世界旅後手持ち300ドル、家族も友人・恋人、時間もお金もすべて失い失意のまま帰国したバックパッカーが自分の夢を叶えてきた記録(5)
ゴキブリ部屋でも、住んでやろうじゃないの。
厚生係の小柄な男性、ミスターアップルが連れてきてくれたのはホテルの目の前にある
マンションのように見える従業員寮でした。
いつも額に皺を一本残したままのミスターアップルは、右手にじゃらじゃらとしたカギの束を持ちながら重そうな扉を左手でトントンとノックしました。
彼が中に向かってやる気なさげに話しかけると、部屋の中から長い黒髪をした東洋人の女の子がひょこりと顔を出しました。
女の子は少しひしゃげた鼻とくっきりとした目をしており、一瞬でフィリピン人だとわかりました。少し不機嫌そうだった声が見事に様変わりしておべっかを使うような言葉遣いになっています。扉を開けると彼女はヨルダンでは間違っても表では着られないような、白のキャミトップにグレーの短パンという恰好をしていました。
ミスターアップルが不愛想に言うと女の子はケイシーに向かってニコリと笑いかけました。
ケイシーはそういうと、ミスターアップルの後ろについて部屋に入りました。
相変わらず面倒くさそうに彼は説明したあと、入って右奥の部屋の前で立ち止まりました。
薄汚れた白い扉の向こう側には二つのベッドが並び、そして古いクローゼットとテーブル、椅子、大きな箱型テレビが置かれています。
部屋の奥にある唯一の明りとりであるはずの場所には調節器具が壊れてしまっているため閉まりっぱなしの雨戸がありました。紐を引っ張ると雨戸が上に上がってゆきバルコニーと数センチしか空かない窓が現れるのですが紐を留めておけないのでいつも雨戸は閉まりっぱなしです。少し出っ張ったバルコニーの窓のサンには埃がうずたかく積もって、近くに行くだけでゴホゴホと咳こんでしまいました。
ふと、部屋の床に黒っぽいものが横切る気配がしてケイシーは驚きました。それはささっと古いクローゼットの下に隠れてしまいましたが間違いなくアレに違いありません。
ミスターアップルは無感動な感じで淡々と言いました。お世辞にも清潔とか綺麗だとか言えない環境の暗いじめじめとした部屋なのでした。
話は、数時間前に遡ります。。。。
コンプライアンス部の部長、ミスターイマドは午後いちで訪問してきたケイシーに向かって早速話を始めました。
ケイシーはぐぐっとデスクをはさんで向かいに座っているミスターイマドの方に身を乗り出します。
ケイシーは、以前にシェフと交わした契約書をガサガサと取り出しました。
ケイシーは納得がいきませんでした。今回の事件の責任はすべてケイシーにある、というような口ぶりに思えたのです。
ミスターイマドは細い銀縁のメガネを指先で押し上げました。
僕が言っているのは、このアラブの国は君のよく知る西洋諸国とは全く違うということなんだ。ここでは噂は命とりだ。
アラブの人々は噂好きで、加えて嫉妬深い。ホテルにしたって君を雇うということは命がけの選択なのだということをわかってほしいんだ。
彼はそこまで一気に言うと、大きな背もたれに背中を預けて両手を腹の前で組み、ふうーっと息をつきました。
・・・・・・・ふと、気が付くと古ぼけた白い扉の前にフィリピン人の女の子が立っていました。
ケイシーが、従業員寮の自分の部屋の前に立つ彼女を見ると彼女は話しかけてきました。
彼女は人懐っこい笑顔を向けてきます。黒いスーツを着て長い黒髪を後ろでひとまとめにして、赤い口紅をしていました。
さっきまで仕事をしていたような恰好です。
ジェジェは魅力的な笑顔を残して自分の部屋に帰ってゆきました。
雨戸が閉まりっぱなしの部屋にずっといるのは居心地が悪くて、ケイシーはお風呂に入ることにしました。
もちろんバスタブなんてないヨルダンのお風呂場は、だだっぴろい空間の手前に洗濯機、奥右端にはトイレ、その反対端っこに真四角のシャワースペースがあり大き目のバケツと一回り小さな空になったアイスクリームのBOXが置いてあります。シャワーヘッドはなかったので、蛇口から大き目のバケツにお湯を溜めてそこからアイスクリームの空きBOXでお湯を掬い取り、体に流してを繰り返します。何度も何度も自分の頭に向かってお湯を運びながら、ケイシーは自分が放心状態のままいつの間にかぽろぽろと泣いていることに気が付きました。
ヨルダンで仕事を見つけるまで滞在したこの四カ月の記憶が、自分の前を通り過ぎてゆきます。シドニーホテルのスタッフたち、郵便局のハムザさん、シメサニの部屋、職を見つけるために助けてくれたフィラスや大富豪、ダウンタウンのお土産物ストリートの友達、アラウィの顔、アラウィの家族や姉妹、親族達。皆の顔が一瞬で現れては消えてゆきました。
けれどもその細々としたシャワーが終わるころには、ケイシーの胸の中にはふつふつと光る一筋の希望が芽生えていました。
それは、この一年で世界の最果ての村々を過酷な状況の中で旅しながら身に着けた図太さであったのかもしれません。そのとき、ケイシーの中には小さいけれども確実に、静かな闘志が燃えていたのです。
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