世界旅後手持ち300ドル、家族も友人・恋人、時間もお金もすべて失い失意のまま帰国したバックパッカーが自分の夢を叶えてきた記録(9)
新しいシェフ、ラミエロ。
それはケイシーがBENIHANAの見習いシェフとして就任しちょうど二週間経ったころのことでした。
「ねえ、メリッサ。今日から新しいシェフが入ってくるんだよね?」
「ええ、そう聞いてるわよ。誰がいつどんなタイミングで来るかなんて私はあまり関心ないけどね」
いつも通り、飄々とした雰囲気で従業員食堂のテーブルに腰かけ、社食のクリームパスタを頬ばるメリッサを前にしてケイシーはふふっと笑いました。自分のフォークの手を休めて聞きます。
「それにしてもメリッサ、あなたよく食べるよね。もうおかわり二皿目?なのにそんなに細いなんてどうしてなの」
「さあ?私にもわかんないわ。でも一つだけ言えることは私が食べることを止めてしまったら、それこそマッチ棒のようになっちゃうってことだけよ」
彼女はフォークを口に運ぶ手を休めずにそう答えました。サバサバとしたメリッサの性格は一緒にいると心地いいので、いつも仕事の休憩時間にはこうして一緒に従業員食堂に来ているのでした。
メリッサは後ろでひっつめポニーテールにした髪の毛をゆすって席を立ちあがると、さらに三皿目のパスタを貰うために列に並びに行きました。
フィリピン人女性の日本人女性との大きな違いは、自分のやりたいことをはっきりと主張することだなあと最近感じます。そして彼らはちゃんとそれを実行する。まあ、悪く言えば自分勝手でありよく言えば有言実行です。
ふと遠くを見るとメリッサが片手に持ったコップに並々とコーラを注いで、それをこぼさないように用心しながらこちらに向かって歩いてくる様子が見えました。そんなメリッサをかわいいなあ、と思ってしまうケイシーはなんだか彼女の叔母さんになった気分です。
新しいシェフの名前は、ラミエロ。ダルウィンのクウェートBENIHANA時代からの古いシェフ仲間です。ラミエロはどこか天然がかった五十代の男性でした。
「はじめまして!ラミエロ」
ケイシーがそう言って彼に握手を求めると、ラミエロは小柄なダルウィンとは反対のすらりとした長身をゆらりとさせて握手を返してくれました。
「はじめまして」
彼の浅黒い顔には幾本かの皺が刻まれ、熟年シェフの雰囲気を漂わせています。やや八の字になった眉毛とその下の深いまなざしは彼の優しさを象徴するかのようでした。
「今日からBENIHANAの一員だ。みんな仲良くやろうじゃないか!」
メッシはテンションが上がって、洗い場のジェラールと一緒にニンジンをマイクに見立てて歌いだしました。強面のイケメンシェフ、メッシがこんな面白い性格だと知ってからケイシーは一緒になってその輪に入るようになっていました。
「ショコラータ! ターミーナ!! シューハイヘイク!!」
メッシが歌手になりきってアラビア語の童話を歌いだすと、ジェラールがそれを撮影するディレクターかのように長鍋を向けて膝まづきます。
みんなでキッチンの奥でひとしきり笑ってから、すっかり初対面のラミエロと打ち解けました。
「さて、シェフラミエロ。早速今日来たばかりだけれど、今日はシェフジェマールのチェックテストがあるからね」
ダルウィンがそう言うと、その一言で一気に場の空気が引き締まりました。
「シェフも、君が来るのを待っていたんだよ」
「ベストを尽くすよ」
ラミエロは頷きました。ジェマールと聞いて、ケイシーの背筋はすっと寒くなりました。あの一件から、一度も顔をみていないシェフジェマールがレストランに来るということはケイシーも彼に会うということです。果たして心の準備もできていないうちに、壁の内線電話がかかりシェフがやってくるということでBENIHANAキッチンの中はピンとした緊張感に包まれました。
「元気にしているか?」
シェフジェマールはそう言うと、BENIHANAキッチンの面々にひとりひとり声をかけてゆきます。
「ダルウィン、フィリピンの家族は元気かい?」
「ええシェフ、お蔭さまで」
「メッシ、仕事の調子はどうだ?」
「順調です」
ジェマールはケイシーの前に来ました。
「どうだ、BENIHANAの仕事は楽しいかい?」
「はいシェフ、お蔭さまでいい仲間に恵まれています」
ケイシーは床を見たままそう言いました。ジェマールが前を去ってレストランの中に入ってゆくと、緊張がほどけふっと肩の力が抜けて、ケイシーは作業台の上に両手をつきました。
あのことはもちろん、BENIHANAのスタッフ誰にも秘密なのです。そして今のシェフの言葉裏に、いままで感じていた親しみの気持ちを一切感じなくなっていることに改めて悲しくなってしまったのです。あの事件は、確実にお互いの心のしこりとなりこんな結果をもたらしてしまったということです。
表では、早速鉄板の前でシェフラミエロのテストが行われていました。ジュウジュウとチャーハンを作る音や肉を焼く音、匂いが聞こえる間ケイシーは何も作業が手に着かずにぼうっとキッチンに立ち尽くしていました。
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