キセキ

著者: 成澤 郁

 「先輩、少し資料探しに出て来てもいいですか?煮詰まっちゃって…図書館と本屋あたり見てきたいんですけど…。」

 女は隣のデスクの二年先輩の女上司へそう告げた。

 「いいよー。少し休憩した方がいいしね。」

 そう言って先輩は片目を瞑って見せた。

 「ハハハ…スミマセン…でも、煮詰まってるのは本当ですよ!」

 コートを羽織ってロッカーからバックを取り出すと女は足早に会社を出た。

 会社が全面禁煙になってから、確かに仕事の効率は上がったかも知れないが…どうもコーヒーを飲んだだけでは気分転換にならないと思うことも多い。

 女は会社のビルのすぐ隣の百貨店内にある本屋をブラブラと一周し資料になりそうな雑誌を数冊と以前から気になっていた小説を一冊手に取り

「これくらい構わないよね!」

そう言って舌を出すとレジへ向かった

「領収書、お願いします」

 女はその足でエレベーターの前に立ち『上がる』ボタンを押した。いつものようにその百貨店の屋上に行くつもりだった。

 屋上へ到着しエレベーターを降りると小さなペットショップの前を通り、ガラスの扉を開けて外へ出た。

 大きな排気用のファンが回る隣のビルや、薬局の電光掲示板などに囲まれたその広い屋上スペースには、子供用のちょっとした遊具や人工芝が敷かれておりベンチも数カ所設置してある。

 女は迷わず一台の自動販売機へ向かいブラックの缶コーヒーを購入した。コーヒーを手にすぐ脇のベンチに腰を下ろすと

「フゥー…」と大きく息を漏らした後、持ってきたバックの中から黒いエナメル製のタバコケースを取り出した。

「これこれ…やっぱ休憩はこれがないとね~、先輩にはお見通しだったか…」

女はメンソール系のタバコを一本取りだしライターで火を付けると、目を細めて一口吸い込み、大げさに目を大きく開き一気に煙を吐き出した。足を組み直し辺りを見回すと、珍しい…今日は他に誰も居ないようだ。いつもなら数組の親子連れや散歩中と思われる老人夫婦がいるのだが…。

 タバコを一本吸い終わり、コーヒーをひとくちゴクリと飲み込むと再びバックを開き、先ほど経費で購入した小説を取り出しパラパラと捲りだした。

「この作家…面白いよなぁ…」

そう言いながら女がもう一本のタバコに火を付けたとき

ガチャ

とガラスの扉が開く音がした。目をやると小さな男の子を連れた母親が遊具目当てに遊びに来たようだ。女はタバコに目をやったが遊具がある場所とは少し離れているし大丈夫だろうと、気にせず吸い始めた。

 小説は最初の数行からとても引き込まれる内容だったが、なにしろ今は仕事中である。後ろ髪を引かれながらもバックに本をしまうと、半分無くなったタバコをふかしながらぼんやりと先ほどの親子を眺めていた。

 ふ~ん…ここへ来る親子連れは大抵数組のママ友?と一緒に遊びに来ているのにあの人は一人なんだな…まぁ別に…楽しそうだし、今日はたまたま一人なんだろう。

 しかし、子供の服といったら!キャラクターものだね…私がもし母親になったら、キャラものの服だけは着せないと思うよな~…よく見りゃ…お母さんもスッピンか?服装もあれじゃ…部屋着と変わらないね…。あ~ぁ~…何が楽しくてあんなに笑ってるんだろ…、子供さんもまだろくに話せてないじゃん。

 でも…なんか楽しそうだね。

 私もいつか?……。

 ナイナイ!!!あるわけ無いよなぁ~。女だてらにこんな徹夜ばっかりの仕事じゃ子供なんて無理無理~。

 女はそんな事を考えながらひとり苦笑して

「最後の一本!吸い納め!!」と言って三本目のタバコに火を付けた。

 そう言えば最近生理もごぶさただなぁ…。

 医者…行った方がいいのかな…。

 なにげなく下腹部に目を落とした後、再び先ほどの親子に目を戻し幼い男の子を見た。

 寒さでほっぺたも赤く染まり顔も丸々としていていかにも健康優良児といった感じだ。キャッキャと言って良く笑う顔はよく見ればとても可愛い顔をしている。

 女は火を付けたばかりのタバコを見ると、口をへの字に曲げて灰皿に押しつけて火を消した。そして、バックからグロスを取り出すと、タバコを吸ったせいで取れてしまった唇にたっぷりと塗り、勢いよく立ち上がるとガラスの扉へ向かった。

