一番星

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 私は恋人のために、ゆっくりと、慎重にカフェオレを作った。真っ白の生クリームを沸騰する直前でとめ、濃く淹れた真っ黒のコーヒーに一対一で混ぜ合わせる。豊かな、ゆるりとした色のカフェオレ。

 

「うん。ほっとした。」

 私は両親の死に対する「ほっとした」と、カフェオレの成功を祝う「ほっとした」を、心の中で掛け合わせて、どうでもよさに腹で笑った。

 ありがとう、と恋人はカフェオレを受け取り、角砂糖をぼとんぼとんと二つ入れた。黒糖の、私たちのお気に入りの角砂糖。

「よかったね。」

 そんなことを平気で言う恋人も不謹慎だ。だけど真意がわかるので、私だって平気だ。

 

「やっと君らしく、生活ができるんだろう。」

 

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 恋人が帰ったあと、私は

「もういいよ。」

 と言った。

 かさこそと、トトロのまっくろくろすけのように、孤独と絶望は姿を現した。

「さびしかったでしょう。」

 私は恋人の痕跡を跡形もなく片づける。アルコール消毒までする。

 孤独は私に寄り添い、絶望はリラックスしている。

 彼らとは、もう二十年近く一緒に生活をしていて、兄弟のような、家族のような、それでいて恋人のように大切な存在だ。

 孤独は私が一人でないと知ると寂しくて消えそうになるし、絶望は私が満ち足りた気持ちでいると絶望のくせに絶望する。

「大丈夫よ。私は、なんにも、どこにも属していないし、誰のものでもない。たったの、ひとりぼっちの、ほんの端くれだから。」

 ソファに座って、私は見えない孤独と絶望に語りかける。

 

 壁には絵が飾ってある。つばの広い、大きなリボンのついた白い帽子を被っている幸福な少女が、群青色の背景と深みのある花に囲まれて、こちらを見ている。

「ねぇ、あなたも思うでしょう。」

 私はこの少女に、よく語りかける。

「今の彼、どう思う。」

 少女は困った顔をする。

「前の彼よりは、ましだと思わない。」

 私はかまわずに、だって、と続けた。

「だって、私のこと、まったく理解していないのよ。理解していないくせに、理解した気でいるの。」

 かわいい。

 そう言って、私はウォッカを飲む。

 かわいいわ。

 そして、ばかばかしい。

 なんてつまらない人間。生きていて楽しいのだろうか。あんなやつ。

 

 後ろを振り返って、今度は初老の、杖をついたおじいさんの肖像画を見る。

「ねぇ、今日は何の歌がいい?」

 私はおじいさんに向かって笑いかける。

 おじいさんの生きた時代はいつかしら。ねぇ、大正よね。違うかしら。浜辺の歌を歌ってあげる。

 そう言って、明らかに中世の北欧出身だと思われるおじいさんに向かって、かまわず私は浜辺の歌を歌う。

 

 けらけらと笑って、私はそのまま眠りにつく。

 明日はどんな一日にしようか。

 毎日を「その日暮らし」にしないといけない命令は、私の体のすみずみにまだ残っている。

「今日は昨日の続きではないし、今日を明日に持ち越すな。」

 だけど私は一年後や十年後も生きなくてはいけない。そのためには、毎日を連続させなければ、計算が狂ってしまう。

 計算が狂いそうになるたびに、私は酒を飲む。

 今日の恋人の来訪は、最悪だった。

 

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 春。

 春なのに、春と言えば桜なのに、私は今年も桜を見逃した。この国に生まれたのに、私はその要素を使いこなせないでいる。気づいたら、全部青々とした緑でいっぱいなのだ。

 ミニチュアのダックスを連れて、私は散歩をしていた。散歩というより散策だ。私はいつもすべてを一日にして忘れてしまうので、毎日が新しいのだ。新しい景色だなぁと、不思議なものを見つめるように歩く。

 ダックスが、もう十分、という目でこちらを見てくる。

「あら、なんてやる気のない子なの。」

 私は仕方なくダックスを抱いて、家路につく。

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