世界旅後手持ち300ドル、家族も友人・恋人、時間もお金もすべて失い失意のまま帰国したバックパッカーが自分の夢を叶えてきた記録(4)
ヨルダンで大どんでん返し
ホテルの支配人が、ケイシーの赤い日本の表紙のパスポートをこちらに差し出してきました。
そこまで言って支配人は、能面のような表情を一層こわばらせるようにして続けました。
だんだんと自分の置かれた状況が現実味を帯びてくるとケイシーの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が出てきました。
そしてなによりも、彼の頭のいい風に流暢な英語をしゃべる雰囲気にふつふつと腹が立ってきました。頭の中を、この三カ月の間来る日も来る日も仕事のできる日を待ちわびたことや、くじけそうな気持ちを支えてきてくれたお友達やアラウィや彼の家族の顔が浮かんでは消えてゆきました。
ケイシーはキッと支配人に向き直ると言いました。
支配人はいけしゃあしゃあと認めます。隣にいたコンプライアンスの部長が、席を立つとケイシーに向かって歩いてきました。
彼らの態度はケイシーの神経を逆なでするばかりです。
仕事が終わったら帰って寛ぐことのできる家があるあなたと違って、私には帰る家なんてないんですよ!?
白い肌にフチなしメガネをかけた、太り気味の部長は薄いグレーの瞳で取り乱すケイシーをメガネの中からじっと見てきました。
ケイシーも少し落ち着いてきて、彼の眼の中をじっと見返しました。
感情の感じられない支配人の表情と違って、彼の瞳からは、いくばくかの同情を感じます。そこで支配人部屋を出て、彼の部屋についていくことにしました。
支配人室を出ると、一緒についてきてくれた彼が座っていたベンチから立ち上がりました。
ケイシーが彼の目を見ることができずにか細い声でそう言うと、彼はただならぬ雰囲気を感じたようです。
そう言ってついてきてくれました。
コンプライアンス部長のミスターイマドは、ガラス張りになった自分の部屋にケイシーを招き、奥にある小さな冷蔵庫から瓶のスパークリングウォーターを取り出して渡してきました。
冷たいお水を一口飲みながら、ケイシーはあたりを見渡します。ガラス張りのオフィスは地下にあり、すぐ隣の入口にはまたデスクが置かれて、彼の秘書らしき大きな体にスカーフを被った女性がパソコンの前に座っているのが見えました。その向こう、扉前にあるベンチにはアラウィが腰かけているのも見えます。アラブの世界では女性は働かずに家にいて家族の面倒を見る、というのがやはり一般的ではあるようですが最近では働く女性も多くなったのか、ホテルや観光産業など文化的施設などで女性従業員を見ることも多いのです。
ミスターイマドが切り出しました。
ミスターイマドのいきなりの謝罪に、ケイシーは驚きました。
でもここはヨルダンだ。ムスリムの国だ。欧米の習慣に近づいていっているとはいえまだまだここには男尊女卑が存在する。
これが何を意味するのか君にはわかるかい?そしてさらに君は観光客だ。観光ビザでひとりでこの国に入ってきた。これがどういうことか君にはわかるかい?
彼は何度も何度も確認するようにそう繰り返します。
ケイシーにも、彼が言いたいことはなんとなくわかってきました。
何の後ろ盾もない観光客日本人ケイシーと不祥事を起こしたヨルダン人シェフ。ホテル側は法令順守よりも長年勤めているシェフを庇い、ケイシーの口封じをしようとしているのでした。
話しながら悔しい気持ちや悲しい気持ちがあい混ざり、また泣けてきました。
ぽろぽろと涙をこぼすケイシーに対してミスターイマドはティッシュの箱を差し出してくれました。
そして支配人には僕から、君のことを何とかしてくれるように頼んでみよう
思ってもいなかった展開に、ケイシーはティッシュでズビー!と鼻をかみながら涙をひっこめました。真っ暗なトンネルの中にわずかな、ほんの小さな光明が見えた気がしました。
そういってミスターイマドはケイシーに五十ディナール札を三枚渡してくれました。
その夜、観光ビザを延長したあとでダウンタウンのシドニーホテルに身の回りの荷物と一緒にチェックインしたケイシーはへとへとに疲れていました。誰とも話す気力もなくて部屋に閉じこもり、小さな個室に置かれた真っ白なベッドの上に倒れるとまた不安な気持ちが押し寄せてきます。
そこにコンコン、と部屋の扉がノックされる音がしたかと思うとひょこりとタリックが顔をのぞかせました。
ベッドの上に半分起き上がると、そう言います。
ヨルダンに初めて来たときには、ケイシーには誰一人として友達はいませんでした。でも半年たって気が付いたら、いつもすぐそばに友達がいて、ケイシーのことを家族のように気遣ってくれているのでした。そんな友達の優しさのかけらはケイシーの孤独な心を癒し、窓から見える真っ黒な夜空にひとつの希望のように星の光をともしてくれるようでした。
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