女子大生が世界一周を仕事にする話「【ベトナム】食中毒になったけど、ホイアンええやん」

著者: 山口 夏未

■ホイアンで死にかけ


 あれ、ニャチャンのことは書かないの?という読者様。ニャチャンの海への淡い初恋をひっそり胸にしまっておきたい私の気持ちを察してくださいな。…ビーチリゾートと呼ばれる場所にひとりで行くのはやめたほうが良い、というアドバイスだけ、一人旅を愛するバックパッカーの皆様へ残しておくことにします。ひとりで見た朝焼けのなんと綺麗だったことか!いえ、全然寂しくなんてなかったですよ全然。




綺麗すぎて泣きそうになった朝焼け


 

 ニャチャンを出て次に着いた街はホイアン。ベトナムの中部にある街で、街全体が世界遺産になっているとても情緒のある場所です。実は雨期になるとたくさん降る雨と低い土地のせいでメコン川が氾濫し、毎年街が水没してしまう。というとんでもない場所なのですが、そんな場所でも人々はメコン川と共に生きているのです。


 私が行った時にはまだ雨期になる前だったので、夜になるとホイアンの川沿いには提灯が並び、それが川の水面に反射してとても幻想的な雰囲気を醸し出していました。



大好きなホイアンの風景




 そんなホイアンの楽しみ方は、伝統的な建物が並ぶ町並みを楽しみつつ散策するのも良し、ゆったりと流れるメコン川を眺めつつ、道で子供が売っている灯籠に明かりを灯してそっと水面に浮かべるも良し、川沿いに並ぶちょっと小洒落たバーで小洒落たカクテルなんぞで乾杯するも良し、川岸の屋台で、つめたーく冷やして、ついでに氷も入れちゃって、薄く冷たく飲みやすくなったビールを一気に喉に流し込んでぷはァ〜!!!最高。これがたまらない。っっと一応断っておきますが私、日本ではビール全く飲みませんからね!


 そんな私でも東南アジアのあの薄くてひえひえの飲みやすいビールを蒸し暑い屋外で熱気溢れる現地の人がつくる安くて美味しい料理と一緒に飲むのだけは、好きなんです。想像しただけで今すぐ東南アジアへ飛んで行ってあの混沌と熱気と冷たいビールの中にどぼん!と飛び込みたくなるくらい、好きなんです。


 ホイアンの魅力を伝えるはずが気がついたらビールの話になってしまいました。ベトナムの中でどこが一番良かったかと言われれば間違いなく私はホイアンと答えます。死にかけたけれど。


 ホイアンではとあるご縁で、日本食レストランのオーナーの方、ホイアンの隣の都市ダナンで精肉工場を経営されている方、ホイアンに学校をつくり、ベトナム人の若い人たちに技術指導をされている方、などなどたくさんの日本人の方々にとてもお世話になりました。


 海外に住んでいる日本人の方のお話を実際に聞いたり見たりするのは初めてだったので、とても新鮮でした。間違いなく日本に住んでいたら会えない人たちの生活を知ることができたことは、わたしがこの旅に求めていた、将来の選択肢を増やすという目的を達成する上でとても貴重な経験になりました。死にかけたけれど。


 ホイアン滞在中、最も記憶に残ったことはそんな日本人の方との…と書く予定でいたのですが、それをベトナムは見事に邪魔してくれました。死にかけたからです。


 ホイアン滞在中のある朝、突然私を襲った人生最大の腹痛と嘔吐。思い当たることと言えば、前日に海沿いのローカルレストランで食べたイカの刺身…。


生モノ、ダメ、ゼッタイ。

 ひとりベッドの上で痛みにのたうちまわり、かと思えばトイレにかけこみ、もう何も出ないのにまだおさまらない吐き気と戦い、見たことのない色の液体が出てきたときはもうこのまま死んでしまうのではないかと思ったほどです。


 初めて海外で体調を崩したのでどうしていいか分からず、とりあえず日本を出る前に病院で処方してもらった腹痛用の薬を無理矢理胃に流し込み、動くこともできずにただただ安宿の固いベッドの上で次にいつくるか分からない吐き気と、ずきずきと痛み続けるおなかに怯えながら、症状が収まるのを待っていました。


