闘病記の再構築 第8回

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闘病記の検証 その1


闘病記は3つの場面に分けることができます。

Ⅰ.川の流れを眺めはじめる

Ⅱ.川を眺めていると自分のなかに特異な感覚が生じる

Ⅲ.落ち葉を目にしたときに死の問題が解決する

 それぞれを思考の制限に注目しながら見ていきましょう。


Ⅰ.川の流れを眺めはじめる

場面は闘病記のつぎの部分です。

「秋は深まって、川沿いの木は風にゆれて葉を落としていました。足もとの落ち葉をひろって指でもてあそびながら、川を眺め続けました。川の水はところどころで渦を巻きながら流れていきました。」


人は川を前にすると、そこからどんな影響を受けるのでしょうか。ある人はせせらぎやマイナスイオンに心身が癒されるのかもしれません。またある人は『方丈記』の鴨長明のように「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と、無常観が刺激されるのかもしれません。

自分ならどのような影響があるかを調べるには、実際に川に行って体感してみなければ分かりません。もし、そのときに川がなければ、「川の流れ」を「運動するもの」として、他の「運動するもの」で実験すれば良いでしょう。(なぜそれで良いかと言えば、ここからは例え話であり、ポイントは十分伝わるからです。そして、できることなら追体験して、ねらいを理解してもらいたいからです。)

たとえば、走行中の電車から外の景色を眺めていると、いつの間にか一点を見つめたようになります。そして、視界の四隅がぼんやりとした中を景色がうごくのを感じています。その状態と比べて、パソコンの初心者がキーボードで文字を入力するときには、ひとつひとつのボタンに目の焦点をはっきりとあてています。

同じ見るという行為でも、それをしている私の状態は異なっているように思います。私の主観では、電車の方は意識がぼんやりとしていて、パソコンの方はクリアです。そして、ぼんやりしている方が、深い集中に達しているようですが、表面的な思考力は落ちているように感じます。

流れる景色を眺めていると、自然とぼんやりする理由は分かりません。眺めるという行為が意識を散漫にさせているのかもしれませんし、運動するものを見つづけたことが影響しているのかもしれません。そして、それが川を前にしたときと同じかは分かりませんが、私の主観では、車窓から眺めても、川を前にしても、自然とぼんやりして思考は落ちるように感じるのです。


別の例をあげましょう。テレビゲームのシューティングゲームは、敵の攻撃をかわしながら、自分のミサイルを命中させなければなりません。ゲームが進むにつれて、雨あられの攻撃に襲われるのですが、すべての動きに目の焦点を合わせてはいけません。一つをじっと見てしまうと、他の攻撃にやられてしまいます。

このゲームを上手くプレイするコツは、車の運転時のようにポイントポイントを素早くチェックして、あと視野の周辺を使って動くものを感じるようにすることです。

ゲームが進んで、調子がでてきた頃、一度冷静になって今の自分をふりかえってみましょう。さきほどの状態になっていたことが確認できるはずです。それに伴って脳の使う部位に変化が起きていたことが確認できるはずです。しかし、プレイヤーはそれを意図的にしているわけではありません。ゲームがつくりだす状況に適応しようとした結果、自然とそうしているのです。なぜならその方が、運動するものの認識に適しているからです。

テレビゲームと、電車と、川を前にするのを同じにして良いかは分かりませんが、主観ではどれも思考が落ちているように感じます。そのため、それらを似たようなものとして、次のように考えました。

①川の流れを眺めていると自然に思考が落ちる。

②思考が落ちた状態を「運動するものの認識に適した状態」だとすれば、川を眺めていると自然に「運動するものの認識に適した状態」になる。



Ⅱ.川を眺めていると自分のなかに特異な感覚が生じる

 闘病記ではつぎの部分です。

「水は渦に巻き込まれながらも、先へ先へと流れていきます。それを見ていると、自分の中に一つの感覚がわいてきました。こういうのを何て言うのだろうと思いました。「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり。そう、諸行無常・・・」その後はなんだっけ。中学時代に、友人が得意顔で平家物語の冒頭を暗唱していたのを思いだしました。」


 およそ10年前の私は、このときに生じた感覚のことを諸行無常と表現しています。goo辞典によると諸行無常は「この世の万物は常に変化して、ほんのすこしもとどまるものはないこと」とあります。川をながめていると、そのように表現するのがぴったりな感覚が生じたということです。

 最近になってそれを再現しようと思いましたが、残念ながら再現できませんでした。そして、他に代用できるものが思いつきませんので、これ以上の追求はできません。この場面は後でもう一度とりあげます。ここではいったん保留にしておきます。



Ⅲ.落ち葉を目にしときに死の問題が解決する

闘病記では次の部分です。

「諸行無常、一切は流れてゆく・・・と胸の中でつぶやきながら、川の流れを眺めました。川は太陽を反射してキラキラ光っていました。とても静かな時間が流れていました。

 どれくらいそこで過ごしていたのか分かりませんが、気づくと足もとに枯れ葉がたくさん落ちていました。大量の落ち葉を見て、ふっとこう思いました。」

 このときに何を感じ、何を考えていたかは分かりません。闘病記は、少しつぶやいた後は風景描写になります。そのため、何も考えず目の前のものをぼんやりと眺めていたのかもしれません。

考察

 川を眺めると自然と思考は落ちると考えました。そのため、闘病記は川を見ている間は思考が落ちる流れにあり、川から目線を外したあとは回復する流れにあると考えられます。


●コメント

考える作業を進めるために「運動するものの認識に適した状態」という概念を登場させたかったのです。

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闘病記の再構築 第9回

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