闘病記の再構築 第6回
後半
電車の中
図書館の多くの本を提供してくれました。パソコンで検索すれば蔵書は一目瞭然ですし、他の図書館の本でも取り寄せてくれました。大学の図書館も申請すれば入館できますし、コピーも許されました。それでも手に入らない本や手元に置きたい本だけを購入していましたので、予算はずいぶん助かりました。
週末には図書館に行って、次の一週間で読む分を借りました。はじめは一冊を読むにも数日を要しましたが、同じ分野の本は内容の重複が多いために、30冊も読めばななめ読みが可能になりました。専門用語にも慣れてくると、目を通すスピードはさらに速くなり、一度に借りる量は増えていきました。
そのようなことを3年つづけていると、禅における生死問題の解決と、闘病記の死の問題の解決との違いが明確になりました。
道元の悟りの内容は「今ここ」への気づきだと言われています。「今ここ」の「今」とは時間の今です。「ここ」は感覚です。2つを合わせた「今ここ」とは心身一如ということです。
いったん頭を休めて、「感覚」を「いのちが反応した結果」と考えてみましょう。そうすると、うれしい、悲しいは「いのちが反応した結果の味わい」と考えることができます。
私たちはうれしい味わいを良い、悲しい味わいを悪いとしますが、いのちからすれば、味わい以前のいのちの反応と、それと不可分であるいのちはその瞬間も、完全です。足りないものはなく、余まるものもありません。それで全部なのです。
私たちは食事をしていると、頭はいつの間にか他所事を考えています。それは心身一如ではありません。「ここ」から今、私が離れているのです。「今ここ」への気づきとは、今置き去りにしている「ここ」への回帰です。道元は「ここ」といのちが不可分であることに気づいたから「今ここにありのまま」と説いたのです。
それをふまえて、禅の生死問題を見ていきましよう。
『無門関』には「兜率三関」という公案があります。これは三題(三関)からなるのですが、一題解ければ残り二題も同時に解ける仕組になっています。そして、はじめの一題を解決するカギが「今ここ」への気づきだと言われています。
もう一つ例をあげましょう。江戸時代の良寛禅師は、震災にあった親類を見舞う手紙のなかで「災難にあうときには災難にあうのがよく。死ぬときには死ぬのがよい。これが災難を逃れる妙法でございます」と記しました。この言葉の真意は「今ここ」に息づく、良寛禅師なりの気遣いだと言われています。
このような例から、禅の生死問題の解決は「今ここ」への気づきにあることが分かります。しかし、なぜそれで問題が解決するのか、私には理由が分からないのです。禅の解決の要約は「今ここにあるがまま」ですが、闘病記の解決は言うなら「流れのなすがまま」です。言葉は似ていますが、腑に落ちるポイントが違うのです。そのため闘病記の解決は、禅よりも、荘子の「えいねい(万物の変化とふれあいながら安静でいる立場)」のほうに親しみを感じるのです。
●コメント
私には「分からない」ということが後のロジックの核をなします。
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