 震える手で必死に検索した症状は、見事に食中毒に当てはまっており、さらに痛みが収まらなければ緊急で病院へ行って診てもらわなければ大事に至る可能性もある、のような情報ばかりで、不安が募る。一人異国の地で私は、イカの刺身に身体を内側からボロボロにされて水を飲むことすら出来ず、このまま脱水症状に陥りじわじわと体力を奪われて死んでいくのか。


 どうせ食中毒で死ぬのなら、最後に大好きなサーモンの刺身とイクラを食べたかった。いや、やっぱりオムライスかなあ、カニクリームコロッケも捨てがたい。だめだ、私はまだまだ死んでなんかいられないぞ。ああ、神様仏様、どうかお助けください。

 

 天に本気で祈ったのは三ヶ月の東南アジア放浪で後にも先にもこの時だけでした。祈りが通じたのか、日本の薬が効いたのかはわかりませんが、お昼過ぎにはあれだけ酷かった症状もすっきり収まり、ぜーんぶ出してしまったのでおなかまで空いてくるという自分でも驚くほどの回復。ひょいと外に出て、夜は大好きな日本食を食べに行ったのでした。







■英語?えーっと、三ヶ月かな。


 ホイアンから無事に生きて辿り着いたフエの話は一旦置いておいて、その次に向かったのはベトナムの首都、ハノイ。ノービザ入国だったので、ベトナムにいられるのが最長14日。ハノイにはたった一泊しかできませんでした。


 ドミトリーで私の下に寝ていた、見た目はものすごく中国人なのに国籍はアメリカというお兄さんリエン。仲良くなり、連れていってもらったカウチサーフィンのイベントで、私はこの旅で最大の衝撃を味わうのです。

 

 友達が迎えにきてくれるから!というお兄さんと一緒に、ゲストハウスのロビーで待っていると、わたしと年齢が同じくらいに見える女の子が2人、バイクに乗って登場。


 イベントをやっている、というレストランまで連れて行ってくれました。どうやら、カウチサーフィンのホストとゲストのマッチングを目的としたイベントだったようなのですが、単に外国人と話したいベトナム人の学生や、ベトナム人と仲良くなりたい在住の外国人、そして私のような、飛び入り参加もいる、ゆるい国際交流会となっていました。もちろんほとんどの会話は英語です。


友達つくろ!と思って挑んだものの


ハーイペラペラペラペラペラペラ

ペラペラペラペラペラペラペラペラ

ペラペラペラペラペラペラペラペラ

ペラペラペラペラペラペラペラペラ

HAHAHAHAHA!!!!!!



………おいしゃべらせろ



 とにかく話す!話す!みんな自分のこと話しまくる!


 さらにわたしのスピーキング力のなさが彼らの自己主張に拍車をかける。必死で単語を聞き取り、たまに現れる

「And you?」


に対応するのに必死で(でも、頑張って私が自分のことを話し終わる前に彼らは違う話題へ移る)、結局ゆっくり簡単な単語で説明してくれるリエン君に頼る笑





 そんな中ふと気になって聞いた、「英語どれくらい勉強したの?」という質問に、「えーっと、三ヶ月かな。自分で」と言われた瞬間に、今まで必死で英語を聞き取ろうとしていた私の耳はぼーんと遠くなって、働くことをやめました。


 自分と同じ年齢である彼女たちが自分よりもずっと先にいるような気がしたからです。先の見えない真っ暗なトンネルに置いてけぼりにされたかのようでした。自分たちの将来は自分たちの力で築いていくという根本的な考え方の違いとその努力の差に愕然としました。


 なんだかなあ〜将来どうしようかなあ〜なんて私が悩みながら世界をふらふらとしているうちにも彼女たちは生きるための力をめきめきとつけているし、それが自分を助ける武器になると知っている。私は今まで驕っていたのだと気がつかされました。


 おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさんの世代がつくりあげてきた「日本」という、世界でも力を持った国に生まれた、ただそれだけのことであって、自分ではたいした努力をすることもなく、日本温泉に浮かんでいただけであったと。温泉は大好きだけど。