 すると、先ほどの親子もそろそろ帰る様子でこちらへ向かってくる。

 女はさりげなく視線をそらすと歩みを緩めた。

 前を歩く親子に後から付いていくかたちとなった。

 女がふと親子の足下へ目をやると

「あっ…」

母親の方が見覚えのあるスニーカーを履いていた。非常に年季が入ってボロボロだが、女が最近休日を利用して日頃の憂さ晴らしを兼ねて派手にショッピングを楽しんだときに購入したスニーカーと一緒だった。

 あの白い革に緑色のラインが入ったおしゃれスニーカーも…ここまでボロボロになるか…。手入れしないとあぁなるよな~、気をつけないと…。

 そう考えながら歩いていると

ポトッ

と、母親の持っていたバックから何かが落ちたようだ。

 女は駆け寄って落ちていたものを拾い、声をかけた。

「スミマセン、これ落ちましたよ」そう言って手の中のものを見ると、なにやらベタベタとアイスクリームのような汚れの付いたハンドタオルだった。しかし、汚れを気にする前に女は、これもまた自分が持っているハンドタオルと一緒だということの方に気を取られていた。

 非常に年季が入ってはいたが…。

 赤いタオル地に細かい白色の水玉模様…。

「あのぉ…すみません、拾っていただいてありがとうございます汚いのに、ほんと、スミマセン…。」

 母親は恐縮した様子で何度も女に向かってお辞儀をした。

「いえいえ!大丈夫ですよ!!お子さん、可愛いですね…」

子供が苦手な女は精一杯笑顔をつくると、男の子の方を見た。

 その男の子はジィーーーっと女を見つめ返すと恥ずかしそうに、母親の後ろに隠れた。

 母親は、また恐縮した様子でペコリと頭を下げ

「すみませんっ!ごあいさつしなさい!ありがとうでしょ!?すみません……」と言うとガラス扉を開けて中へ入っていった。

 そして母親は、一瞬エレベーターの前で止まりかけたがそのまま素通りしてエレベーター脇の非常用階段へ向かうと、子供をせかしながら足早に階段を下りていった。

 親子の姿が見えなくなった後、薄暗い階段の奥から

「こらっ!キセキ!!なんでごあいさつも出来ないの~ママ恥ずかしいでしょ!!」

というかすかな声が聞こえてきた。

「キセキ…っていう名前なのかな…あの子…変わってる名前だな、フフフ。」

女はそう言うとエレベーターの『下りる』ボタンを押した。

「あれ?…でも…あのお母さん、何で階段降りていく前に、振り返って私の顔見つめた後ニッコリ笑ったんだろう…妙に、懐かしむようなあの顔…。

気のせいかな……。

 ヤッベー!!こんな時間だ…先輩に怒られる~!!早く早くぅ~~!!」

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「ほらほら!逃げないでさっさとジャンバー着てよ~!ママ一人で行っちゃうからね!」

 女はフードにボアが付いた子供用の青いジャンバーを広げ、部屋の中を笑いながら逃げ回る彼女の一人息子を追いかけていた。

 今日もいつものように近くの百貨店の屋上へ息子と二人で遊びに行くつもりだった。

 その百貨店の屋上には子供用のちょっとした遊具スペースが設置してあるのだ。

 昔はその百貨店も随分賑わっていたが、最近国道沿いに新しいショッピングモールが建設されてからというもの、人の流れが一気にそちらへ向いてしまったようで、今ではその屋上スペースも穴場的存在になりつつあった。女も何度か新しいショッピングモールへは行ったが、やはり若い頃から行き慣れている、あの、屋上スペースがとても居心地が良く好きだった。

