HAYATONY物語12

前話: HAYATONY物語11
次話: HAYATONY物語13

HAYATONY物語12

上京して半年を過ぎたころには僕はすっかり東京色に染まっていた。

言葉も三重の関西弁と東京便が混じりだし人と話すには何となくおかしくなり標準語で話すようになった。

学校の授業にはついて行けずほとんど学校にはさぼり行かなくなっていた。

東京に来て学校やスタジオ、ライブハウスバイトをやってみて僕が本当にやりたい仕事はやはり音楽であったと再認識した。

何曲も自分自身で作詞作曲したがバンドを組んでプロになるにはなかなか本気のメンバーが集まらない。

夢を抱いて上京した18歳の少年に東京でのデビューに向けて挫折感が広がり始めた。

その時にバンドではなくソロでやれば良かったがギターしか楽器が弾けないとどうしても音楽的にはアコギでの弾き語りになりデモテープみたいな物しか作れなかった。

この当時にDTM(デスクトップミュージック略)「打ち込み」と言われるコンピューターで音源をミックスしできる技術が普及し始めていた。

DTMはキーボードとコンピューターの音楽ソフトを使いいろんな音源をキーボード一つで作り出せる作曲家にとっては画期的なソフトだった。

DTMで音楽を作るにはバンドメンバーは基本必要がない。

ただし多少なりともキーボード演奏が出来ないと使えない代物だ。

ソフトではロジックやプロツールスなどが一般的には有名なソフトだ

しかし僕はキーボードやピアノが弾けない。

この時にキーボードの練習さえすればバンドメンバーがいなくてもかなりのいいクオリティーのデモテープが出来たであろう。

いよいよ東京で音楽家になる夢も色あせて来た時に電話が鳴った。

その電話は父からだった。

実は3月になり学校の先生から僕の進級するのか否かのについて連絡が実家にあったのだった。

その時に先生から僕が学校に来てない事も両親に報告された事は言うまでもない。

学校に行ってない事がその時点で両親に知らされそのことで父が電話をかけて来たのである。

僕は完全に困った。

今まで両親にはウソをついていたからだ。

僕の事を信じて東京に行かせてくれた両親に申し訳ない。

ただでさえ高い入学金と授業料を払ってくれた両親に父に激高されることは必至でかなり怒られるのは覚悟していた。

電話で自分なりにたくさん言い訳をしてミキサーになるには学校に行くよりも現場に入り修行したほうがいいとかなんとか言って言い訳し学校は1年で中退すると父に告げた。

元漁師の父にはかなり叱られると思っていたが父から意外な提案があった。

「お前には好きな事させたのだからもう夢を追いかけるのは諦めて家の家業の真珠屋を継がないか」と打診された。

実家の仕事はいつでも覚えられるから真珠を勉強するために神戸の取引先の会社に入りもっと真珠について修行をして来いと言うことであった。

真珠も商品として市場に出るまでにはいろいろな製造段階がある。初めは真珠養殖され第一加工玉の選別や染み抜き加工、ネックレス、イヤリング、指輪などに第2加工されて商品になる。

そのほかにも医薬品や化粧品、家の装飾や芸術作品になどにも使用される。

国内のみならず世界中から日本の真珠を求めて外国人の宝石商が一堂に集まるのが神戸の街だ。

神戸は昔から外国との通商が盛んにおこなわれていた土地で古くは江戸時代幕末から長崎に入った輸入物を販売する支店が神戸で開設されたりし外国人居留地ができ外国人貿易商の別荘街としても神戸の街は古くから栄えていたのである。

日本最古のゴルフ場も神戸にイギリス人貿易商A.H.グルームが六甲の山に作ったそうである。

僕が高校生の頃、僕の実家には時々外国のバイヤーたちが直接、真珠を買い付けに来ていた。

いろんな国の外国人バイヤーが実家に訪問があった事を記憶している。

話は元に戻るが今後の話合いをする為に東京に両親が来ると言う。

父の提案にしばらく考えさせてほしいと僕は返事をして電話を切った。

いろいろ数日間悩んだが僕は家の家業の真珠屋を継ぐ覚悟をした。

そのはずだった。#hayatony物語

著者の田野上 勇人さんに人生相談を申込む

続きのストーリーはこちら!

HAYATONY物語13

著者の田野上 勇人さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。