『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第3章「売り込み事始め」

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その1「自力の営業活動、始まる」

イラストの活動を初めて3年目、この頃には描いてきた作品も
だいぶ貯まってきました。なので少しずつ、売り込みに
行く様になりました。
初めは編プロのスタッフさんと一緒に。その内に自分一人で。
営業用の作品ファイルを作成し、名刺を持って
前もって電話で予約した日時に、出版社さんに出向きました。

今は直に作品ファイルを見てくれる所は減った様ですが、
この当時は連絡をするとほとんどの方が忙しい中でも
時間をとって、丁寧に作品を見てくれました。
時々、先方が約束を忘れてしまい社内に居なかった…
なんて事もありましたが、大体の方はとても親切でした。

こうして持ち込んだ作品を、見て下さった方の反応は
本当に様々ではありましたが、第一声は共通して
「もうお仕事はされてるんですよね?」と言う言葉でした。
仕事経験者か否かで、恐らく対応の仕方も変わってくる
のかもしれません。
また作品を見て下さった編集者さんには、様々な方がいましたが
不思議な事に作品を褒めて下さった方よりも
初対面なのに厳しい意見をズバズバ言い放った人の方が
深く印象に残っているし、その意見のお陰で作品が
良くなったりしました。良薬は口に苦しとは本当だなと
営業のたびに思わされました。

特に私の場合「仕事をした」と言っても、基本的な絵の勉強を
していないので、まだまだ仕事の進行の具合も、作品の技術も
素人同然でした。仮に私が編集者だったら、この程度のレベルの
絵描きが来たら面倒くさがって、とりあえず笑顔でファイルだけ預かって
仕事なんて回さないかもしれません。
だから厳しい意見を言ってくれた人は、あの時は図星なだけに
すごく頭に来ましたが、本当はすごくいい人だったんだなと
思う事にしています。

例えば、ある有名女性誌の編集者さんは「今後のあなたのために、
あえて言わせて貰いますが」と前置きして、ダメな点を細かい箇所から
徹底的にビシバシ指摘した上で、私の姿を上から下まで見て
「ファッションも大事ですよ。特に初めての持ち込みでは
全てのセンスが見られます!どんな小さな箇所も手を抜かない事!」
と、イラスト以外の事まで訂正されました。
確かにその日は台風が間近に迫っていたので、濡れても
いいような服を着ていたけれど、そんな自分に対する甘えは
相手には通用しないと言う事を、突き付けられた瞬間でした。

売り込み=面接=第一印象がすごく大事。
その後、その方とはもうお会いする機会はありませんでした。
だとすると営業はある意味「一期一会」です。
その一回のイメージが作品と共に、深く印象付けられる。
「お洒落な人はお洒落な絵を描く」と、その後も
別のアート・ディレクターさんから言われましたが
作品も大事だけど、作家の見た目も大事な業界だと言う事を
痛感しました。

そしてその痛手を教訓に、それからはどんな些細な
打ち合わせにも、きちんとした格好で化粧をして
行くようにしました。するとラフな格好で営業をしていた時より
驚くほど相手の対応が変わります。
イラストレーターと言うのは、絵を上手く書く以外に
営業もしなくてはいけない職業だから、色々な事を
気をつけないといけないんだなぁ…と学びました。

他にも、編集者の方から「ただ好きな作品を持ってきて
見せるんじゃなくて、うちの雑誌に合った企画を考えて
それにイラストをつけてきた方が、わかりやすい」と言われた
事もありました。
それは確かにプレゼンとしては正しいのですが、
でもその雑誌から確実に仕事を頂けるかどうか
わからないのに、その雑誌でしか通用しない作品を
作って持っていくと言うのは、時間がかかるし面倒です。

逆にそれぐらいの誠意を持って「一緒に仕事がしたい」と言う
姿勢を見せなさいと言う事なのかもしれませんが。
試しにその助言を素直に受けて、実際にある雑誌用の
作品を作ってから営業に行くと、本当に打ち合わせがとても
スムーズに行き、結果的に連載の仕事を頂けました。

