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16/8/8

フツーの女子大生だった私の転落と波乱に満ちた半生の記録 第5話

Image by Olia Gozha

もう後には引けない


《これまでのあらすじ》   初めて読まれる方へ

篠田桃子はごく普通の女子大生。ところが財布と携帯を紛失してしまったことから人生が狂い始める。携帯のみ無事戻るが、桃子は拾ったという佐々木昭泰が財布を盗んだのではないかと疑っていた。佐々木とその恋人中西玲子の計らいでお金のない桃子はショーパブで働くことを決める。決めたのは当然お金のためであるが、もう一つはショーに魅了されたからであった…


昔……小学校の頃だ

友達のバレエの発表会に招待してもらったことがある

友達はキレイにメイクして可愛らしい衣装を着ていて見違えるようだった

他のどの子も堂々としていて輝いていた

すっかり魅せられた私は、帰宅して母親に私もバレエを習いたいと必死で訴えた

母親はまともに取り合ってもくれず、首を縦に振ってはくれなかった

私は怒って泣いて駄々をこね、終いにはその場で泣き疲れて寝てしまった

夢の中で女の子たちが華麗に舞っていた

目をさますと部屋はすっかり暗くなっていた

わずかなドアの隙間から漏れる灯りと共に

母のすすり泣く声が聞こえた。

切なくて胸が苦しくなるような悲しい声だった

その日以来、私は華やかなものに憧れるのをやめた



昨夜のショーとあの頃に憧れたバレエの舞台とが重なった

バカだな…と思う。

あんなものに憧れる気持ちが自分の中にまだあったなんて

あんなショーなんて所詮、男の欲望のためでしかないのに

見せかけの美しさなのに

なのに私は、お金のためとはいえ、ショーに魅せられ

中西玲子から失くしたのと同額の8万円を受け取ってしまった。


私は時間通り電車に乗った。

そして6時ぴったりに『パテオ』に着いた。

店は昨夜とはだいぶ印象が違った。

店は真昼間のように明るく、壁紙も床も安っぽい感じがした。

女性たちは寝起きのようなスッピン顔でTシャツにパンツスタイルだった。


ソファでタバコを吸っている玲子に遠慮がちに声をかけると


「やっぱり来てくれたのね」

と微笑んでくれた。


私は玲子の後に続いて黒服たちのボーイたちところに挨拶へ行った。

黒服の中心的存在の佐々木昭泰が私を見てニヤッと笑った。

心なしか他の黒服たちも薄笑いをしているように見えた。

どうせ金に釣られてやってきた貧乏な女とでも思われているんだろう。

佐々木が品のない声で玲子に聞いた。

「源氏名は決めたのかよ?」


ああ、と玲子は私を振り返り

「源氏名って分かる?ここでの呼び名。いわゆる芸名みたいなもの」


私は返事に困った。

芸名と言われても、すぐには思いつかなかった。


「じゃあ私がつけてあげる。この子にイメージだと、そうねえ…

  杏(アン)なんてどうかしら」


佐々木が「アンってツラかあ?」

と笑ったが、正直どうでもよかった。


私はそれから杏として女性たちの前に立った。


「杏さんです。この業界は今日が初めてらしいからみんな色々教えてあげてちょうだい。

   今日からショーの練習にも参加してもらうことになったから」


そう言い残すと玲子さんはさっさと行ってしまった。


女性たちの視線が突き刺さるように私に集中した。

よそよそしい目、露骨にライバル視する目、無関心な目

様々だった。

それは数時間後、照明が落とされた時

客に媚びる目とは決定的に違っていた。


誰一人私に話しかける者がいないまま

講師が現れレッスンが始まった。

ストレッチからすでに遅れをとっていた。

大学生になって体育の授業がなくなってから、ろくにやってこなかったので

体がガチガチだった。

振り付けを覚える段階に入ると、もうすでについていけなかった。

足も手も思い通りに動かないし、リズムに乗れない。

額から滴る汗をぬぐって、顔を上げて壁一面の鏡に目を向けると

10人余りの女性に紛れ、必死の形相で不恰好に踊る私がいた。

時折、前の列や背後から笑い声が溢れた。

私が靴が脱げて尻もちついたときは吹き出す者もいた。

言うまでもなく私に対する嘲笑だ。


レッスンは1時間あまり続いた。

軽く夕食をとり、午後8時の開店に備える。

