトを導入したことにより、受注から発送までの業務がシステム化され、
現地スタッフの効率が格段にアップ。
時間のかかっていた受注関連業務の引き継ぎも、ようやく完了しました。
お客さまにとっても、カード決済/代金引換ができるようになり、
ようやく便利になりました。
セキュリティもより守られることになり、
手作業で受注から発送までを行っていたこれまでより、
一層プロジェクトとして安心していただけるものになったのでは、と思います。
活動報告や刺し子さんの情報、
また刺し子商品を取り扱ってくださる販売店の一覧など
発信できる情報もより充実していきました。
< 大槌復興刺し子プロジェクト 「東京チーム」ヒストリー ⑦ に続きます >

