とりあえず パニック障害になるまで(4)
重度難聴と台湾赴任
子供達が3歳になり4月から保育園に行くようになった
しかし重度難聴の心臓疾患を抱えた子は見れないと保育園から拒否
そのため 一人は近所の保育園に もう一人は50km離れた ろう学校の保育園に行くことになった
ろう学校は我の会社からさほど離れていないが 時間が合わないので妻が一人で二人を見ることに
ろう学校では珍しい再会が
生まれてすぐ心臓疾患でICUに居たとき 隣のベッドのにいた子供と再会
聞いた話では こども病院で手術経由ろう学校が3人いたそうだ
はっきり言わないが どうも麻酔薬と関係していたらしい
これも我には大きなプレッシャーになっていた(障害児の父親)
仕事では相変わらず台湾出張 それに加え阪神淡路大震災での復興の支援で国内出張も重なり
家に居ることもままならず 家に帰るのは出張旅費の精算に行くだけって感じに
そんなことしているうちに 台湾からの調達金額も増え台湾赴任の話が出た
言われた時は、嬉しさ半分・不安が半分
仕事では出世だからうれしい、家庭では重度障害児を妻に押し付けていくわけだから申しわけない
当時 日本人向けの幼稚園もあったのだが、重度障害時は見れないと断れ単身赴任となった
それはそうだ、心臓の疾患が完全に治ったわけではないからだ
子供が4歳の夏 妻の後座さえもあり台湾赴任となり 一人着任した
台湾 台北の生活は我にとって快適そのものだった
田舎から都会での生活は魅力的だった
そんな時、一人の女性と知り合った
著者のXinyi Dingさんに人生相談を申込む