ただ上記の様に「売り込み=即お仕事」と言うパターンはごく稀です。
売り込みしても、その後の連絡が全くなかったり、忙しいからと
営業そのものを断られてしまったり、と言う事が
圧倒的に多いです。
また営業用の作品ファイルを作るのも、結構なお金と手間が
かかるモノです。まずある程度の枚数の作品を描いて
それをコピーしてファイルを作って、営業先に連絡して
お会いする日程を調整して…。などなど。

なのに30件ぐらい営業して、全て玉砕なんて事もざらです。
逆に仕事を頂けても、これらの手間が原稿料で埋められるか
と言うと、そうではない場合も多いです。
こうして自分の足で営業を初めてみると、改めて
編プロでどんどん仕事を貰えていた事の、ありがたさを
痛感しました。


その2「編プロでの最後の仕事」

この年、所属していた編集プロダクションでは、
ある企業を紹介する単行本を手掛けていました。
私もデータマン兼イラストレーターとして、この企画に
参加しました。(データマンと言うのは、本を実際に執筆する
ライターに代わって各施設を調べたり、資料を得たりする
情報収集係のような仕事です)
これは私が初めて手掛ける「単行本」作成と言う事もあり、
作業自体はとても活気に満ちていましたが、結果として
この作業が編プロでの最後の仕事になりました。

理由は編プロの社長さんの作品の好み(方針)と
自分が描きたい絵とのギャップが増し、
とうとう折り合いがつかなくなったからです。
本が完成した秋口、同時に某起業誌に連載していた
漫画の作業も終了しました。そしてそれを機に
社長さんのお子さんのベビーシッターも辞めました。
するとその日を境に、編プロからの仕事依頼もぱったり
来なくなり、事務所の人との関係も次第に薄れていきました。

私は「イラストレーターになりたい」と願ったら、実際になれた。
そしてこの編プロで認めてもらえて、どんどん仕事をこなせた。
イラスト以外の仕事も行えたし、自分には才能が
あるんじゃないかと、若干自惚れていました。
でも実際は、まだ右も左もわからない駆け出しの
素人だったから、体よく使われていただけだったのかも
しれません。社長さんのベビーシッターをしていたから
温情で仕事を多くもらえていたけれど、それは私の真の
実力ではありませんでした。
その証拠に、シッターを辞めたら足元にかけてあった
はしごを外されたかのように、仕事を干されてゴロゴロと
落ちていきました。

けれどこの小さな編プロでは、本当に色々な事を
教えて貰いました。なので最後はフェードアウトした形で
終わってしまいましたが、そこで過ごした日々には感謝しています。
あの編プロがあったから、イラストレーターになれたのです。

それから数年後、事務所の近くを通る機会がありました。
けれど、すでにその事務所は撤退していて別の店舗が
入っていました。ちょっと寂しい反面、あの嵐のような
スタートからの2年間は、本当に絶妙なタイミングで
生じたんだな…と、その出会いの偶然を改めて不思議に思いました。

しかし感傷に浸る間はありません。
鳴かず飛ばずの売り込み合戦をしながら、これからは完全に
自分個人の力で活動しなくてはいけない日々の始まりです。
希望よりも、不安の方が大きかったけれど…
幸いこの時、仕事の依頼は割とすぐにやってきました。

その3「フリーでの初めてのお仕事」

1998年10月。
編プロを離れてわずか3週間後、営業に出かけた
教材系の雑誌社から、仕事依頼の電話を頂きました。
フリーでの初めてのお仕事です。

売り込みの成果が、こんなにも早く叶うのかと
その事の方が驚きでした。今にして思うと、この初仕事が
割としっかりした企業だった事は、とっても幸運だったと思います。
しかし同時に、私の態度を増長させる結果にもなりました。
「やっぱり売り込みをすれば、仕事はすぐ取れるんだな」と、
またイラスト道を甘く見る事に…。


生活のために仕事量を増やそうと思い、先方の要望に合わせて
色々な作風のものを描きました。すると実際に
活動の幅も広がり、お仕事も沢山取れました。
そして気がつくと、あれほど疑問を感じて反発していた
編プロの方向性に寄り添っている自分がいました。
それでも「仕事が来ているなら、これでいいのだろう」と、
違和感はあまりありませんでしたが…。
仕事はこの年をピークに、徐々に減少傾向をたどっていきました。

なぜ仕事が来なくなってしまったのか。その原因を私が知るのは
もう少し後の事になります。

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