一番星
「今までで、一番泣いたことはなに。」
私はすぐに答えた。
「中学生の時。一年生の時の、夏休みの宿題。ローマ字のプリント。ローマ字を美しく書くことが正しいことならよかったのよ。だけどね、問題は、『友達の名前』をローマ字で書きなさい、という課題だったのよ。」
彼はひどく驚き、私以上に悔しい顔をした。
「ひどい宿題だね、」
そう、と私は続けた。
「友達がいることを前提とした宿題って、酷なことだと思わない。せめて、たとえばジャパンとか、アメリカとか、パブリックなものだったらいいと思うのよ。どうして、友達というものが、大切で、大切なものを認識させるためのツールに、友達を持ち出すのかしら。学校は、ひどいわ。」
私はぼろぼろと涙をこぼしながら答えた。
私に孤立を与え、孤独をそのまま温めるような学校で、私はその課題に絶望した。
たったその一問をこなすのに、何時間泣いただろう。たった十三歳の心では、受け止めきれなかった。なんてひどい。なんてひどい。
なんて、なんてひどいの。
10
私は今日もウォッカを飲みながら、なぜかきちんと、北欧の歌を歌った。知りもしない歌。知りもしない言語。なのに、歌った。
おじいさんと、お別れしなければならなかったからだ。
初老のおじいさんは、初老というだけあって、もう寿命が短かった。だから私は別れの歌を歌ったのだ。
その一時間後、おじいさんは静かに息を引き取った。
そっと額縁をはずし、額縁によって隠されていた一枚の写真を見て言った。
「久しぶり、お父さん。」
父は写真の中に閉じ込められ、出してくれ、出してくれ、と叫んでいた。私はそれを無視してカッターをちちち、と出し、
「うるさい。」
と言って、引き裂いた。
12
「君は、何を奪われたと思う。」
私は少し考えた。奪ってくれなかった、与えられた、とばかり考えていたけれど、奪われたものについては、考えたことが無かった。
「わからないわ。何も奪われていないのかもしれない。私って幸せね。」
私は答えた。
彼は違う、と言った。
「君は、すべてのものに、君自身を奪われた。君は、君を失ったんだ。」
私は、久しぶりに大声を出した。あああ、と。あああ。あああ。うあああああ。
もう取り戻しに行くことのできない私を思って、泣いた。残っていない私の大事なすべて。私という誇りのすべて。残った、パン屑のような、がらくたの自分。
だれか、だれか私を助けてよ。
13
幸福な少女は、もうすでにわかっていた。
私が少女に向かって、まっすぐと立ち、まっすぐに少女を見つめると、少女は頷いた。
いいよ。ごめんね。と、瞼を閉じた。
私は持っていたガラスの花瓶で、幸福な少女を叩き割った。何もかもが粉々になるまで無心で叩き壊したので、自分の手も足も血だらけになった。
そして、額縁の裏に隠された、一枚の写真。
それはすでに、ガラスの破片によって、真っ二つに切り裂かれていた。
「ばいばい、お母さん。」
14
孤独と絶望は、私を恐れるようになった。
誰も彼もが、私を恐れている。
私は涙した。
みんなどこへいってしまったの。
みんな、どうして私をひとりにするの。
恋人がやってきた。
ぼろぼろの、めちゃくちゃの、何もかもが粉々の部屋を見て、真っ先に言った。
「この粉々は、あなたの心かな。」
私はぺたんと座りこんで、ウォッカを飲んでいたところだった。もう何本目かわからない。
「星になりたいだけなの。」
私は言った。か細い声で。
「星になって、どうするの。」
「わからない。」
「一番星になってもらわないと、星は数が多すぎて、ぼくは見つけられないよ。」
彼はなぐさめるように、私の心の破片を探しながら言った。
「私は星になっても、はやくはやくって、急がなくちゃいけないの?」
彼は手を止めた。
「だって、一番星って、最初に光らなくちゃいけないんでしょう。数ある星の中で、いっちばん最初に光った星だけが、一番星になれるんでしょう。誰よりも早く、誰よりも速くって、ずっと競っているのよね。私は一番星にならないといけないの。」
「ちがうよ。ならなくていい。ぼくが悪かった。」
彼は戸惑った顔で言った。
「私は、星にもなれない。」
彼は、私から最後の希望を奪ってしまったことに気づき、そのままへたりこんでしまった。
行き止まりだ。
もうどこにもいけない。
もうじき夜が明ける。
私は眠りについた。
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