私は髪を直し、メイクをして店から借りた紫色のワンピースを身にまとった。

更衣室から出てラウンジの端にあるキャストが待機するソファに向かって歩く。

ピンヒールは生まれて初めてだったが、慣れた風に取り繕った。

数人の黒服たちとすれ違う。

自意識過剰かもしれないが、私を見た何人かがおっという顔をしていた。

その中に佐々木もいた。


「お、悪くねえな。頑張れよ杏ちゃん」


余計なお世話だ

毒つきたい気持ちの代わりに

私は引きつった顔の笑顔を返した。



ソファには同伴や指名のないキャストたちが座っていた。

さっきまでスッピンだった女性たちが

完璧なまでに着飾っている。

ウィッグにつけまつげなので同一人物とは思えない変身ぶりだ。

でも、みんな退屈そうだった。

メールをしてはあくび

ミラーでメイクをチェックしてはあくびを繰り返していた。

隣り合う子が仲のいい者同士はおしゃべりしていた。

大体が客の愚痴か悪口だった。

相変わらず誰も私に話しかけてはこなかった。

私はここで友達を作る気はなかったのでちょうどよかった。


やがて客が続々と入ってきた。


『パテオ』は繁華街の中心にある。


今風の新しい雰囲気と若くて可愛い子が揃っているとの噂で

当時は連日大盛況だった。


初めてついた客は飯島という初老の大学教授だった。

見かけは紳士的で優しそうに笑う人だった。

私が今日が初日だと言うと、無理に酒を飲まなくていいと言ってくれた。

こんな立派で真面目そうな人でも、こんな所へ遊びに来るんだと意外だった。

口下手な私は殆ど自分から話題を振ることも出来ず

飯島の昔話に耳を傾けることしかできなかった。


やがて暗転しショーにが始まった。

昨夜と同じくらい、私はウットリして観ていた。


「杏ちゃんもいずれは、あそこに立つんだろうね」

飯島が、艶やかなショーに目を細めながら私の耳元で囁いた。


「いえ、私なんか…まだまだです。」

何度も練習を重ねてやっと立てたとしても

センターから大きく外れた隅の隅だろう。

センターの子は店の1、2を争う売れっ子だと玲子さんから聞いた。


その時だった。


飯島が私の太ももの上に手を置いて

そのまま付け根の方へとゆっくりスライドしてきた。

さすがにスカートの内側に入ってはこなかったが

私はフリーズしていた。

そしてやっとの思いで、ほんの1ミリくらい顔を上げて

飯島を見上げた。

飯島は好色そうな目つきで私を見下ろし微笑んでいた。

身体中の毛が逆立つようにゾッとした。

私はその手の動きが止まるのを待たずに

ほんの少し腰を上げた。

そしてスカートの裾を直す振りをした。

飯島は手をさり気なくウイスキーの入ったグラスに戻した。

ちょうどショータイムが終わり普段の照明に戻った。

飯島は何食わぬ顔でタバコに火をつけた。

そして昔話の続きを話し始めた。


その目は変わらず穏やかな人柄が表れているものの

私にはさっきまでとは既に別のものに見えた。


黄色く濁った醜い欲望を持つ目だ。


男とはこういうものなのか。


こういう側面を誰しも持っているんだろうか。

最愛の古女房との出会いを懐かしそうに話しながら同時に

初対面の小娘に卑猥な気持ちを持てる生き物なのか。

女である私には理解できない。


いや、ここで働くと決めた以上、理解すべきことだったのだ!

彼らがここに集うのはなぜか?

仕事で身も心も疲れたオジさんたちは若いエキスを貪欲に求めに来るのだ。





しばらくして飯島の指名の女性がやってきて私はお役御免となった。

そしてまた新人として新たな客の隣に座った。

男の横にはすで指名の女の子がピッタリとくっついて座っていた。

私はヘルプという立ち位置らしい。

彼女が大げさに体をのけぞらせてケラケラと笑うたび

私も話が読めないながらも、クスクスと笑う演技をした。


私は、吹き出物だらけの若い男の言葉に相槌を打ちながら思っていた。



もう割り切ろう。

私はもう足を踏み入れてしまったんだ。




それでも


この時はまだ、よかった。

私が足を踏み入れた場所は

今想像する以上に汚れた、過酷な世界だと気がつくのは

もう少し先だったから。






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