ユーミンを聴きながら、自転車をこいでいた

著者: キョウダイ セブン

 「ユーミンを聴きながら、自転車をこいでいた」

  英検1級や、京都大学でボーダーを越えたい人は想像以上に多いようです。ネットで「50代で京大を7回受けて英語8割、数学7割とった」と、成績開示つきで公表したところ、多くの方からメールを頂きました。ありがとうございます。

  その多くは「どうやって勉強されたのですか?」という質問でした。

 第一章

「尾崎紀世彦さんと、北勢中学校と四日市高校」

 中学二年生までは、体操に夢中になってバック宙やら大車輪やらをマスターするため練習に励んでいました。勉強はオマケ程度でした。

私は中学校から英語を始めました。当時は、小学生の英会話教室など近所にありませんでしたから。三重県の北部にある北勢中学校で英語を始めました。高校受験前は英語が一番苦手で担任(英語担当)に「英語にもっと力を入れるように」と、説教されました。

 夏休みに英語の「ガリバー旅行記」を読んだ頃から少し興味が増して英語の得点も上がっていきました。結局、三重県の四日市高校に合格できたくらいなので、田舎では英語が上手だということだったのでしょう。大したことはありません

 よく尾崎紀世彦さんの「また会う日まで」を聴いていました。

 ただ、学校の宿題はバカバカしいと感じて「これやらないでいいですか。自分で選んだ問題集をやりたいですから」と学年主任に直訴したり、勝手にクラブを自主引退したりしたため「おまえにクラブを語る資格はない」と担任に言い渡されました。

 四日市高校では、往復3時間くらいの電車通学でした。電車の中では数学はできないので、英単語を覚えるしかありません。高校二年生の段階で、文系の科目の合計点が理系の合計点より上になったので、名古屋大学の教育学部を受けるしかありませんでした。校内で50番くらいで、パッとしませんでした。

 学校で言われた単語帳や問題集をやっただけで、特別めずらしいことをやってなかったので、当たり前かもしれません。

 Yくんが、数学の問題を解いている私の横に来て「それ、そんなやり方ではないよ」とバカにしてきたので、ビンタを張ったら「痛ぁ、なにすんの?」と逃げて行きました。

 「英語が話せたらカッコいいなぁ」程度の動機づけで勉強していたのですが、いま思うと両親に支えてもらっていたと痛感します。何不自由なく勉強させてもらったのだけれど、バツイチになって同じことを娘たちにしてやれなかった。生きているうちに、父に「ありがとう」と言いたかったです。

 でも、世の中は高度経済成長の時代だったから、イケイケドンドンというか日本中に活気があふれていた様に思う。

第二章

「ユーミンと、名古屋大学時代」

 大学の前半は少林寺拳法に夢中で、「テレビジョッキー」に出て、ジャッキーチェンの前でヌンチャクなど振り回し、白いギターをもらいました。

一方で、大学では語学センターに通い、夜はECCに通い、家ではリンガフォンをやり、考えられることは全てやったように思う。でも、どれもスキットを暗記するという方法論は同じで、進歩が感じられませんでした。

 結構秀才だった自分がこれだけやっても頭の中にいくつかスキットが蓄積していくだけで、英語が身に付いた感覚は持てなかった。ちょうど、オウムが人間のマネをして話している感覚といえば分かってもらえるだろうか。

 自分の意思で英語を話している感じがしなかった。

 その頃は、大学で学んでいた教育学や教育心理学に絶望しており「こんな学問では食っていけない」「こんな学問に一生を賭けるのはイヤだ」と思い始めていました。

 いつもは学歴などどうでもいいと言っていた教授が、酔っ払うと「オレ様は東大出だぁ!」だもの。呆れかえってしまった。

「英語で食っていくしかない」と思いつつも、まったく身につく気がしなかった。ただ、夏休みに初めての海外旅行を経験した。行き先は、アメリカのユタ州。私は煙草も酒もやらないので、厳格なユタ州に割り当てられたらしかった。

