英検1級、京大数学7割をとり、京大医学部に合格させる方法
「勝手に滅びろ!」
私は、手を貸してくれなかった人たちを恨み、呪いの言葉をはいていた。
人は親子でさえ、なかなかうまくいかない。バツイチになった私は夫婦でもうまくいかないことを知っている。ましてや、他人で「絆」が結べるのは一生に何人いるのだろう。
そういう現実を知っている塾生の子たちは
「また、学校の先生がきれいごとを・・・」
とバカにするのだ。
A子ちゃんは家庭環境にも、経済的にも恵まれていなかった。多くの生徒は、過酷な環境に置かれるとグレるか性格が歪む。しかし、彼女は厳しい環境を自分を育てる肥やしにできる稀な子だった。
「政策金融公庫と奨学金と私のバイトで何とかする」
そういうA子ちゃんだった。そして、ある時ボソっと
「お母さんが生命保険を解約するって・・・」
と小さな声でつぶやいた。
第五章
「うまいウナギ丼」
離婚後の食事はコンビニおにぎりが主食だった。
ところが、成績開示をしたら通信生や通塾生が増えて、合格実績はどんどん上がっていった。個人指導の高校生も増えてきて、歯車が良い方向にまわり始めていった。
ウナギ丼は限りなくウマイ。コンビニの死んだ食べ物ばかりで身体が悲鳴をあげていた。生きた食べ物を身体が求めていた。温かい食べ物を身体が求めていた。生き物の本能を抑えることはできない。
女性と関わるのは、もう懲り懲り。自由な発想ができないと、ビジネスはうまくいかない。ビジネスがうまくいかないと罪の無い子供たちが飢えてしまう。
私は、奥さんが敵にまわるとは想像もできない迂闊な男だった。今は子供たちも独立し、そろそろ自分の夢を再開するつもりだ。
A子ちゃんは、貴重なお金を塾に提供してくれるのだから、リキを入れないわけにはいかない。損得勘定などなかった。何としても合格してもらわなければならなかった。彼女が多くの患者さんを救うことは間違いない。待っている人がいっぱいいる。
私は中学・高校時代を通じて、A子ちゃんと言えばジャージと思っていた。たまに制服で来てくれたけれど、女子度はゼロ。可愛い髪飾りを付けるでもなく、フリフリの洋服を着るでもない。もちろん、髪振り乱して勉強ということはなく、清潔にしていたけれどファッションに時間も金もかけるヒマはなかった。
A子ちゃんには、私がバツイチになったことを話していた。A子ちゃんが、自分の事情を話してくれたのは、私が全てオープンだったからだろう。私が公私共に一番キツイときに、A子ちゃんもキツイ状況だった。戦友のようなものだ。
怒涛のような10年間だったが、今はA子ちゃんに匹敵するような通塾生が何人もいてくれる。通信生は、北海道から鹿児島までいてくれる。合格実績は、以下のような状態で、経営は安定した。
今日のお昼は、ちょっと奮発して、錦のウナギ丼でも食べるか。
合格実績(高木教育センター)
2016年度(7名) 京都大学「医学部」、京都大学「理学部」、大阪大学「人間科学部」、名古屋大学「経済学部」、名古屋市立大学「医学部」、神戸大学「経済学部」、御茶ノ水大学「理学部」
2015年度(6名) 京都大学「経済学部」、京都大学「総合人間学部」、東京医科歯科大学、大阪大学「外国語学部」、東工大、名市大「薬学部」。
2014年度(4名) 京都大学「医学部」、大阪大学「医学部」、京都大学「工学部」、三重大学「工学部」。
2013年度(3名) 京都大学「医学部」、名古屋大学「医学部」。京都大学「経済学部」。
父は、滋賀大学を受けて落ちたと亡くなる直前に話してくれた。息子がこんな仕事をしているから、話しづらかったのだろう。戦争の混乱の中で、結局大学に行けなかったらしい。
その無念さが、ウザいほど私の仕事に口を出してきたのだと思う。自分が父親になって、分かったことが多い。「ありがとう」と言いたいが、遅すぎた。
初孫が生まれた。父に見せてやりたかった。
京大を受けてから10年。宇宙時間では、うたかただろうが、人間には長い。A子ちゃんは、立派な社会人になって働いている。もう結婚しただろうか。
番外編(1)
「崩壊前夜までのこと(数学)」
最初に
「ボクは数学が苦手なのだろうか?」
と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。
当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。
点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
「もうボクの頭には入りきれない」
と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、
「こんなのありえない!」
とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、
「証明できないと、使う気になれない」
というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。
2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、
「お父さん、ボク変だ」
と叫んだ。二階に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て
「お前、何をしてんだ」
と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。
病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら
「アレ?高木くん、どうしたの?」
と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。
診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには
「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」
とのことだった
「崩壊前夜までのこと(英語)」
最初に
「何かおかしいぞ」
と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。
「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」
と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに
「なんで私の授業を中断するのかな?」
と相談したら
「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」
とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。
not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。
アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。
もはや、高校生の時のように
「頑張って勉強しないと」
と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが
「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」
と言う。それで、
「どういう意味?」
と尋ねると
「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」
と笑っていた。
しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。
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