【第4章_バトンタッチの難しさに直面。それから。】
[ 2012年1月。Tシャツ発売 ]
2012年1月には、その後の刺し子プロジェクトの象徴的な商品ともなる、
「モビールTシャツ」が発売開始となります。
コースターとふきんは、販売しても利益がほとんど出ず、
事業の継続・安定のためには、適正な利益を出せる商品が
どうしても必要だったという現実もあり、
プロジェクトにとって重要な意味を持つ商品となりました。
また、このTシャツは、コンサートの企画制作などを行う
ハンズオン・エンタテインメントのマーチャンダイジングセクションである、
アクアのみなさんに制作をお願いしました。
ハンズオン/アクアさんは、震災時、大槌での春物衣料の深刻な不足を相談したところ、
即決で1,000枚もの衣類を購入し、避難所へ届けてくださった会社です。
あれから約9ヵ月を経て、改めてご縁がつながり、
そして、その後もプロジェクトの多くの商品に関して、
頼もしいパートナーになってくださっています。
「モビールTシャツ」と名付けられた新商品は、
飛騨さしこさんの虹色の「段染め糸」をポイントに据え、
大槌の町の鳥・かもめ、町の魚・サケ、町の花・つつじが
モビールで吊られた、カラフルでインパクトのあるデザインに仕上がりました。

<プロジェクトを象徴する商品となった、「モビールTシャツ」。
段染め糸がホワイト・グレー・ネイビーのボディに映える、人気商品となりました>
このTシャツは、後に、イベント販売の大きな柱ともなる
野外音楽フェスティバルでの出店において、本当に多くのお客さまに
お買い上げいただくことになります。
ふと目にしたテレビで、モビールTシャツを着用したお客さまが映ったことも。
このTシャツも、刺し子プロジェクトの初期を象徴する、
忘れられない商品となりました。
[ 2012年2月。飛騨さしこさん、大槌へ。 〜一気に伝統柄に傾くスタッフと刺し子さん〜 ]
2月には、飛騨さしこの3代目、二ツ谷淳さんがアメリカから長期で大槌に入りました。
運営を立て直すこと、刺し子のレクチャー、人間関係のフォローなどを目的としていましたが、
これが思わぬ影響を与えることに。
本来、年配の女性たちは「刺し子」といえば
伝統柄が一面に刺されたふきんなどを思い浮かべます。
その伝統柄による刺し子で長年腕を磨いてきた本場の飛騨さしこさんに
レクチャーを受け、商品に触れたことで、年配の刺し子さんに加えスタッフまでもが
「伝統柄の刺し子らしい刺し子で勝負してみたい」という思いを持つようになったのです。
それでは売れない、続かない、と確信している東京チームとの間に少しずつ齟齬が生まれ、
Skypeによるミーティングでもギクシャクしたやりとりが続くようになっていきました。
現地スタッフと刺し子さんが、自分たちでデザインを考えたいと言い出したことも。
プロの手によるデザインがいかに重要であるかを認識していた東京チームは、
ガス抜きの意味合いでトライをすることは受け入れながらも、
その意識の違いに危機感を持っていました。


<スタッフへの刺し子レクチャーの様子(上)と、
刺し子さんから歓声が上がった、伝統柄の刺し子商品(下)>
[ 2012年5月。リーダー、鈴鹿誕生。 ]
2012年5月、立ち上げから刺し子プロジェクトに関わり続けた
吉野が刺し子事業を外れることに。
電子書籍事業など、テラ・ルネッサンスの他の復興支援事業に従事することになりました。
代わって現地のリーダーになったのが鈴鹿です。
温厚な人柄と慎重な性格で、不慣れな業務にも真摯に取り組み、
刺し子さんたちの信頼を得ていきました。
その様子に東京チームもひと安心。
プロジェクトにつかの間の平穏が訪れたのでした。
[ 2012年7月。プロジェクト最大の運営危機。 ]
しかし運営面では、昨年末に急激に増やしてしまった生産量を
落とすことができずにいました。
支援を本分として、なるべくスムーズに多くの人が
刺し子に関われるよう心を砕いていく一方で、
販売は追いつかず、完全に供給過多の状態に。
さらに悪いことに、この時期、現地スタッフと東京チームの
コミュニケーションが以前より減っていたために
供給過多の状況を共有できたのが、危機的な状況に陥ってからだったのです。
積み上がる在庫。事務所代、刺し子会の会場費、車代など、多額の固定費。
このままでは、翌月には資金が完全にショートする寸前でした。
もはやこれまでか…というムードが漂いました。
組織内のコミュニケーション不足によってもたらされた危機。
一旦、財務・生産計画・売上管理・資金計画・監査など経営に関する業務は
久保と五十嵐が預かることに。