 そこの経験があまりに強烈だったので、「いつか必ず、もう一度ここに来たい」と思った。ユーミンの「あの日にかえりたい」が好きでした。

 大学時代は、三角関係に悩まされ「二度と、女性にふりまわされるのは御免だ」と思いました。

第三章

「まちぶせと、サラリーマンは気楽なカギョウときたもんだ」

 2年間のサラリーマン時代(塾講師)は仕事に追われて、英語の勉強など出来なかった。ただ、社長とトラブルになった時、「おまえの代わりなどいくらでもおるんやどぉ!」と言われ、もっともだと思いました。

「やはり、特技がないと大事にされない。いつでも切られる」

 残る選択肢は、アメリカに渡るくらいしかありませんでしたが、お金はないし、方法も思いつかない。それで、アパート代を浮かすために実家にもどり本業以外のアルバイトも掛け持ちでやり、お金を貯める一方、できるだけ公的なプログラムで行くため(費用が安い)片っ端から試験を受けまくりました。

 その中で、インターンシップというアメリカで中学教師をやるプログラムにひっかかった。私が英語検定2級を持ち、少林寺拳法二段なので、アメリカで日本文化を紹介できると判断されたようでした。

 石川ひとみさんの「まちぶせ」を聴きながら運転していました。

第四章

「オリビアと、プロボとローガンと」

 それで、1982年の1年間、アメリカのユタ州立ローガン中学校で教師をすることになった。26歳のときでした。帰国したら、失業し、貯金はゼロになるのだから、かなり悲壮な決意ではありました。

 ユタ州には、USU(ユタ州立大学)の留学生以外は、町に日本人はいません。だから、英語で生活する以外ない。学校でも、教員が日本語を分かるわけもなく、中学生たちは難民の子以外には、アジア人など珍しかったに違いない。

 私は、その難民クラスで英語を教えたり、社会の時間に日本の紹介をしたり、体育の時間に少林寺拳法を紹介したり、ボーイスカウトに参加したり、本当にいろいろ経験できました。

「原爆落としたら、ヒロシマの人たちは怒った?」

 という質問にはビックリして、うまく返事が出来なかったですが。

 また、末日生徒イエスキリスト教会には、日本からの帰還宣教師がかなりいて、あちこち連れて行ってもらった。プロボのBYU(ブリンガムヤング大学)には、MTC(宣教師トレーニングセンター)があり、日本語を勉強している若者に会わせてもらいました。

 アメリカの給食のオバサンの中に、もと日本人がいた。40年以上アメリカに居るとのことでしたが、その英語はナマリが酷いものでした。「40年アメリカにいても、この程度なんだ」と分かり「よほど頑張らないと、英語は身につかない」と実感させられました。

 それで、夏休みに中学生に混じってタイプの教室に参加し、必ず毎日英語で日記をつけることにしました。3ヶ月ほどしたら英語で夢を見るようになり、半年くらいして日本に国際電話をかけたら「おまえ、日本語の発音が変だぞ」と言われました。

 日常会話の中で知らない単語を聞いた時は、必ず「今のーーと言う単語はどういう意味だ?」と聞きまくりました。そして、メモをして帰宅後に辞書で意味を確認しました。それぞれの単語の意味が、どういう状況で使われたのか記憶に刻み付けていったのですが、周囲の人には迷惑だったと思います。

 授業中に、受験英語で覚えたような難度の高い講文や単語を使うとネイティブに授業をストップされて「今、ミスタータカギの言ったことはね」と解説が始まる始末だったので、出来るだけ現地の英語に切り替える努力をしました。

 つまり、中学レベルの単語と講文で難解な内容を表現するようにしていったのです。帰国の途中で、シアトルの空港で中国人と会話を楽しんだのですが、友人に「タカギくんは、中国語が話せるの?」と尋ねられて「そんなわけないだろう。アレ?ボクは今何語を話していたんだ?」と思った。無意識に使えるほど、英語が身についていました。

 当時は意識していなかったけれど、いま思うと、同居させてくれたブレアーさんは戦中派。よく敵国だった日本の若者を受け入れてくれたと感謝しています。

 また、多くの帰還宣教師たちに言葉で言い表せないほどお世話になりました。彼らがいなかったら、私はあんなに充実した生活をすごすことができませんでした。

第五章

「河合塾学園で教えるまでにやったこと」

 自信満々で帰国したのだけれど、名古屋の有名な塾、予備校、専門学校に履歴書を送っても返事はありません。それで、「やはり、形にしないとダメだな」と思い、英検1級にチャレンジすることにしました。

 でも、過去問を見たらギョッとしました。なぜなら、大学受験のときに入院騒ぎを起こしたくらい拒否感のあった古臭い英語が並んでいたからです。漢検1級の過去問を見たことが、ありますか?「生まれて一度も見たことがない」漢字の羅列です。おそらく、これから死ぬまでも使わない漢字たち。そんなものを覚えてなんになるのだろう?

