金融バブルの星屑 その3 はじけたバブル

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そのニュースは唐突にやって来た。準大手証券三洋証券の破綻。都内に大規模なディーリングルームを建設して積極経営をしていたはずなのに。しかしこれは序章に過ぎなかった。

1980年代は日経平均株価が38,915円87銭の最高値で大納会を終えた。

年を明けて1990年代に入ると不動産価格の加熱を懸念した大蔵省が総量規制を開始。

また湾岸戦争による原油価格の高騰もあり、土地価格及びに株価の暴落が起こった。

所謂、「バブル崩壊」である。


株価は9ヶ月でほぼピークの半額の2万円割。

土地価格は東京・大阪の大都市圏では1990年の秋頃から下落に転じ、地方では更に一年程の期間を経て全国的な地価の下落に繋がって行った。土地価格は1990–2002年で1,000兆円が失われたと言われている。

但し、この時期投機に手を出していた一部の人を除いて景気の後退をシリアスに捉えていた人は少なく、金融機関も「潰れる事は無いさ。」と高を食っていたところがある。

そして不良債権の隠蔽、「飛ばし」に手を染めることになり、大蔵省の護送船団方式の放棄により、一気に金融機関の破綻へと繋がっていった。

その一方で、前出の様に各金融機関は「生き残り」の為に不動産融資に代わる新規貸出先の開拓にひた走っており、「現場」では前と変わらない忙しさが続いていた。


東洋一のディーリングルーム、東京証券取引所よりも大きなものを開いた三洋証券も破綻に結びついたのは株価の低下という要因もあったが、系列のノンバンクによる不動産投資が致命傷担った。

次いで大手証券の一角であった山一証券、都銀最下位の拓銀が相次いで破綻に追い込まれていった。

そして遂には日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の2行が破綻認定されて国有化されることとなった。


背景にはBIS規制の強化、アジア通貨危機をトリガーとしたジャパンプレミアムの発生と市場からの資金確保が困難になったことがあった。

かつて「ザ・ホウギン」と英語でも言われた日本の銀行がマーケットから「ノー」と言われだしたのだ。正に金融バブルのの終焉を迎えようとしていた。


資本増強をする為に生損保から積極的に劣後ローンを調達していたが金利負担は重く、一段の解決策が求められていた。

あたかも昭和30年代の「海運再編」の様に銀行同士の合唱連携が公的資金、簡単に言うと税金投入の前提となってきていた。

まず単独での生き残りの展望が無くなっていた東京銀行が三菱銀行、三菱信託銀行、日本信託銀行の三菱グループ各行と三菱東京グループを形成。後に三和銀行と同グループの東洋信託銀行、東海銀行が統合したUFJグループが救済的に加わり「三菱東京UFJグループ」となった。

次いで総会屋への利益供与で信用を失墜してしまった第一勧業銀行と、山一証券の破綻でダメージを受けた安田信託銀行を親密行としていた富士銀行が接近。ここに興銀が加わり「みずほファイナンシャルグループ」が誕生した。

そして三井銀行と太陽神戸銀行が合併してできていた「さくら銀行」と、積極融資でふりょうしさんを膨らませていた「住友銀行」が一緒になり、「三井住友ファイナンシャルグループ」が確立された。


これらの金融業界での動きは旧来の財閥系列の繋がりを形骸化させることにつながり、特に住友グループと三井グループの同業会社の合併や、新日鉄と住友金属の合併など系列を超えるものへと繋がり、産業界での合唱連携の動となっていった。


私自身は2000年まで財務課長の席にあり、変貌を遂げて行く銀行、及びにその行員達の姿を見守っていたが、2000年9月末にシンガポール現地法人への業務移管立上げの為に赴任した為、メインバンクであった住友銀行の三井住友ファイナンシャルグループ化はその地で迎えることとなった。

むろんシンガポールでも住友銀行シンガポール支店が取引行であったので、行名の変更、人に異動も目にしていた。


それでは次に金融バブルに翻弄された人達の話をすることにする。



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