加藤三郎の生い立ちから現在までのストーリー
自己紹介
編集
長い自己紹介になります。
私の場合、この程度の長さで書かないと、自己紹介にならない気持ちがあり、あえてこうしました。よろしくお願いします。しかも未完成です。
1、私の生い立ち
私は現在生活している、岐阜県加茂郡七宗町神渕というところに
昭和23年7月25日に生まれました。
父は天理教の教会長や、後にはPTA の会長、町会議員になるなど
その地域では良く名の知られた、 いわゆる良い家柄の長男として生まれ育ってき
た人でした。
しかし、私がかなり幼いころから父と母の折り合いが悪く、 家庭は暗いものでした。
短気な父は、自分の舌に会わないような食事が出されると
そのお盆をひっくり返して怒るような人でした。
母は子供には優しい人でした。 その母をつらい目に合わせる父に対する憎しみの
ようなものを
私は育てていきました。
その父が天理教の教会長であったり、
PTAの会長であったり、町会議員であったりすることから
私は大人の社会がとんでもなくおかしなことになっているという感 じを抱きました。
中学生になるころはですが。
一方で私は幼いころから買い与えられた、 天理教の教祖中山みきという人が
病や心の病気などで苦しんでいる人を、体をさすったり、 話をしたりして
回復させたりしていたこと、財産を売り払って貧困な生活を始め
貧に落ちきらなければそういう人の気持ちはわからないとか言いつ つ
貧しい生活をしながらその信仰生活を持続して行き
政府などの弾圧にも屈することなく教えを貫いたことなどに
とても心を動かされて育ちました。
そういう中山みきの生き方への共感が
私の人生観の土台をなしたと思います。
2、反戦運動への参加から過激な武装闘争の実践まで
こうした私は、思秋期特有の性の目覚めに苦悩する一方
高校生のころから反戦運動に参加しました。
当時はアメリカがベトナムに軍隊を送り、
ベトナムの民族解放戦線の人たちなどとの戦争をしていました。
私はアメリカのそういう介入が許せない気持ちになりました。
そして高校を卒業すると同時に、 近所の朝鮮人の土木の請負師に下で働くように
なりました。
そういう生活の中で、彼ら在日朝鮮人が、 全く無権利状態に置かれていることを
知り、
日本と朝鮮の歴史的な関係を知っていく中で
日本のそういう政策に対して強い批判を抱くようになりました。
当時の若者の中でもそういう意識が高まり
日本と朝鮮の歴史の再検討の機運が高まっていきました。
そういう中で私は思想を過激化させ、 日本の朝鮮や中国に対する侵略史の問題を
またその根拠となっていた天皇制の思想を、 根本的に批判しなければ
日本社会がまともな社会にはなり得ないと考えるようになりました 。
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