 逃げ回っていた息子は部屋の隅に掛けてあった水色のジャケットを掴むと、ジャケットを指さしながら母親をにらみ、たどたどしい口調で

「パンパンマン!!」

と叫んだ。

「んも~…またそれ着ていくの?ママはこっちの青いジャンバー着て欲しいんだけどなぁー…しかたないか…じゃあ、アンパンマン着て早く行こう!」

もともとキャラクターものの洋服は何だかいかにも…な感じがしてあまり買わないようにしていたがこのジャケットだけはお店で息子がギュッと掴んで離そうとしなかったのでしぶしぶ購入したものだった。

 しかし結局ほぼ毎日、息子の要求に負けて外出時にはこのキャラクタージャケットを着せていくハメになっている…。

 着せてみると、なかなか可愛いものだ…キャラクターものも…。

 女は急いで自分の身支度も整えた。動きやすいトレーナーの上にナイロン製のジャンバーを羽織り、フリースの部屋着用ズボンから、ドロ汚れの取れやすいナイロン製のジャージパンツに履きかえると、洗面所へ向かった。

 少しの間鏡を覗くと

「お化粧は…まいっか~…誰に会うわけでもないし!」

そうつぶやいてから、乾燥防止用の薬用リップを唇に塗った。

 息子をせかして玄関へ向かうと、いつものスニーカーに足を入れた。このスニーカーは女がまだ独身の頃に購入したものだが、履きやすいので今までかなりの頻度で履き続けてきた。購入したばかりの頃は白い革に汚れが付けば、こまめに磨いていたのだが…息子が出来てからというもの何かの拍子にひどく汚れたのをきっかけに”汚れても構わない靴”として活躍しているのだった。

 百貨店の駐車場に車を止めると、慣れた足取りで親子は店内へと入っていった。

 店内も昔と比較すると随分様変わりしていた。細かく区切られていた店舗スペースは壁を取り払われ、一店舗一店舗が子供用カートも通りやすい用に広々と作り直されていた。入っている店舗も、女がOLをしていた時代と比べるとまるっきり違う店舗に変わっていた。昔はビジネスマン向けに大型の書店やオフィス文具店なども入っていたが、今はどちらかというと20代~30代女性向けのファッション店舗がメインとなっていた。

 大型ショッピングモールが近くに出来たのもあってか百貨店側も工夫しないと生き残れない時代のようだ。

 女は屋上へ向かう前に、いつものようにファーストフードスペース内のアイスクリーム屋に立ち寄ると

「ストロベリーアイスカップでひとつお願いします。」と注文した。

 口の周りじゅう…いや、顔中ベタベタにする勢いでアイスクリームを食べる息子の顔を、用意してきたハンドタオルでゴシゴシと拭くと、そのままバックに無造作に詰め込み店を出た。

 店を出ると右手の少し奥まったところに屋上へと続くエレベーターがある。この一台以外のエレベーターは全て、広くて使いやすいものに新設されていたが、設計上の都合なのか唯一屋上へ行くことの出来るこのエレベーターと、すぐ脇にある非常用階段だけは昔から変わっていなかった。

 屋上へ到着しエレベーターを降りると、小さなペットショップの前を通った。このペットショップも昔から変わらずここにある。息子はここで子犬と戯れることが出来ることもあって、この屋上スペースが大好きなようだ。

 顔なじみとなった店主としばらく雑談した後、ガラスの扉を開けて外へ出た。

 大きな排気用のファンが回る隣のビルや、薬局の電光掲示板などに囲まれたその広い屋上スペースは、そこだけ時間の流れが止まってしまったかのように、昔からなにも変わらずそこにあった。

 まっすぐ遊具へ向かう途中、女は奥のベンチに人がいることに気付いた。

 珍しい…今や穴場的となっていたこの屋上スペースでは、めったに人と出会うことが無くなっていたのだ。

「この近くのOLさんかな…。」女は気付かれないようにベンチでタバコを吸う女性を観察した。

 黒いパンツスーツを着てタバコをふかしながらぼんやりと空を見つめるその女性は、お化粧もバッチリ決まっていたが…なんだかとても疲れているような、何と言っていいのか…周りの空気の中に消え入ってしまいそうなそんな雰囲気だった。

