言葉にできない怖さは彼が知っている。

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思いを伝えたい、伝えられない、伝えられるようになってほしい。


 前に進むしかないよね、結局何があってもバックはできんたい。思ったことも出てこんし、緊張もしてない。「風呂入りたい」妹が言った。勝手にのせんなよ、私がしゃべってること。妹の言葉に私は「風呂入ってきたら?」

 妹が笑う、私も思わず笑う、「大人になりけれない兄ちゃん」と私に言った。

 「人生とは人が決めたレールを走ろことじゃなかばい、そがんと、兄ちゃんも知らんとやろ。」

 「しらん」

 そしたら自分の人生じゃなかとん?

意味が分からん・・・・・「兄」「大阪出身」

 そがんことやろ。「妹」

 自分で走ることができんなら、じゃー人の引いたレール走るしかないよね。

で、失敗したら、人のせい。楽よね、人のせいにしたら。(妻に何か吹き込まれてるのかな?)

 お前おもろい、「兄」

 今、幸せ?

 「しあわせ」

 何がしたい、希望は。?

「風呂入りたい」

ふふ

変態やなもう、


知ってる?

変態やもん

 ふふ



 年末に妻の実家にやってきた。2016年が終わる。田舎暮らしの妹は、子ども3人と旦那、じいちゃん、ばあちゃんと暮らしている。長崎県は雲仙普賢岳(のちの平成新山)のふもとにある。

 一見のどかそうに見えるが、熊本大地震の際も、酔うほど揺れたと聞かされた。最近では、我々の家族も熊本経由で長崎に大阪から船で帰ることが多くなった。

 今年は、妻の父親が脚立から落ちて入院した。心配になり、様子を見に行くことにした。


 妻が突然私の先祖が眠るお墓を参りたいといった。結婚15年目にして初めてのことだ。


 父親の生まれ故郷である、鹿児島県に船で到着。墓までは、2時間ほどだった。ちゃんと住所を覚えてなくても近所の有名な店さえ思い出すことができればお墓に到着することができる。


 私の両親は早くから亡くなっているし、父親の兄弟もすでに田舎には住んでいない。墓に行くと、非常にすさまじいまでの枯れ果てた状態だった。墓石の前には草だけではなく木が生えていた。私の背丈よりも深い雑草の中に、ご先祖様が眠る墓があった。

 私はこれはだめだと感じて、すぐに、ホームセンターへ走り、釜とのこぎり、ホーキを持って娘と墓の掃除をした。

 何とも言えない充実感を感じた。

 めんどくさいはずなのに、何かいいことありそうな気がした。「いやー墓参り、いい。」2017年に少し希望を持ち、わくわくすることができた。


 近頃、発達障害のある息子が、毎日を生き生きとして過ごしている。

しゃべれないことで、イライラするときもあるけど、非常に明るくなってきているような気がする。

3歳までたつことができなかったが、ぎくしゃくした歩き方ができるようになり、「よーいどん」の掛け声で、両手を挙げながら駐車場をかけることができた。彼は支援学校に入学したが、彼の環境にはちょうど良かった。一般の学校へいかなくてよかった。


 今回みたいに旅行を兼ねて遠くに行くと、お風呂に入るときだけ厄介だと感じることがある。小学校2年生だが、両手の握力があまりなく、パンツを自分で下すことができない。今だにおむつをしているので、周りの目線が気になる。


 知らないおじさんに、彼が話しかけるときがある。言葉足りない表現で

「あほー」

と言えるようになった。親として、非常にビビるときがある。ド関西人の私が、娘に対して怒るときの「あほ」と言っている言葉をどうやら覚え、表現できるようになったらしい。気を付けなければ。


