闘病記の再構築 第9回

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闘病記の検証 その2



 花の香りをかぐ体験を使って闘病記を再構築しようとすれば、いくつかの疑問を明らかにしなければなりません。たとえば「人間にとって不自然な状態になるほどの思考の制限とは何か」や「闘病記のどこでその制限が生じたのか」などです。

まず、思考の制限について考えるために、ガスレンジを例にとりましょう。そして、考えることを火力でたとえると、「考える→考えない」の変化は「強火→弱火」ということになります。

では本題に入ります。思考の制限の「制限」が意味するものには「考えないの程度問題」と「考えることが不可能な状態」の候補が2つあります。かりに「考えないの程度問題」であれば、ガスレンジの最小火力で達成できるかもしれないということです。人間でいえば、思考が落ちた状態をキープしていれば、いつかその瞬間が訪れるのかもしれません。しかし、「考えることが不可能な状態」であれば、「スイッチを切って火を消した状態」や「ガス栓を閉じて本体操作では点火できない状態」が求められているのかもしれません。人間でいえば、考える仕組みに直接はたらきかけたり、燃料を断って、考えられなくなるということかもしれません。

ただ、その考え方の上に「どうすれば人間がそれを再現できるのか」「その状態で本当に一体感がえられるのか」と疑問を重ねると、たちまち手に負えない問題になります。そのため、思考の制限という問題を正面から考えても、解決できそうにないのです。


今度は問題を反対側から考えてみましょう。これまで経験した思考の制限と思われるもの(見入る、われを忘れる、眠る、軽い脳しんとうで一時的に意識がなくなる)から特定するのです。しかし、結果として一体感は得ていません。そのため、この趣旨で考えようとしても、花の香りをかぐ体験が、それらと異なるものを要求していることが分かるだけで、確かなことは分からないのです。

もしかすると、この問題は、主観に立つこと自体が解決の邪魔をしているのではないかと思います。そのために実感や経験に基づいて攻撃しても、問題の本質には届かないのかもしれません。つまり、徒手空拳の私にはどうすることもできないということです。



自力で解決する道が断たれたかもしれない後、この領域にはどのようにして切り込めば良いのでしょうか。しばらく、先達の考えにヒントを探してみましょう。


 物理学者のデイビット・ドイッチュは『説明を説明するための新しい方法』のなかで、「現実についての変えることの難しい説から成り立つ事実」がそのための新しい方法だと言いました。

その例として「今まで誰も聖書をみた者はいない」と言うのですが、私の経験では、その説明は正しくないように思えます。たとえば、大型書店であれば聖書を購入することは可能ですし、古いビジネスホテルにもなぜか置いてあります。私はそれを手にとってページをめくった記憶があります。宗教画と横書きの文章。そのときの私は聖書を見ていないのでしょうか。

この疑問に対して、ドイッチュは答えます。「私たちの知覚の機能とは、脳に届いた光の刺激を、脳が構成したものを映像として見ています。光そのものを見ることはできないのです。」つまり、私は脳が構成した聖書の映像を見ていたのです。人間の認識の機能では聖書そのものを見ることができないのです。このように知覚機能という変えることの難しいものを根拠とすれば、「今まで誰も聖書をみた者はいない」という主張は正しくなるのです。

さらにドイッチュはつつけました。「そこにあるけれど目に見えないものが、目に見えていることの原因である。」極端にいえば、私がビジネスホテルの机を開けたとき、そこには目に見えない聖書と見える聖書の2つあったのです。しかし、私が戸惑うことなく、手にとってそれが聖書だと分かったのは、見て触れて読むことのできる聖書が一つだからなのです。


私がこの考え方をすることは難しいのですが、これであれば手に負えない問題を追求できるかもしれません。



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