闘病記の再構築 第4回

前編: 闘病記の再構築 第3回
後編: 闘病記の再構築 第5回




 鎌倉時代に曹洞宗を開いた道元禅師(以下、敬称略)は、青年時代のある日、仏典の言葉に疑問を抱きました。


人はみな生まれながらに仏である、と仏典に書いてある。それなのに、なぜ我々は仏を目指して修行しているのだろうか。


 道元はしばらく考えましたが、理由は分かりませんでした。そこで、思いきって他の僧に尋ねてみました。しかし、彼らの教条的な答えを聞いても腑に落ちませんでした。それ以外に本当の理由があるに違いないと思えたのです。この疑問は道元の心をとらえて放しませんでした。その後も考えつづけたのですが、解決できませんでした。そして、意を決した道元はある日、当時の高名な僧に教えを請うために寺を離れたのでした。

後日、念願かなってその人物との問答が許されました。道元は全身全霊の疑問を高僧にぶつけました。すると「いつの世の仏もそのようなことは考えない。それを考えるのは猫や牛のすることである」と諭されてされてしまいました。自分の考えの盲点をつくような指摘に、道元は頭でっかちになっていたことを反省しました。そして、体験を重視する禅を学ぶことにしました。

 歳月は流れ、24歳のとき道元は宋に渡りました。そこで本場の禅を学びましましたが、例の問題は解決できませんでした。それでもあきらめないでいると、幸運のほうから歩み寄ってくれるものです。道元は、仏道の本当の人に出会うことができたのです。

 本物の師は、修行に対する姿勢に良い変化をもたらしました。それまでは「水車が水に回してもらう」態度でしたが、それからは「自らが水車を回す」ように変わったのです。道元はこれまでにも増して修行に打ちこみました。

 ある日、ひとりの僧が座禅中に居眠りをはじめました。そして、高僧がとがめた音を聞いたとき、道元は例の問題の答えに気づく(悟りをひらいた)のでした。

後年、そのときの様子を次のように語りました。「仏法を求めて宋まで行ってきたが、仏典はひとつも持ち帰らなかった。ただ、自分の目は横に、鼻はたてについている。ありのままの姿そのままが仏であることが分かった。」その意味は、かつての仏典への疑問は、悟りを開くことで仏典のとおりだと分かった、ということだと言われています。



上述した道元の半生から、悟りを開くために必要と思われる条件を考えてみましょう。

●条件1:必要性

道元が疑問を抱いたのが14才前後です。そして、悟りを開いたのが28才前後です。都合14年を費やして、ひとつの問題を解決したのです。この事実が成立するためには、ひとりの人間を14年間も考えさせる問題と、それを14年間も考えてしまう人間の両方の存在が必要です。そのことをまず問題の側から考えてみましょう。

道元は伝統的な公案ではなく、オリジナルの問題を考えて悟りをひらきました。このことから、悟りを開くための問題というものはなく、自分のなかに生じた疑問で十分だといえます。

道元は途中、何度も壁にぶつかりましたが、あきらめずに考えました。解決は14年目に訪れたのですが、20年かかる運命であれば、20年目まで考えたのかもしれません。それほど本人にとっては解決を必要とする問題であり、考えるに値する問題だったということです。

次に、人間の側を考えてみましょう。ひとつの問題に14年間もこだわったのは、道元の性格や意志や執念のなせる技だと思います。しかし、それよりも大きな要因は、それらが相まって「どうしても解決しなければならない状況」を自らつくりあげたからではないかと思います。

必要のないところに必要をつくりあげた。別の言い方をすれば、解決しなくも死なないのに、解決しなければ死んでしまうほどの環境を自らつくりあげた。それが道元の評価されるべき才能だと思います。


考察

道元が14年間考えたことから、悟りを開くには問題と向き合う時間が必要なのかもしれません。条件1はそのための動機づけに大きく影響しています。もし、それがなければ道元は悟りを開くことができなかったかもしれません。そう考えると、条件1は絶対条件なのかもしれません。

●条件2:本物の師の存在

本物の師は道元に「修行にむかう姿勢の変化」と「それに打ち込める環境」をもたらしました。それらは育とうとする「植物の苗」に良い影響を与えます。おかげで茎はぐんぐん伸び、葉をひろげ、花を咲かせることができたと考えることができます。しかし、後で考察しますが、ブッダは本物の師をもたずに独力で悟りを開きました。そのことを鑑みると、本物の師はもてた方が有利ですが、絶対条件ではありません。師がなくても野に花は咲いているのです。

●条件3:方法

 近年、科学によって座禅が分析されて、私たちの神経に良い影響を与えることが明らかになりました。しかし、それらは二次的なもので、座禅の本当の姿とは「悟りを開く方法」だと思います。ただ、後で考察しますが、ブッダが悟りを開いたのは座禅ではありません。座禅でなければ出来ない体験ではなさそうです。

それでは、悟りを開くのに「悟りを開く方法」は必要なのでしょうか。これも後で考察しますが、なくてもできるはずです。そのため、方法は絶対条件ではありませんが、ある方が有利だと思います。

■禅についての考察

以上3つの条件から死の問題を分析すると、条件1は奇しくも病気のプレッシャーによって完全に当てはまります。しかし、条件2の本物の師の存在と、条件3の方法が死の問題の環境には欠けているのです。


●コメント

闘病の現場に置き換えると師がカウンセラーです。



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闘病記の再構築 第5回

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