現時点でいくらのお金と仕掛品と在庫があるのか、
どのタイミングでいくら売れているのか、
出ていくお金と入ってくるお金について、
今ある資金を元にどれくらいの数(ペース)で生産していくのか。
あらゆる数字の把握と管理を引き受けました。
そして、すべての発注と材料配布を中止。取引先に対しても状況を説明し、
支払いを少しでも先延ばしにしてもらえるよう、お願いをして回りました。
その上で、プロジェクトのリーダーである鬼丸さんに対して
2ヵ月分の経費に当たる200万円の補填を要請。
テラ・ルネッサンス本部にも余裕があったわけではありませんが、
プロジェクト全体で招いた危機に対して即決で資金を用意してくれたのでした。
徐々に現地運営へ移行して、ゆるやかにフェイドアウトを…などと
プロジェクトの今後を考えていた東京チームでしたが、
事業の立て直しに本格的に取り組むことになりました。
東京チームのリーダー・久保による、日々の運営の徹底したチェック。
生産管理のプロフェッショナルである五十嵐による生産管理システムの構築。
五十嵐は、注文/材料配布/材料発注/在庫/資金情報などの数字の管理を
徹底して進めていきました。
その状況を、久保と五十嵐、鈴鹿の3人が毎日のように
Skypeで共有しながら、ひとつひとつ改善。
もともと、経営の概念をないがしろにしていたことが今回の原因だったため、
危機を迎えるのも早かったけれど、挽回も同様に早いものでした。
そして、小杉も澤向も、加えて久保も五十嵐も、
売上を少しでも上げるべく、週末ごとにイベント販売に奔走しました。
翌8月には、これまで決して行うことのなかった
生産の制限に踏み切ります。
これにより、コースター、ふきんなど
1種類の商品しか刺し子をしない刺し子さん、
Tシャツに必要なチェーンステッチのできない刺し子さんは
しばらくお休みしてもらったり、ほんのわずかな材料しか渡せない状況に。
このことがキッカケとなり
刺し子プロジェクトを去っていった刺し子さんもいました。
大槌スタッフには本当に辛い状況だったと思います。
刺し子さんを思い奮闘してきた東京チームにとっても大変胸が痛む決断でしたが、
プロジェクトの存続のためには経営を安定させなければならなかったことから、
そこまでしなければならない状況がありました。
同時に、積極的な法人営業も開始。
結果的に、その後長きに渡ってお付き合いいただける取引先にも出会うきっかけともなり、
年内には少しずつ内部留保が確保できるような体質へと改善することができました。
本当の支援とは、一時的に助かったり、良い思いができることではなく、
存続することで広がっていく。
時に痛みを伴う判断をしなければならなかったとしても、とにかく続ける。
そのためには“経営”という根幹をないがしろにすることはできないのだという
シンプルな事実を、プロジェクトスタッフ全員で共有する出来事になりました。
この年の夏には大きなイベントへの出店がありました。
「ap bank fes’12」では、2会場・のべ6日間で140万円という売上を記録。
SNSを通じて楽しい様子を発信していましたし、
実際にとても素晴らしく、楽しい体験でしたが、その内情は切実でした。
全員が仕事を抱えながら、スケジュールをやりくりして販売スタッフ人員を確保、
準備も販売も家族総動員で行いました。
1円でも多く売り上げなければならない悲壮感を隠しながら、
必死でお客さまにプロジェクトの意義と商品の魅力を伝えました。
一方では、各所への支払いを待ってもらったり、
支払い方法を現金から売り掛けに変更してもらったり、
在庫と売上を見定めて一時減産を行ったりと、地道な取り組みも。
そのような、各所の必死な努力と現金収入により、はやくも9月の終わり頃には、
傾き、倒れかけた運営を立て直す目処がついてきました。
その後は反省を生かした運営改善へ。
毎月、生産計画/資金繰り計画/販売予測を共有することもルール付けられ、
久保、五十嵐がNPO法人スタッフに基礎的な経営マインドを伝えるという
OJTが始まりました。
支援プロジェクトから、ビジネスへ。
材料の超大量発注を引き金に、資金不足により運営ストップまで追い込まれてしまった
一連の出来事は、意識改革を含めて、プロジェクトが大きく舵を切るきっかけになりました。
五十嵐がこの時のことを回想します。
「テラに資金を出してもらっているから、という遠慮があったけれど、
それはもうやめて、一度運営を引き取ろうと決めました。
刺し子さんがヒマになってしまうのを避けるのではなく、
自分たちの刺し子商品の売上で回していける事業にしない限り、
