世界旅後手持ち300ドル、家族も友人・恋人、時間もお金もすべて失い失意のまま帰国したバックパッカーが自分の夢を叶えてきた記録(3)
ムスリムの国での孤独
「えっ、今なんて言いましたか?」
ケイシーは今、これから勤めだすル・メリディエンホテルの支配人室にいます。
目の前には気難し気なお顔をした、ごま塩頭のアラブ人支配人がピカピカに磨き上げられた重厚なデスクの前に両手を組んで腰かけています。彼は厳しい表情を一ミリも崩さないまま、言いました。
こんなに、仕事の始まる日を待ったのに・・いろいろな思いが一気に頭の中を駆け巡り、思わず絶句してしまったケイシーに対して支配人の隣に立っているメガネをかけたコンプライアンス部長が口をはさみました。
話は、三カ月前までさかのぼります。
ケイシーがエグゼクティブシェフのジェマールに出会ってからビザを申請する過程でラマダーン(断食期間)をはさんだこともあり、申請期間が通常より時間がかかっていました。
シェフはその間に心配になって電話をしては状況を確認するケイシーを自分の休憩時間の合間にオフィスに呼んでは、話しをしたりしていたのです。
ジェマールは普段は思慮深くてとても優しい目をしているシェフなのですが、一つだけ問題がありました。
何度かオフィスを訪ねて二人きりになる機会があるうちに、ジェマールはケイシーに対して「外は暑かっただろう、その上着を脱いでもいいよ」だとか「マッサージしてあげよう」だとか言うようになったのです。
日本であってもそういう状況はセクシャルハラスメントに入る範疇ですが、いわんやムスリムの国では男性と女性が幼いころから厳重に分けられて教育されるため、そのような接し方は異常だということはヨルダン人でないケイシーにもわかりました。
けれども彼は上司ですし、ヨルダンのダウンタウンを歩いて現地人の男性と仲良くなればそんな雰囲気になるのには慣れっこになっていたので、ケイシーもうまく断ったりあしらっていたつもりでした。
ところがイギリスから帰ってきた一か月前にオフィスに訪問した際、決定的な事件が起こるのです。その日、ケイシーはジェマールにイギリスの日本食材店で買った居酒屋レシピの本をお土産として持っていました。ジェマールは相変わらず忙しそうにメインフロアのシェフ達と打ち合わせをしていましいたが、ケイシーをその輪の中に招き入れてくれました。
ジェマールも大喜びで、ケイシーを迎えてくれてその居酒屋の本を受け取ってくれました。
話はなんとなく、タイのオカマさんのお話しになっていきました。
ケイシーがそう言うとジェマールはもう少しそれについて話をしたかったようです。ホテル一階のティーラウンジから、自分のオフィスのある地下一階まで移動しようと言いました。ケイシーは本を渡せたのでもう用事は済んだのですが、なんとなくついていってしまったのです。
果たしてオフィスについたジェマールはケイシーに
と聞いてきました。不思議に思いながらもオフィス入口の小さなカギをカチャンと閉めると、ジェマールは手招きをしてケイシーを自分のデスクに座らせたのです。そして、
「Youtubeでタイのオカマをみせてあげよう」といって自分のデスクのパソコンを操作しだしました。その時はなんとなく、ジェマールが仕事以外の目的でパソコンを使っているのを見られたくないからなのかなあ・・と漠然と思っていたのです。
画面ではタイのオカマが酔っぱらって暗い夜道をふらふら歩いている様子や、真っ暗な店内を映した画像が映し出されていました。
ケイシーが動画に見入っているとふと、隣からかすかに何か異様な音声が聞こえてきました。
振り向くとジェマールが、自分のスマートフォンで無修正の十八禁動画を見ながら、ケイシーの方を向いて微笑んでいたのです。その笑顔は、むしろその場にそぐわない純粋な子供のようでもありました。
今になって思うのですが、この時のケイシーはただ絶句してしまって、その様子がジェマールには「私はそんなの平気よ!」という風に見えてしまったのかもしれません。
ただ、そのときにケイシーには彼のその行動の意味がにわかに理解ができずに、固まってしまったのです。
二日後、「労働ビザが最終的におりるのでパスポートを持ってきて」と人事部から連絡がありました。実の上司との間にそんなことがあった後で、ケイシーはなんだかもやもやとした気持ちを抱えていたのですが、ジェマールはホテルにある五つのレストランを統括した総責任者です。直属の上司というわけではないので、毎日顔を合わせるわけではありません。ケイシーがこれから気持ちをしっかりとしていればいい話だし、とりあえず人事部の担当者には先日あったことを報告して、今後はこんなことが無いようにしてもらおう、と思っていました。そう、それはムスリムの国や外国で無防備にひとり生きることは何なのか、ということのわかっていなかった、三十そこそこの小娘の浅はかな考えだったのです。
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