 これは、一緒に英検の過去問をやっていたネイティブも同じことを言っていたので、あながち間違いではないと思う。

 とにかく、雇ってもらう目論見は木っ端微塵に砕けたわけなので、自分の塾を開校するくらいしかなくなりました。それでも、昼間の非常勤講師のために英検1級の過去問をやり続けはしました。

「こんな英語ペラペラの人間が合格できなかったら、試験の方がおかしい」

 結局、過去問を5回やったところで合格できました。名古屋の河合塾学園などで、昼間教えることになった。それで、ついでに通訳ガイドの国家試験に挑戦しました。ハロー通訳アカデミーの通信生になって勉強しました。その指導法は、自分の塾を改善するのに大いに役立ちました。

 他にも、ビジネス英検A級、国連英検A級、観光英検1級にも合格できました。

第六章

「京都大学の二次試験で8割をとるまで」

 その後、塾も順調、昼間の仕事も順調なバブルの時代でした。しかし、生徒が「高校生になっても教えて欲しい」「高校の数学も教えてほしい」と言い出しました。

 それで、「先生は、ネイティブ英語、資格英語だけでなく、受験英語でもスゴイんだぞ」ということを示すために、京都大学を受けて成績開示することにしました。

 英検1級のときに、過去問を5周したら合格したので、数学も「オリジナル」「1対1」「チェック&リピート」を繰り返し、それぞれ2周しました。Z会8年、京大模試10回、センター試験を10年連続で受けて、京大二次に臨みました。英語は8割、数学は7割という結果でした。

 この時期は、子供たちの存在が大きい。彼女たちがいなかったら、私はこんなに頑張れなかった。それに、世の中はバブルではしゃいでいた。おかげで、塾や家を新築して融資も返済できた。ラッキーだったと思います。

最終章

「今、2016年度」

 結婚する時、「塾講師なんぞに娘はやれん」と言われ、銀行に融資を頼んだら「個人塾になんぞ融資できん」と言われ、ホームページの作成を依頼したら、やんわり「そんな予算では引き受けられない」と拒否されました。大企業しか相手にしないという姿勢は、結婚にせよ取引にせよ一貫して流れている日本人の姿勢です。

 アメリカでは、企業にぶらさがっている人より、どんなに小さなガレージであっても独立してやっている人が尊敬されたのに・・・・

 日米の格差は大きいですよ。

【世界競争力年鑑 2015年】

順位/国名/指数

1位 アメリカ 100

2位 香港 96.037

ー――――――――

27位 日本 72.827

 日本全体は不況だけれど、ネット社会が急速に普及して、私もアメブロ、フェイスブック、ホームページ、Youtube などいろいろ投稿してみました。そのお陰で、通信生を募集できたし、今では、北海道から九州まで生徒の申し込みがある。

 合格実績もあがってきた。

 ふり返って見れば、私は時代に恵まれ、両親にめぐまれ、友人にめぐまれ、子供たちにめぐまれました。1人では何もできなかった。支えてくれた人たちに感謝したい。感謝では足りないので、後進のために頑張りたい。

 塾講師をしながら痛感するのは、自分が身につけた技術は他人のために使ってこそ意味があるということなのです。

2016年度(7名)  京都大学「医学部」、京都大学「理学部」、大阪大学「人間科学部」、名古屋大学「経済学部」、名古屋市立大学「医学部」、神戸大学「経済学部」、御茶ノ水大学「理学部」 2015年度(6名)  京都大学「経済学部」、京都大学「総合人間学部」、東京医科歯科大学、大阪大学「外国語学部」、東工大、名市大「薬学部」。 2014年度(4名)  京都大学「医学部」、大阪大学「医学部」、京都大学「工学部」、三重大学「工学部」。 2013年度(3名)  京都大学「医学部」、名古屋大学「医学部」。京都大学「経済学部」。

 

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