 女は幼い息子と一緒になってキャァキャァと笑いながら遊具で遊びつつ、頭の端で自分のOL時代の事を思い出していた。

 駆け出しの広告デザイナーをしていた女は、毎日が戦いだった。クライアントの要求にこたえるため毎日必死にアイデアを絞り出し、徹夜で企画書を作り上げる作業に没頭する日々…。

 食事も殆どコンビニ弁当や、カップラーメンをすすって済ませていた。

 自分の体も顧みず、気付いた頃には…生理も順調に来なくなっていた。

 そんなことを思い出しながら、足下で無邪気に遊ぶ息子を見ると、女は

何か眩しいものを見るかのように目を細め

「ママね~…君のことがだ~い好きだよ!!」

そう言うと息子を思いっきり抱きしめた。

 息子は突然抱きしめられてびっくりしていたが、嬉しそうにキャッキャと声をあげて笑った。

 あの頃、女は自分にこんなに可愛い子供が出来るなんて夢にも思っていなかった。

 何かのきっかけで…何だっただろう、思い出せない…。とにかく何かふとしたことがきっかけで、かなりのヘビースモーカーだったにも関わらずタバコをやめて、婦人科の病院へも通いだしたのだった。

 妊娠をきっかけに思い切って会社を退職し…

「今じゃスッピンオーライの専業主婦だもんね~!!そろそろ帰ろっかー…」

そう言って立ち上がると、息子と手を繋ぎ歩き出した。

 すると、奥にいたOLもそろそろ帰る様子でこちらへ向かってくる。

 女はさりげなく視線をそらすと、息子の手を引き歩みを早めたので、女性の先を歩くかたちとなった。

 すると、後ろから突然

「スミマセン、これ落ちましたよ。」と女性に声を掛けられた。

 振り返ると女性がハンドタオルを差し出していた。

 さっきアイスクリーム屋で息子のベタベタを拭いたタオルだ…。女は身奇麗にしている女性が自分の年季の入った汚いタオルを持っていることに対し、とても申し訳ない気分になった。

 汚いタオルをまじまじと見つめている女性に

「あのぉ~…すみません…拾っていただいてありがとうございます。汚いのに、ほんとスミマセン…。」

と言いながら恐縮した様子で何度もお辞儀をした。

 女性は汚れなど気にする様子もなく、明るく笑って

「いえいえ!大丈夫ですよ!!お子さん、可愛いですね…。」

と言ってくれたので、女はホッとして息子を見た。

 息子を見ると、先程までのはしゃいだ笑顔が消え、真顔で目の前の女性をジーっと見つめている。いや、見つめるというより睨むと言ったほうがいいくらいの視線である。すると今度は、急に怯えたような表情に変わったかと思うと母親の後ろへサッと隠れてしまった。

 女は息子の失礼な態度に驚き、先程よりもさらに恐縮して頭を下げることになった。

 どうしたのだろうか…。普段人見知りはあまりしない子なのに。特に若い女性に対してこんな態度をとったのは初めてだ。そう思いながら出口のガラス扉を開けて中へ入っていった。

 足早にエレベーターへ向かい、扉の前で立ち止まりかけたが、女性と狭い個室で一緒になることを考えるととても気まずい気がしたので、そのまま素通りしてすぐ脇の非常用階段で降りることにした。

 息子の手を引き階段を一段降りようとした

その時だ

一瞬、何かが頭の中をよぎった。何だろう…随分昔に一度こんなことがあった…とても懐かしいような温かい感情が女の胸の奥にあふれてきた。それが何か分からなかったが、女は何気なく振り替えった。

 そこには、今ガラス扉を開けて入ってきたばかりの女性が居た。

 彼女を見つめると、再び不思議と温かい気持ちが溢れだしてきて女は無意識に微笑んでいたのだった。

いつもはエレベーターで降りているのに今日は何で階段なんだ。とでも言いたそうな不満げな息子の顔を見ながら、女は大げさに目を大きく開き、頬っぺたをプクッと膨らますと息子のおでこをチョンと突き

「こらっ!キセキ!!なんでごあいさつも出来ないの~ママ恥ずかしいでしょ!!」

そう言って笑いながら、何故かとても幸せな気持ちで階段を降りていったのだった。

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