闘病記の再構築 第11回
脳神経学 その2
合一体験の正体が求心路遮断であれば、科学による分析とは何とも味気ないものです。ロマンのかたまりの合一体験でさえそうなのですから、恋愛による心のときめきも例外ではいられません。しかし、人は分析のみで生きていません。体験から生まれた豊かなものに人生は彩られているのです。
さきほど紹介した『脳はいかにして〈神〉を見るか』では、ニューバーグは先人の研究にふれて、動物の求愛の儀式が互いの神経系に与える作用についても注目しています。
普段は自己防衛本能の命ずるところにしたがってお互いの接触を避けている蝶たちにとって、求愛の儀式から交尾に至る過程は、われわれが考える以上に特別な意味がある。二頭の間に根源的・調和的な理解が生じ、接触が可能になったのは。求愛のリズムが彼らの神経系を音叉のように「共鳴」させたからだと言えるだろう。彼らが共有している目的と、共鳴がもたらす感覚とがあいまって、自己防衛本能を超越して接触することを可能にし、自分の遺伝子を受け継いだ子孫を残すという、単独では決して得られない利益を獲得させたのだ。
儀式的行動は、このようにして、原始的な動物の遺伝子の中に根づくことになった。彼らの儀式は複雑で厳密だったが、動物の神経系が進化して複雑になるほど、儀式は単純で柔軟なものになっていった。例えば、ネコは、蝶よりはるかに洗練された方法で仲間を見分けることができる。それでは、高等な動物は、儀式が誘発する神経学的な共鳴を利用して自己を超越することなど不要になったのだろうか?そんなことはない、研究により複雑な神経系を持つ儀式的行動においても、こうした共鳴が重要な要素となっていることが確認されている。動物たちは、儀式以外の場面でも、リズミカルな相互作用を繰り返して行うことがあり、それによって大脳辺縁系が活性化することが知られているが、このような変化は、同種の動物たちの間でしか起きないのだ。このことは、彼らの間で何らかの神経学的な共鳴が生じていることを示唆している。
リズミカルな運動のくりかえしは、神経系を共鳴させ、親密さや一体感をうみだす作用があるそうです。しかし、その現象は同種間でしか起こらないということですから、人間と川との間でも起こると考えるのは無理がありそうです。
そこで考え方を少し変えて、それに代わるリズムは川には存在しないのでしょうか。たとえば、人間の内、動物としてのヒトの内、生きて死ぬライフサイクルの内。川の内、水が流れるという運動の内、というように物事を細かく分解する視点。または、両者を自然の一部として物事の外に目をむける視点。そのように切り口を変えても、最大公倍数、最小公約数的な一致によって、人間の神経系を刺激して一体感を生みだせるリズムは自然界には存在しないのでしょうか。そして、そのようなリズムに共鳴する神経系は、人間には存在しないのでしょうか。
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