加藤三郎の生い立ちから現在までのストーリー

3 / 10 ページ

その中で、 21さいころの激しい失恋の悲しみが私の体から噴出して泣き叫ん だり

また治療室で一人で、 幼少期の家庭の暗さから来る悲しみを噴出させたりしました。

プライマル療法という療法でした。

治療室に一人座り、おっかー、おっとー、 喧嘩やめてくれーなどと叫び始めると

あとは体からそのときの悲しみは後から後から噴出してきてとまり ませんでした。

1時間ぐらいそぷして泣き叫びました。

こうして私は、当時は心理療法的な考え方から、 自分の誤りを自覚し考えていく

ようになりました。

4、私の思想と闘争の誤りに自覚と、自分を見つめる作業の深化、 その2

そういう中で1983年私は警視庁に逮捕されました。

そして1983年末ころから東京拘置所に収監され、 裁判を受けました。

裁判は最高裁まで争い、 1989年8月ころに懲役18年の刑が確定しました。

被害者の人々は十数人いましたが、 重症の人はなかったことなどから

無期刑は避けられ他のだと思います。

ところでその裁判の間、 私は東京拘置所にいて多くに人にその罪を犯したありよ

うを見つめなおすことに必要性を訴えている

飯田博久さんという人に出会いました。

彼は、3人の人を殺して、1審で死刑判決を受けたものの

2審で無期刑に減刑された人でした。

そしてその裁判を受ける過程で、 支援してくれていた心理療法士らから

自分が人を殺したことをどう捕らえ青しているか聞かれ続け、

殺さなければボスから殺されたから仕方なかった、 と始めは答えていたものの

自分史を綿密に文章化して捉えなおしていくうちに

自分が自分の意思で主体的な選択として殺したのだ

命がけでその指示に逆らうという選択だってあったのだといったこ とを自覚するに

いたったそうです。

そういう飯田さんと親しく文通するさまになり、 私のそれを勧められましたが

なかなかそうしませんでした。

しかしそのころ私は、 獄外の支援者が発行していたパンフレットなどの場を借りて

かって同じような思想の元に爆弾闘争を実践し、 そのころもそれを正しかったと

主張している人たちとの間で

激しい論争を繰り返していました。

私にとってはあのような行動と思想は根本的な誤りであり

それを自覚した私は、 彼らもそう自覚してくれるよう働きかけるのが使命だとか

思っていたりしたのです。

しかし私は彼らが私を批判する文章を見たり

彼らから直接そういう手紙が着たりすると、 ぶるぶると体が震えるような怒りを

感じました。

そういう自分をおかしいと思いつつも

まだ自分をもっと深く見つめようとはしませんでした。

そして1987年ころ私の控訴審で、当時籍を入れていた女性に

私の減刑のために証言してもらうことにしました。

しかし本当は私は彼女を愛しておらず

ともかく1年でも早く出所したかったので、 彼女にそう頼んだのです。

しかし、その裁判の席で、彼女は裁判官から、 減刑のための結婚ではないかと問

い詰められたりしました。

私はその証言の裁判が終わってから、裁判官に対して、 いや理想の結婚だという

意見書を書こうとして

何か自分がとんでもない醜い人間になっているのを感じました。

そしてもう、 こんなに醜い状態から変わりたいと切実に望みました。

ストーリーをお読みいただき、ありがとうございます。ご覧いただいているサイト「STORYS.JP」は、誰もが自分らしいストーリーを歩めるきっかけ作りを目指しています。もし今のあなたが人生でうまくいかないことがあれば、STORYS.JP編集部に相談してみませんか? 次のバナーから人生相談を無料でお申し込みいただけます。

著者のKatou Saburouさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。