長くは続けていけない。
ビジネス的な発想を持とうと。
私がチェックしていたのは在庫量と発送量。お金の使い方。
簡単に言うと、売っている量と作っている量のバランスがトントンになるような管理です。
売上の読めるコラボ商品や、大口発注を見越した生産管理。
過去実績をベースにした売上予測。
でも過去実績と呼べるものはたいしてなかったので、ある部分は感覚にも頼りながら。
管理には、『基準在庫方式』を取りました。
各アイテムの基準在庫を決めて、減ったら足す/減らなかったら作らない。
基準となる数は随時見直す。
はじめの頃は鈴鹿さんときめ細かくやりとりを続けましたが、
数ヶ月で鈴鹿さんがペースを把握して、そこからは安定しましたね」
今だからこそ、五十嵐は穏やかに振り返ります。
「東京チームに心配をかけたくないあまり、
ギリギリになってからネガティブな情報が上がってくるのが辛かった。
『あと1週間早く言ってくれれば…』というようなことも(苦笑)。
でも、結果的にはなんとかクリアできる範囲だったということです。
資金調達の鬼丸さんも、経営改善を担った久保さんも私も、最善を尽くした。
結果オーライだったなと、今は思います」
そして、この出来事以降、すべてが順風満帆…とはいえないまでも、
プロジェクト運営の根幹を揺るがすような危機を迎えることはなくなり、
緊急招集されてのSkypeミーティングも、めっきり少なくなっていきました。
[ 東京チーム、それからの日々。 ]
その後、復興支援の活動を通じて知り合った吉野に強く共感し、
刺し子プロジェクトを応援してくれていた
松尾英尚(まつお ひでたか)さんが東京チームに加わり、
首都圏でのイベント販売において大活躍をしてくれる中心的存在に。
販売キットやブース展示のノウハウ、セールストークも徐々に確立され、
プロジェクトの重要な収入源であるイベント販売もパワーアップ。
自治体の復興支援イベント、地域のお祭りや物産展、
プロジェクトを応援してくれる方が企画・運営するイベント、
そして、音楽イベント・野外フェスティバルとの連携。
時に販売人員の確保が難しくなるほど、数多くの販売の機会をいただきました。

そして、Tシャツに続く新商品の企画をコツコツと進行できたことも、
その後の運営を助ける大きな要因となりました。
とはいえ、刺し子商品のデザイン、ブランディングについても
やはり一筋縄ではいかない局面が多くあったこともまた事実。
商品は、デザイナーの榊原さんからあがる複数の魅力的なデザインの中から、
技術力や刺し子を刺す分量、価格などの制約を再三に渡り吟味して、
たったひとつの商品に仕上げます。
そんな中、「もっと刺し子らしい商品が作りたい」と他意なく言う刺し子さんと、
それに振り回されてしまう現地スタッフ。
百歩譲って刺し子さんはいいとして、スタッフがそんなことでどうする!
商品企画担当の私は、歯痒い思いをすることもありました。
伝統柄を普通に刺して、それが商品として長く売れていくなら、なんの苦労もない。
刺し子産業としては後発で、しかも技術力にバラつきがあり、
生産量の調整もままならない刺し子さんをたくさん抱える大槌刺し子が
事業として存続していくためには、違う土俵で勝負するべき。
そんな中で東京チームが導き出したのが
「伝統柄 × 今どきの色味&デザイン」という“新しい刺し子”の方向性でした。
「復興」の文字が取れた後にも売れ続ける商品を生み出すためには、
商品自体の魅力を高めていかなければならない。
その意識を大槌スタッフ、ひいては刺し子さんにも持ってもらい、
納得して、楽しんで刺し子をしてもらわなければ、きっと長くは続かないだろう。
その考えを理解してもらうことが思った以上に難しく、
遠距離でのコミュニケーション、共通認識を持つ難しさに何度も直面しながらの
商品企画、“大槌刺し子ブランド”の確立でした。
[ 今にして思うこと。〜プロジェクトが続いた理由を考える〜 ]
最後に、ヒストリーの書き手としてこの文章綴ってきた
私・澤向が、これまでを振り返ってみたいと思います。
正直なところ、よく続いたなぁ、というのが本音です。
決して行き当たりばったりやってきたわけではありません。
商品企画、WEB製作、経営、生産管理。
手探りながらも、自分たちの持つ知識を最大限に出し合えば
できると思って始めたプロジェクトだし、その思いは今も変わりません。
それでも、不測の事態、トラブルの連続でした。
刺し子さんやお客さまからたくさんの思いを受け取りましたし、
素晴らしい出会いにも恵まれました。
楽しかったこと、やって良かったと思えたことは数えきれません。