 ある意味、国に頼れることは幸せであり、ある意味ではとても危険なのかもしれないな、と思いました。自分が国を支える年齢になったとき、きっと今よりも国際化は進み、海外の国々と政治的な面でも、経済的な面でも関わる人が増えてくるでしょう。


 国ではなく個人が力をつけている東南アジアの人たちと世界で同じ舞台に立てるのだろうか、いや、そんな大きな仕事を自分がするかはわからないけれど。でも彼らと私を比べたときに、個人の能力の差では負ける。と思ったのです。


 東南アジアの学生と関わる機会はこの旅の中でこのあとも何度かありましたが、自分にとって一番大きな刺激となったことは間違いありません。今の日本の若い人たちの中に「自分で生きる力」を持っている人は、どれくらいいるんだろう。


 





■ただいまフエ!


 フエには2度行くことになりました。あとから考えればこれも騙されたような気がしないでもないのですが、きっかけは一人のベトナム人との出会いでした。ホイアンを出て、フエのバスターミナルに着いたわたしは、その日の夜のバスでハノイへ向かうことになっていました。ただ、そのバスの時刻まで半日以上時間があり、どうしたものかと考えていたのです。


 そんな私に声を掛けてきたのが、バイタクのお兄ちゃん、ヴィン。バイタクとベトナム人、どう考えてもぼったくりである。あまり良い思い出がないので、もうバイタクはこりごりだった私は、お金がないからと適当に断ろうとしていました。


 ベトナムでのバイタクのチャーターはだいたい一時間1000円ほどが相場ですが、フエの見所連れていってあげるからバスの時間まで俺についてきなよ、としつこくフエの魅力を語る彼に思わず、4時間2000円でならその話乗るよ、と言ってしまったのです。しかも、なんとそれでいいよ、という。ハノイ行きのバスまでひとりで暇を持て余す予定が、急遽バイタクのお兄ちゃんとデートすることになってしまったのでした。




…ドルガバ?



 最初はあまり会話のなかった私たちですが、フエの観光地をまわるうちに少しずつ打ち解けていったのでした。なんだこれ、付き合い立てのカップルか?


 家族の話をしていると、ヴィンの一番下の妹と私が同じ歳だとわかり、さらにヴィンの奥さんは20歳、わたしより年下だということまで判明…。そのあとわたしがこれから一人で東南アジアをまわるんだと言ったらいろいろと心配してくれ、タイバーツやラオのお金を両替しに連れていってくれました。


 お金に関しては警戒心丸出しだったわたしですが、レートを事前に調べておいたおかげでここではそんな劣悪なレートだということもなく、今後の旅に心強いその国のお金を手に入れることができたのでした。


 ベトナム風あんみつである、チェーが飲みたい!というと、おすすめのお店というか道端でしたが、これくらいは驕ってやる。と、ちょっと照れながら払ってくれたり、夜ごはんも食べておいたほうがいい、とローカルレストランに私を連れていき、奥さんとの馴れ初めから結婚に至るまでの話をわたしに聞かせて、途中で「俺なんでこんな話してるんだ笑」と急に恥ずかしがったり、道で宝くじを売りにきたほんの5歳にも満たないだろう子供から2枚買って、当たったら奥さんと子供と日本に遊びに行くよ。とちょっとおどけながらポケットにしまっていたり、お金を貯めて毎日働かなくても良いようにしておくから、今度ベトナムにきたら一緒にツーリング旅行しような!と楽しそうに話していたり、なんだか私が今まで会ってきたベトナム人の中で一番、その人の中身を知ることのできた人だったのです。


 ハノイからラオスに行くつもりだというと、今はベトナムの仏教徒のお祭りと重なっているからバスがないかもしれないよ、と言って、これまた友達だという旅行会社にわたしを連れていき、バスの確認までしてくれる始末。


 そのホテル兼旅行会社のお姉さんは、何社かに電話をかけまくり、結局ハノイからラオスに向かうバスは満席だから、フエに戻ってきてフエからラオスに抜けたほうがいいと言われ、フエに戻ってきた日もうちに泊まればいいし、ヴィンと一日観光してたらいいでしょ、ということになったのです。


