HAYATONY物語5

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僕の父は中学を卒業後、母子家庭で貧し家庭を助ける為に親戚の援助を断り高校への進学はせずに祖母の頼みで親戚が営むカツオ漁船に就職した。

その当時中卒でも大漁した時はかなりの高給をもらえたそうだ。

しかしそのカツオ漁船の幸運は長くは続かなかった。

親戚の運営するカツオ魚船は定置網にプロペラを絡み付けて沈没、遭難し数名の死亡者が出た。親戚の会社はまた船を新しく造船し父はもう二度と乗りたくはなかったそうだが母親に頼まれ再度乗船した。

だが不運は続くのである。

船長の判断ミスかもしれないが低気圧が近づいていたが帰港を急ぐあまり嵐の方向に向かって船を走らせたのであるその結果、横波を受け船は再度沈没した。

この時も多数の乗組員が亡くなったそうだ。

父も荒波に打ちつけられ何度も流されそしてまた船にしがみつき、もう死ぬことを覚悟したそうだ。低気圧も過ぎ漂流する船にしがみついている時には何度も睡魔に襲われたそうだ。

何とも心地よい睡魔で先輩乗務員が「寝ちゃだめだ」の声にもう寝かせてくれと腹立たしく思ったそうだ。

お正月元旦の冬の寒い海の中、何度も荒波に打たれながら漂流する船にしがみつき一晩中、熊野灘を漂流し海流に任せて船は地元志摩の沖に戻った時に地元の漁師に発見され父は救われ助かった。

もう二度とカツオ魚船には乗らないと決心しこれからは陸の上での仕事がしたいと思ったそうだ。

しかしなかなか中卒ではいい条件の仕事はなく船の機関師の資格試験を独学で勉強し見事に受かり神戸の商船の機関士として再就職し父は単身、神戸で働く事になった。

僕がまだ記憶もない幼いころの話で父は3か月に一度ぐらいの地元志摩に数日休みを取り帰省していたが父との思い出の記憶はいつも玩具やお土産をくれるいい人だ。

この人がお父ちゃんなんやと思いながら時々来るお客様の様に父の事を思っていた。

よって僕の幼少の頃の日常は母と御婆ちゃんと幼い次男、春樹、3男卓哉の5人で母子家庭の様な環境で育った。

母親も子育てをするかたわら町工場に勤務し結婚時に父が立てた家のローンを返済するために共働きをして父や家族を助けていた。

僕を含め子供たちの世話はもっぱら御婆ちゃんがしてくれていた。

小学生の頃は毎日近所の子供や友達と遊び地元のガキ大将だった。

習い事はそろばんぐらいでほとんど遊んでいて勉強をしたことがなかった。

小学5年生の頃に通知表の評価で国語を1の評価成績をもらった。

一番ではなく一番低い評価だ。

親もこの成績にはすぐに反応し僕を町で評判の優秀な子たちが通うきびしくて有名な塾に入れた。

今まで机で勉強したことのない僕にとって勉強は苦痛で嫌いだった。

人間は習慣の生きもだとこの年になって理解できるが何事もそのやり方が理解し上手く出来るようになるまでは楽しくない。

その塾に入ってから初めての国語のテストが学校であった。

その結果は0点であった。

この結果には塾の先生も激怒し、「この子は絶対に高校へは入れない私が保証します」と言い切った。

僕の両親もこの言葉にはさすがに怒った。

そしてその塾を辞める事になった。僕は大変うれしかった。

本当に怖い先生で全くその塾での勉強は楽しくなかった。

今でも漢字の読み書きは苦手で誤字や脱字が多いのは小学生時に国語全体の基礎的な勉強をしなかった為だ。

そんな僕がこのような僕の自伝見たいな物を書いているのだから笑ってしまう。

読みづらい事や文章能力が乏しいので呼んでくださる皆さんには誠に感謝する。

#hayatony物語

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