ただ、それと同じくらい大変なことも多かったということは
正直に書き残しておくべきだと思います。
それでも続けられた理由を挙げるならば…
メンバー同士の根底にあるリスペクトだと思います。
久保と私だけは30年来の幼なじみですが、
それ以外は、もともと友達ではありません。
震災があって、何かをせずにはいられなかった初対面の大人の集まりです。
人間関係の小さな(?)トラブルや、意見の食い違いは数知れず。
でも、それを乗り越えられたのは、全員に共通した
「大槌の、東北の復興の一助となりたい」という想いと、
常に「自分の思い」よりも「プロジェクトの継続」が最優先されるべきとした
考え方・行動規範があったからではないかと思います。
このことを、全員がはじめからブレずに持ち続けられたことは、
きっと、ちょっとすごいことだったのかもしれないなと、今にして思います。
そして、それぞれの専門知識・技能に最大限のリスペクトを払い、
その上で意見を戦わせる。
この点は、職種もルーツもバラバラでありながらも
東京チームの4人に共通していたスタンスであり、
そのバランスが、時にギリギリのこともありましたが、
上手に取れていたような気がします。
そして、どうしても書き残しておきたいのが、家族のサポートです。
久保の奥さんはデザイナーを本業とし、プロジェクトのカタログや商品に封入するカード、
イベント販売の際の値札やPOPなど、印刷物を一手に担当してくれています。
お客さまから注文いただく一点もののオーダーメイド商品のデザインを手がけてくれることも。
まだ手のかかる小さい子どもを抱えながらも、毎週末のように飛び回り、
夜な夜なSkypeミーティングを続ける久保を、辛抱強く、温かくサポートしてくれました。
五十嵐、小杉、私の家族も、陰になり日向になり、多大なサポートをしてくれました。
それぞれの子どもたちも、遊びたい盛りの時期に週末のイベントに駆り出され、
時には会場で自由に遊び、時にはもう飽きたと文句を言い、
時には張り切って売り子を手伝いながら、笑顔で関わってくれました。
短期間ならばなんとかできる活動も、これだけの長い期間関わり続けるためには、
自分一人の力ではどうすることもできません。
これまで続けてこられたのも、家族の支えがあってのことです。
この場を借りて感謝したいと思います。
[ 終わりに。〜これからの大槌刺し子へのエール〜 ]
言うまでもないことですが、これは、あくまでも
「東京チームの視点による」ストーリーです。
大槌スタッフには大槌スタッフの、
そしてプロジェクトの主役である刺し子さんには刺し子さんの、
語り尽くせない思いやストーリーがあります。
これを書いている現在、大槌刺し子プロジェクトは
現地で採用されたスタッフと、テラ・ルネッサンスからの派遣職員による運営という
新しいフェーズに入っています。
そして今日も、大槌では、明るく元気な刺し子さんたち、
それを献身的に支えるスタッフにより、刺し子商品が生まれています。
私たちは大槌刺し子プロジェクトの運営から退きましたが、
これからも存続に向けて、地元・大槌町の誇りになるようなプロジェクトを
めざしてがんばってほしいと、心から願い、応援しています。
最後に、久保について書きます。
何かせずにはいられずに、とにかく現地に飛び込んだのが久保でした。
彼が目の当たりにした光景や、被災地を走り回った時間は、私には想像もできないものです。
でも、感情的に、ただ闇雲に動きまわるのではなく、
現地に足を運べない私を巻き込み、自分のアクションを発信して仲間や協力者を増やしながら、
最初から持続性のあるプロジェクトをめざして、
それをゼロから立ち上げました。
そして、あくまでも被災した故郷の人たちが、
自分の力で、今日を生き、明日を生きるための力になりたいという
初期衝動とも言える思いを、最後までぶれさせることなく、
その時々でベストを尽くしてきたリーダーだと思います。
将来、久保に続く人が、臆さずに、その第一歩を踏み出してくれることを願います。
結びとして、私たちのリーダー、久保の言葉を紹介します。
「“いつかまた、必ず、災害は起こります。
この記録が、その時に『何かしたい』と思った人の道標に、
あるいは、きっかけのひとつになっていれば嬉しいです。
機が熟す”ことなんてありません。
だけど、動けば、進めば、たくさんの人が助けてくれます。
だからこう言いたい。
大丈夫、見切り発車ではじめよう。」
【プロジェクト年表:2011〜2012】

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