 本当は疑うべきだったのかもしれません。バスの空席はあったのかもしれないし、その旅行会社で予約したハノイからフエに戻るバス代と、フエでの一泊分の宿代も、余分に支払っていたのかもしれません。それでもわたしはヴィンにもう一度会いに来たいなあと思ってしまいました。





 ハノイから戻ってきたバスターミナルには、きちんとヴィンが待っていてくれました。毎日バイクで走り回っているせいで日焼けした顔で、ニコニコ手を振っています。その日は少し遠くの寺院を見に行って、いったん宿に戻ったあと、夕食はうちで一緒に食べよう、と迎えに来てくれました。


 どんなところに住んでいるんだろう、とベトナム人の家に行くのはもちろん初めてだった私はわくわくしていました。途中でレストランに寄って、エビと野菜のかき揚げのようなものを買いました。


 着いたよ、と言われてバイクを降りたわたしの目の前には、半分傾いているような、家のような小屋のような、物置くらいの小さな建物がありました。私が今まで考えていた「家」という概念がそこへ近づく私の足音とともにザラ、ザラ、と崩れていくのがわかりました。


 ああ、なんて「常識」ってものは海外でこうもあてにならないのだろう。その建物にはドアさえありませんでした。じゃばらになっていた薄いプラスチックの板を、ヴィンが横にずらして開けました。そっとお邪魔すると中には、おとなしそうな顔をした女の子、といっても奥さんなのですが。と、赤ちゃんが寝ていました。ヴィンが声を掛けると、お皿とコップを準備してくれます。


 ただ、リビング、と呼ぶのであろう場所の広さは、ちょっと高い宿に泊まった時のダブルベッドくらいの広さしかないのです。そこにヴィンと奥さんと私、3人ちょこんと座って、買ってきたかき揚げをつつくのでした。わたしのお皿が空になると、ヴィンは必ず取り分けてくれました。


 日本だったらいろいろあるおかずのうちの一品であろうかき揚げが、その日の家族みんなの夕食でした。他には何も、ありません。日本から持ってきたふりかけをあげたのですが、この家族がお米を食べることはあるのだろうか、とふと考えてしまいました。


 ヴィンに、これはお米にふりかけて食べるものだよ、と説明したときに、分かった。と言ってうなずいたヴィンの少し困ったような笑顔が答えだったのかもしれません。


 宿まで送り届けてくれたヴィンは、遠慮がちにわたしに、残ったお金くれるか?と聞きました。バイクを修理したいんだ、と昼間しきりに言っていたことを思い出しました。わたしは、残っていたベトナムドンを全部あげました。明日の朝、ラオス行きのバスが出るため、もう必要なかったのです。


 ヴィンは、明日の朝ご飯も一緒に食べに行こう。俺が払うから!と言って、帰っていきました。宿の窓から、バイクで走り去るヴィンを、複雑な気持ちで見送りました。





 次の日の朝、ヴィンは本当にやってきました。さあ、ナツミ、朝ご飯食べに行くぞ。と。近所の道ばたで、おばちゃんがやっている屋台です。お風呂のプラスチック椅子に、ベトナム人と並んで座ってすすったヌードルスープの味は、優しくて、とっても安心する味でした。


 最後に私がお気に入りだった川沿いまでドライブし、ベトナムコーヒーを飲みました。練乳を入れて飲む、とっても濃いコーヒー。ちょっと寂しくて、あまり話すこともなく、宿に戻りました。


 ピックアップのバスに乗ろうとする私にヴィンが、ラオスまで長いから、これ持っていきな!と持たせてくれた大量のお菓子と水。お金は余分に払ったかもしれないけれど、ヴィンにとって私は単なる「お客」だったのかもしれないけれど、わたしにとってはベトナムでのお兄ちゃんみたいな存在だったのです。



 でも、ラオスに着いてバスを降りるときに、ヴィンが持たせてくれた水が入ったビニールは、上の荷物棚に入れておいたら勝手に誰かに破られて中身が半分になってしまっていました。バックパックにくくりつけてあったはずのビーサンは、片方どこかへ行ってしまっていました。


 やっぱり最後までベトナムにはやられっぱなしだった。もう少し世界で修行して、わたしきっと戻ってくるよ、ヴィン。


ハノイ郊外にある焼き物の村、バッチャン村にて


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