 支援学校は子供たちの発達段階に合わせながら、できることを伸ばしていくことが望まれる。また、そう考えている教師がたくさんいる。

 一般での支援教育は健常者メインの考えであまり障がい者には向いていない環境であると私は思う。

 障がい者に対しての教育精度の高い支援学校での教えは、運動会、文化祭にとても力を入れている。表現力を身に着けるために、行われている授業も魅力あるものだ。


 特に、音楽の授業は感動することが多い。活き活きと過ごせる環境こそ障がい者支援教育であると私は思う。


 学校では最近、インクルーシブ教育とよく口にされているが、それこそが誰かが言ったレールであり、彼たちが望むものではない。共生社会とささやかれているが、


 実際は、強制社会ではないか、


 無理のある環境では、子どもたちの成長を促すことはできない。当然、障がいを持つ子どもがいる家庭では、自分の子どもが望まない毎日を望むはずがない。


 はやく、本当のことに気が付ける教育の現場環境を真剣に整備してほしい。


 教育現場では、各お偉いさんたちが、主観的ではなく間違った在来の考えを素直に正していくことが、安心して彼らの生活を支えることになる。

 そして、はじめて障がい者支援に繋がっていくと私は感じている。「そんな風にできればいいのにな、」と切に思う。子どもたちは、教師、(親)を含む自己満足の道具であってはならない。

 (私も気をつけなきゃ)


 私は若い時から、大工の修行をして、職人になった。

 木造住宅を建ててきた。

 ずっと同じことをすることが苦手ですぐに嫌になったが。10年以上は頑張った。


 様々な社会環境で仕事をしてきた。


 貿易の仕事をしたり、様々な仕事を手掛けてきたこともある。



 32歳になって大学に通うと見えなかったことも少し、見えるようになってきた。


 人は生きるために働かなければならない。それはわかっている。しかし、働くということに執着することで、大切な自分の人生を棒に振るのは嫌だ。


 日本人は、とにかくまじめで仕事ばかりしている。(いいことでもあるが)


 自分にとって、一度しかない人生をどう、使うかは人の勝手である。と、ともに、限りある人生は時間との戦いでもある。


 私は何かに夢中になることは得意だ。しかし、大切なことに気が付かないで毎日を過ごしてきた時間も長かった。



 45歳 人生はあっという間だった。母が亡くなったのは50歳。私のどこか気持ちの中では、あと5年しかない。追いつけるだろうか。追い越せるといいな。父が亡くなったのは56歳。

 授かったこの命を精一杯楽しんでみたい。


 妻の母に、そろそろお墓を建ててほしいと言われた。妻は、「お墓を建てたら、いやな予感がする」と言っていた。


明日、大阪に戻るつもりだ。


妹に、来年はどんな年にしたい?と聞くと、


 「なるようにしかならん」と言っていた。聞いてる私自身、毎日がどうなるか不安だ。だけど不安はいつも楽しみもつれてくる。


 今度はどのような未来が私にやってくるのだろうと考えると、また、わくわくする。人生は帳尻が会うようになっていると私は信じたい。

 悲しみが多いほど、小さな幸せに気づくことができる。時には、ぼーっとする時間もほしいし、何も考えたくないときだってある。


 結婚して15年目になる。振り返る間もなく過ごしてきた。年を取るのはあっという間だ。一人目の娘は早産で生まれてきて一週間でこの世を去った。


 次に生まれた娘は、来年小学校6年生になる。料理も洗い物もこなせるようになってきた。少し頼もしいところがある。小学校ではごく普通の立ち位置にいて、平凡な子どもに感じる。障がい者の弟の面倒や、一番下の女の子の面倒をよく見てくれている。

ありがたい。


 一番下の女の子は愛嬌があり、おさげに私の顔を持つ。


 性格的に、私にとても似ている。波乱万丈な生き方をするのかどうかはわからないが、人生を楽しんでもらいたい。


 女の子2人、男の子1人、やがて長男の障がいが、引っかかって彼女たちの人生に何も起きないことを切に願う。


私は小さいころ、家族はずっと一緒に過ごせると勘違いしてきた。


家族ほど暖かく、ほっとする環境はない。


 しかし、永遠もまた存在しない。



 2017年私はまた、新しい世界を見てみたいと考えている。退職届を出し、小学校1年生になる一番下の娘の安全を見守り、できるだけ家で働けるようにしようと考えている。(不安と希望)


 私は自分のことばかりをいつも考えてきたが、これからは、娘の時間も大切にしてあげたい。

少し、気が付いたことがある。夫婦二人ともよく似た職業では、子どもたちの安心を提供するどころか、不安な毎日しか与えてこれなかったと感じている。

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